ダリアの花言葉:『裏切り』
薄っぺらい微笑みを浮かべるのが得意なこどもだった。
人好きのする笑顔という仮面を被り、開いた心の隙間から他者の内面を窺い探る。
誰にでも笑顔を向け、誰にでも自分を取り繕うことができる。
外面を取り繕い、内面を説き伏せて、ただその場の空気というありもしないものを維持する機械となり果てた。
誰かがこっちを見るとき、その目に映るのはきれいなお人形さんのような少女でなければならない。
誰かが『ボク』という存在を窺い知ろうとするとき、その心に浮かぶのは、ただ美しく、ただ飾り物のように煌めいた『百日ダリア』という記号でなければならない。
それがボクの、百日ダリアの生き方だった。
過ぎ去った雑音と玉音が夢中に残響する。
『人間は外見じゃない。中身だよ』
『第一印象ですべてが決まるわけじゃない。重要なのは内面。その人が本当はどういう人間かということだよ』
『うらやましいなぁ……。そんなきれいな金髪。わたしもそんな風に生まれたかったなぁ』
『見ろよー、変な髪。なんでこんな色してんだ? 病気なんじゃねえの?』
『ダリア、お父さんはお前を深く愛している。髪の色だとか、目の色だとか、そんなものは関係ない。お前はわたしの娘だ。大丈夫。心配しなくていい。本当のお前を見てくれる人間が必ず、いつか現れる』
『お前のお母さんは悪い女だ。お前のお父さんの財産をむしり取り、お前を生んですぐ、姿をくらました。金が目当ての売女だった。お前はね……売女の娘なんだよ……汚らわしい』
『……百日さん。だめじゃない。将来の夢にこんなこと書いちゃあ……。みんな死ね、だなんて、そんなひどいこと、思っちゃいけません』
『……おじいちゃんはね。たとえ周りがなんと言おうと、お前は生まれてきてよかったと、そう思っているんだよ』
『……あんた調子乗ってんでしょ。ちょっと顔がかわいいからって、みんなからちやほやされて……、何様だと思ってんのよ』
『死ねよ。お前』
『かわいい~』
『す、好きです! 僕と付き合ってください!』
『か~わ~い~い~』
『ねえ、なんでお前、いつも笑ってんの。何がおかしいわけ? 正直、気持ち悪いよ』
『おはよう。百日さん』
『さようなら。百日さん』
『ねえ、隣のクラスの○○君が百日さんのこと好きだって』
『ええ~、あいつ、けっこう顔かっこいいよね。よかったね。百日さん』
『え? ももちゃん? どうしてそんな呼び方……そっか。うん、わかった』
『俺実はお前にじゃなくて……本当はあいつに……』
『どうした? ダリア。何か、つらいことでもあったのか?』
『……なんだい。売女の娘が、あんた、まだ生きてたのかい……』
『ねえ、その髪きれいね。少し触ってもいいかしら』
『ももちゃん。大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど』
『ねえ、百日さん、ひどいよねえ。日比原の奴。あなたを振って、あんな暗い子になんて……』
『……お前なんか、ただの悪魔だ!』
『……ももちゃん?』
『えっと……ももちゃん、日比原君のことは……』
『ももちゃん、わたし、どうしたら……』
『……ダリア? ……お前っ……!? どうしてこんな……手が血だらけに……自分で切ったのか!? ……なんて馬鹿なことをっ……!?』
『……ももちゃん……どうして?』
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさいうるさい。うるさいうるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい――黙れ。
黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。
黙れ。
『……すまない。ダリア……。本当にすまなかった……』
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
「黙れって、言ってんだよッッッ!!!」
ボクは髪をかきむしった。
乱暴に手を動かすと共に、両足を振り上げる。
背中が支えを失う感覚があって、ベッドから転げ落ちる。
強く左肩を打った。
「……んっぅ」
最悪の気分と共に目を開ければ、小さな自室の天井が目の前に広がっている。
ボクは体を起こして、携帯に手を伸ばす。
起動すると、今は午前五時半だった。
「……くそっ」
くだらない夢を見たせいで、睡眠時間を無駄にした。
生きてきた十五年という時間の中の膿のほとんどを圧縮したような、目が覚めても続いている悪夢。
七年前からずっと見続けているこの夢は、ボクの心の事情など何ら忖度せずにずっとこちらに付きまとってくる。
もっとも、最後の言葉だけはつい最近耳にしたものだったが。
帰国するその寸前、父に言われたあの言葉だけは。
日本を離れてフランスに移り住んでいても、ボクの寝床を侵食する悪夢のような現実と現実のような悪夢だけは何ら変わりはしなかった。
見るたびに動悸がし、息切れし、冷や汗をかいて目を覚ます。
その繰り返しだった悪夢の夜も、しかし、七年の間に多少は慣れ、動じない心で受け止めることができるようになっていたはずだった。
なのに――
「なんで今更こんな夢に」
ぽつりとつぶやく。
思ったよりも弱気な声が鼓膜を震わせて、たまらず下唇を噛みしめた。
自分自身の弱気な声など、反吐が出るほど憎々しい。
――どうしてボクはこんな夢にこんなに心震わせられているのだろうか。
自分の心でありながら、その心の動きに苛立ちを覚える。
過ぎ去った過去に、一体ボクの心は何を思っているのか。
「……あー、むかつく」
夢にうろたえ、自分に苛立つ。
こんな気分で一日を始めるのはごめんこうむりたい。
できるなら、二度寝をして記憶をリセットしたいところだったが、ボクの体質ではそれも無理だ。
ボクは一度目を覚ますと、もうその日の夜になるまで何をしても眠れなくなる。
たとえどんなに眠くても、こんな早朝に目を覚ましても、どうやったって二度寝はできない。
だから、寝たくてももう一度、布団に入るのは時間の無駄でしかないのだ。
うつろな瞳で、部屋の中を見渡す。
慌ただしく帰国し、無理をして高校に編入したせいで、未だ引っ越しの片付けさえ終わっていない。
ところどころに開きかけの段ボールが積み重なっていた。
「……くそが」
もういちど悪態をつき、膝をついて立ち上がった。
身に着けていたキャミソールとショーツを脱ぎ捨てる。
昨日の分の洗濯物と合わせて洗濯機に投げ込んだ。
洗剤を入れ、洗濯機を稼働する。
そのまま服を一切、身に着けることなく、台所に立った。
外ではともかく、家の中で服を着るのはたまらなく腹が立つ。
何で誰に見せるわけでもないのに、自分の体を着飾った布で包み込んでなくちゃいけないんだ。
めんどくさいし、じゃまくさい。
どうして人類は服なんていう余計なものを発明したんだよ。
全員、裸でいいだろうに。
女も、男も、こどもも、老人も、みんな裸でいろよ。
服なんて着るから、くだらない体面なんて構築されるんだよ。
フライパンを熱し、油を引き、卵を落とした。
食パンをトースターに入れて焼く。
五時半に食事を取るのは早すぎる気もするが、今はそれもどうでもいい。
腹が減っているのだから、今食べればいい。それだけの話だ。
数分で、卵の火の通り具合がちょうどよくなる。
「……」
フローリングの上に置いたクッションに腰を下ろし、テーブルの上に食事を並べて、十字を切り、手を合わせた。
「天にまします我らが父よ。今日この朝も、今日この日も、我らが肉体を構成する糧をいただきましたことを、心より感謝申し上げます。アーメン」
挙げた祈りは自己流のものだ。
海外にいることが多い父は自然とキリスト教に触れる機会が多くなり、その結果、仏教徒がキリスト教徒に改宗したらしいが、深くは知らない。
ただ、こどものころから、食事を取る前には神様に感謝をしなさいと、口を酸っぱくして言われていたため、自己流ではあっても欠かさずお祈りをしている。
いろいろと破綻した自分であっても、まだ普通の人間のような振舞いを行うことに一種のおかしみを感じる。けれど、習慣というものは恐ろしいものだ。それでも、続けてしまうし、やめようとも思わない。
また、こんなボクでも毎日ごはんが食べられることはそれなりにすごいことだと思うので、それでもやはり神に感謝はする。
「あはっ……」
渇いた笑いが零れ落ちた。
もし神様が裸で食事の前にお祈りをしている少女を見たら何を思うのかを考えると、ちょっと面白くなってしまった。
食事を終えると、後片付けもそこそこに、ベッドの上に寝転がる。
まだ六時さえ回っていない。こうしてごろごろとしていても、罰は当たらないはずだ。
「……」
先の金曜日の夜を思う。
相田涼を陥れる寸前のところまで行き、結局はそれが失敗に終わったことを。
あの男はボクに似ている。
中身は空っぽなのに、必死に外面を取り繕おうとするその様がボクに似ていると、初めて会ったときに思った。
自分にないものを無様にも追い求め、そうして得られたものを自分の愚かしさゆえにすべて失う。そんな人間のふりをする人形に、ボクもまた似ている。
だから、奴の気持ちが十分すぎるほどにわかったし、その弱点を突くこともできた。
奴を追い詰め、奴を誘惑し、誘導し、ボクの思う通りに動かすことも可能だと思った。
九々葉藍との微妙な距離感を保っていたあのときのあいつの気持ちなど、同じような気持ちを何年も抱えてきたボクだからこそよくわかったのだ。
実際奴の扇動は寸前までは上手く行き、そして、九々葉藍のほんの少しの言葉によって頓挫させられた。
九々葉藍はすごいと思う。
どうして普段はあんなに大人しい子が、場合によってはとてつもない行動力を発揮できるのだろう。
話に聞くところによると、相田涼をかばうために、自分の身を投げ出して奴に頬を殴られたということだった。
そんなことできる奴いるか?
少なくともボクは、好きな男のために自分の身を投げ出すことなんかできやしない。
三日前の金曜日だって、本当は九々葉藍を呼び出すつもりはなかった。
事が終わった後で、事後報告として九々葉藍にそれを知らせ、もう後戻りできなくなったところであいつらの関係を断つつもりだったのだ。
それを、でも、ボクの自分かわいさが邪魔をした。
好きでもない男に抱かれるのは、やはり嫌だと、思ってしまったのだ。
凌辱だなんだと、強い言葉を使い倒した果てがこれだと、笑えば笑え。
ボクは自分なんか見限っていたつもりだったけれど、それでも、どうしても捨てられないものはまだあったらしい。
処女がそんなに大事かと、自分を笑ってしまう。
心がこんなにも薄汚れていて、体の清廉潔白さに意味などあるものか。
海外にいた折、異性からのアプローチを何度か受けた。
向こうの男は恋に貪欲だ。悪く言えば、しつこい。
適度に押し流しそうとしても、押し切られそうになる場面がいくつもあった。
その度に心底辟易し、その度に日本に大事な人がいるからと言ってどうにかごまかした。
嘘ではない。大事な人が男だなんて、一言も口にしていないのだから。
けれど、ボク自身が一番疑問に思っていたのさ。
なんで、ボクは九々葉藍が好きなんだろうって。
相田涼とほとんど同じく。
あんな大人しいだけに見える女の子の。
ちょっと実直さを旨としているだけの女の子の。
誰よりも他人の心に向き合おうとするだけの女の子の。
果たして何が好きなのだろうと。
「……あーもう」
でも、好きだった。恋愛対象として、というよりは、やはり友達として、だけど。
相田涼がうらやましい。ボクが男に生まれていれば、あの子といやらしいことができたのに。
あの子を喘がせ、あの子を貫き、あの子をわが物とすることもできたろうに、ちくしょう。
指先を腰骨の辺りに這わせ、それから股の間に滑らせる。
「……女の子、なんだよねえ」
ぷにぷにとしたその感触に、少しの男性らしさも感じられない。完全に女性のそれ。
当たり前だけど、ボクは女だ。
「ボク」とか言ってるけど女だ。
性同一性障害でもないし、同性愛者でもない。
けど、そうでなくても、同性にそういう気持ちを抱くことはある。
特に九々葉藍には。
それでもやはり、恋愛対象じゃあないのだけど。
「……普通に仲直りだけしてればよかったのかもね」
ぽつりと、何とはなしにつぶやいた言葉が、生活感に溢れた室内にこだましていく。
言ってしまった後で、そうすればよかったのかもしれないと本気で後悔している自分に気がついた。
九々葉藍に謝って、仲直りして、彼女の彼氏だとして相田涼を紹介され、そして、彼女の友達として仲良く学園生活を送っていく。
そんな日々が、ボクの行動次第で十分あり得た。
あの夏休みの最後だという日に相田涼に喧嘩を売らず、学校に入っても奴を陥れることを考えず、普通に藍のよき理解者として奴に接し、それなりに仲良くやっていればよかったのかもしれない。
そうしていれば、きっとあんな夢は見なかった。
あんな――苦しい夢は。
「……くそっ」
三度にわたって悪態をつく。
泣きたくなんてないのに、ぼろぼろと頬をそれは伝った。
「……ぐすっ」
泣き声なんて、こんなの誰にも聞かれたくない。
泣き顔なんて、誰にも見せたくない。
百日ダリアがそんな小さなことで泣くような奴だなんて、思われたくない。
でも――
「――寂しいよぉ。藍ちゃん……」
一人は嫌だよ。寂しいよ。つらいよ。苦しいよ。痛いよ。冷たいよ。
取り繕っても、仮面をつけても、強がっても、偽っても、一人はとっても寂しい。
どうして、ボクは一人なんだろう。
一人、なんだろうね。
ボクは頭がおかしいよ。
普通の人と価値観が違って、素のままでいると、どうしても浮いてしまうの。
見た目も日本人みたいじゃなくて、髪は金で、瞳は蒼い。
でも、どうしてそれだけで、一緒にいちゃいけないの?
どうしてそれだけのことで、友達になってくれないの?
どうしてみんな、ボクのこと、異物を見るような目で見るの?
寂しいよ。寂しい。
親しげに声をかけてよ。
優しく肩に手を置いてよ。
大切そうに手をつないでよ。
愛おしそうにボクを抱いてよ。
「……ボクはただ――」
温かく向かい入れて。
真正面から受け入れて。
心の底から認めて。
当然のように微笑んで。
「――ボクを愛してくれる誰かがほしかっただけなのに……」
一人は寂しいから。
だから、ボクは自分を愛してくれるたった一人の誰かを独占したかった。
その誰かと一緒に、一生を添い遂げたかった。
誰もボクを見なくてもいい。誰もボクを認めてくれなくてもいい。
ただ、その人だけがボクの本当を見ていてくれれば、それでよかったのに。
「……」
藍ちゃんは優しいから。
優しいから、ボクだけに優しくあってほしかっただけなのに……。
「独りよがりの独り占め」
独善的独占。偽悪的独善。独占的偽悪。
藍ちゃんからすべてを取り上げて、ボクだけ見てくれたら、それだけでよかったんだけど。
でも、それはきっと。
「百日ダリアを演じよう。ボクはそれを演じよう。傷つき、倒れ、伏せって、折れて、それでも演じて偽って、最後までボクは百日ダリアであり続ける。幼いころからの自分で自分にかけた呪いのように」
それはきっと、ガキのわがまま……なんだよね。
でも、ボクはガキだから。
最後までガキのわがままを貫き通してみせる。
相田涼。九々葉藍。
君たちがどんなに仲良く睦まじく愛睦まじくイチャイチャしくさったとしても、ボクはその仲を引き裂いてみせるさ。
ボクは百日ダリア。
ダリアの花言葉は『裏切り』。
友達を裏切るボクにふさわしい名前だろう?




