『優しさ』;慟哭。
九月六日。日曜日。
昨日は結局、ほとんど一日中、藍に一緒にいてもらい、看病をしてもらった。
添い寝はもちろん、お昼ご飯を作ってもらったし、なんだかんだで夕飯時まで彼女は我が家に滞在し、母が夕食を作る手伝いをし、うちの家族に交じって夕ご飯を食べた後、自分の家へと帰っていった。その際、父親に車を出させ、僕も同乗して彼女を家まで送ったのは言うまでもない。母も父も藍の気立てのよさというか、性質の清らかさを気に入ったらしく、とても好意的に彼女に接していた。
その姿に不満を覚えることはまったくないのだが、もはや藍との関係が完全に親公認の仲となったことに、言い知れない戦慄を覚える。
高校一年生の時分にして、僕の将来の嫁は決まってしまったとでもいうのだろうか。
まあ、それに対して嫌な気持ちは微塵もないのだが。
藍が好きすぎるほどに好きすぎる気持ちはこれから先、何があっても変わらないとの確信を今の僕は持てる。
もっとも、人生というものはそれでも、何が起こるかわからないから、本当の本当に絶対なんてことは言えないだろうが。
現に、一昨日までの僕の心身の状態が、数週間前の僕からは想像もできなかったように。
とにかく、今は今の自分を信じるしかないのだと、僕は藍から学んだのだ。彼女の生き姿そのものに、学んだのだ。
今日の僕の予定はすでに決定している。
藍とも昨日話した通り、栗原に僕自身の気持ちを伝える必要がある。
彼女の気持ちに応えることができないことを、非常に申し訳なく・・・思ってはダメか。それは何か違う気がする。
恋愛というものに対する価値観の未だ定まっていない高校生の僕であっても、好きではない女の子の気持ちに応えられないことを申し訳ないと述するのが、上手く言葉で表現できなくとも著しく何かを間違っていることはわかる。
どんなに相手がいい奴で、どんなに優しくされたところで、最終的に好きかどうかはまったくの別問題。義理と気持ちは別のこと、恩義と気持ちは別のこと、敬慕と恋慕は別のこと。明確に何が違うと語ることはできなくとも、やはり何かは違っているのだ。
僕は栗原の恋人にはなれない。彼女の言葉を借りるなら、彼女とずっと一緒にいることはできない。
それが僕の結論で、それが僕の答えだ。
即答できなかったことこそを申し訳なく思うことはあっても、気持ちそのものを申し訳なく思うことは許されない。
少なくとも、それは藍の気持ちも栗原の気持ちも裏切る行為。裏切る思考だ。
栗原には昨日の夕方の時点で、電話で連絡を取っておいた。
僕の「明日会えないか?」との誘いに対し、彼女は何かを尋ねることもなく、ただ「……わかった」とだけ答えた。
僕が指定したのは彼女の最寄り駅ではく、僕の最寄り駅。
これから彼女に伝えようとしていることの中身を考えれば、これは本来、僕の方から出向くべきことであるのはわかっている。
けれど、僕にはここでなければならない理由があった。
時間は午後一時。
三十分近く早くに駅に着いた僕は、こじんまりとしたその駅の外壁によりかかりながら栗原を待つ。
改札から続く出口の階段が見える位置で、彼女がそこに現れればすぐに確認できるように。
気持ちは決まっていても、気分は重く、体はそれにつられてやや気怠い。
それでも、心は前に進めとそう言っている。
現実逃避はもう終わりだと。
ガキのわがままはもう終いだと。
「……おまたせ」
「ああ」
やってきた電車が停止する音が聞こえ、数分の後に栗原が階段から降りてきた。
腰元でパステルブルーをクリーム色に切り替えるワンピースに身を包んだ彼女は、顔には薄く化粧もしているように見える。
薄いピンク色に染まったその口元には微笑みが刻まれていて、僕の近くにやってくるまで彼女は笑顔を絶やさなかった。
「それで、どこで話をする?まさかわたしを振ってくれるっていうのに、立ち話ってわけじゃないんだよね?」
彼女がそのままの表情で、冷静さを失わずにそう言った。
「……わかるのか」
「……その顔を見ればね。わたしに少しでも期待を持たせたいのなら、せめて藍ちゃんに向かうときの十分の一くらいはうれしそうな顔をしてほしいよね。それじゃまるで、悪戯のバレた子供みたいだよ。叱られるのを恐れて、怖がって、怯えている子供」
「……そうだな。お前の言う通りだよ。あのとき、斎藤に甘えるなと宣ったこの顔で、僕は何をやっているんだろうな。……それでも、笑えないさ。楽しそうになんて、笑えない。――お前の本当の気持ちを考えれば」
言われて、栗原はわずかに表情に驚きを滲ませた。
しかし、それはすぐに何かを納得したものへと変わる。
「……気づいて、たんだ……」
「いいや、気づいてたわけじゃない。ただ……」
その先を口にするのはためらわれた、この状況で、栗原の気持ちを断とうというこの状況で、あまり口にすべき内容ではないと思えたからだ。
言い淀む僕の顔を見て、すべてを察したように、栗原は微笑みを深くした。
「いいよ。言って。むしろ、とことん傷つけてくれた方が、わたしにとってはきっと、救いになると思うから」
「……悪い」
「……謝られてもね」
微笑を苦笑へと変えた栗原の態度は、この場において、僕よりもはるかに余裕があるように見えた。
けれど、それは取り繕いだと、それは彼女が優しいからでしかないのだと、彼女を知っていたはずの僕はそう思う。
「……昨日、藍と語り合った。お互いの過去について。何があったのか。お互いもっとも誰にも話したくないと思っていたことを話し合ったんだ……。そうして話していく中で、藍の過去から百日ダリアについての一つの答えが、そして、僕の過去から栗原るりについての一つの答えが、導き出された。……だから、正確には僕は気づいていたわけじゃない。たった昨日に、気づかされたんだ」
お互いに抱き合ったままベッドの中でいろいろな話をした。過去を。現在を。未来を。語り合った。
だから、僕らは気づいたのだ。
僕らのもっとも大切とすべき友達たちの、その本当の気持ちを。
「……できれば、わたしが君に話しかけたそのときに気づいてほしかったとだけ言っておくよ……」
諦めたように髪を撫でる栗原の姿は儚く、脆い。
それでも、彼女に優しい言葉をかけることだけは違うのだと、僕は心を抑えつけた。
「……行こうか」
足を踏み出すとともに口にした僕に、見つめる栗原が訊いた。
「どこに?」
「……僕とお前のいたはずの、小学校に」
その校舎は日曜日のため静まっている。
平日ならば、休み時間は生徒の声でやかましいほどの喧騒に包まれているはずのその学校は、人のほとんどいない今はひどく落ち着き払っていた。
「……懐かしいね」
「……」
ぽつりとつぶやく栗原に、僕は何も言えない。
小学校時代の僕の記憶は一部を除いて完全に自分の内から遠ざかっていて、久しぶりに足を踏み入れたその校舎に僕は郷愁を感じることができなかった。
何より、僕が好きだったはずの女の子の名前さえ、憶えていられなかったこの僕が、懐かしいなどと昔を慈しむような言葉を口にしていいはずがない。
日曜日の今、校門はわずかな隙間を残して閉ざされている。
開けられた形跡があるのは、日曜日にも関わらず出勤してきた先生の手によるものだろうか。
僕と栗原は無言で校門の隙間を通り抜け、敷地内に侵入する。
卒業生と、転校した元在校生だ。無断侵入は許してほしいところだと思う。
これもまた、開いていた教職員用の玄関を乗り越え、校舎内に入る。
耳に痛いほどの静寂と、むわっとする残暑の熱気が、僕と栗原の身を包んでいった。
「……ここ」
歩き続けたその先に、一つの教室に辿り着く。
三年三組。僕と栗原が三年次に所属していたクラスだ。
からからと音を立てて扉を開け、中に入る。
現在、このクラスで日々勉学その他に励んでいるであろう子供たちの痕跡がいたるところに見て取れた。
当然ながら、当時の僕らがいた痕跡などほとんど残っていない。
昔を思い起こさせるのはただこの場所と、僕と栗原の二人だけ。
「……たしかあのとき、相田君はこの辺りに座っていて、わたしはこの辺に座っていたかな」
栗原が窓際から二列目の一つの席を指し示し、そして、教室中央のもう一つの席を指し示す。
「……僕は全然、憶えてない」
「無理もないね。七年も前の、ことだもん」
そう息を吐いた栗原が、僕の座っていたはずの机の表面を愛おしそうに撫でた。
「……最初、君から手紙をもらったときは、すごくびっくりした。みんながわたしを無視する中で、君だけがわたしに手を差し伸べてくれたから。すごい勇気だな、ってそう思った」
「……本当に勇気がある奴なら、きっと面と向かってお前に話しかけていたと思うぞ」
「それは違うよ。あの雰囲気の中で、もし誰かに話しかけられていたら、もしかしたらわたしを取り巻く状況がもっとひどくなったかもしれないし。何よりわたし自身が、わたしに話しかけてくれた子まで同じ目に遭っちゃうんじゃないかって心配して、きっと上手く話せなかったと思うし」
「当時から、お前は優しい奴だったんだな」
「……当たり前でしょ? わたしは誰でもみんなに優しい、みんなに親切、栗原るりちゃんだよ?」
おどけるようにそう言って、けれど、力なく彼女は肩を落とした。
「……なんていうのは冗談。ほんとは当時のわたしはもっと内気で、けれど、正義感だけは人一倍強い痛々しい子だったと思うよ」
「自分のことをそんな風に言う必要ないだろう。僕はそんなお前が好きだったんだから……」
それを聞き、栗原が目を見開いた。
「……相田君、わたしのことが好きだったの?」
「そうだけど……」
「驚いた。わたしもね。そのとき、気になってた子は相田君だったよ」
言って、くすりと彼女は笑う。
「なら、もう少し上手くやれば、わたしは相田君をゲットできたかもしれなかったわけだ。ああ、もったいないことしたかなー」
「お前……」
この期に及んでまだ、そんな冗談を口にする栗原の姿は言ってはいけないが、少し、痛々しいものだった。
自分でもその発言に何か思うところがあったのか、ちょっと顔をしかめ、彼女は話を逸らすように僕に尋ねた。
「……わたしが藍ちゃんに何度も話しかけていたのがなんでかわかる?」
「話しかけて……って、それは僕と藍が話すようになる前のことか?」
「そう」
栗原は、僕が藍に関わろうとする前に、彼女に話しかけ、彼女と関係を築こうと努力していた。最初は藍の側からの拒絶によって、その努力も実らなかったが、僕と関わり、藍が変わる中で、藍と栗原は友達になった。
「……自分の姿と重なったから、か……?」
「正解」
栗原は指先で一つの大きな円を空中に描き、僕の推測が正しかったことを示してみせた。
「見ていられなかったんだよ。あんな風にクラスの中で孤立して、あんな風に一人の世界に閉じこもっている子は」
口にする栗原の表情は苦々しく、それは以前の自分の置かれた状況のことを思い出しているからかもしれなかった。
「でも、藍ちゃんはわたしのことを拒絶して、相田君を受け入れた。……それがどうしてなのかって、ずっと考えていたんだけれど……やっとわかった、かな」
「? ……どうしてなんだ?」
「自分を憐れむ人となんて誰も友達になりたくないでしょう?」
「……」
「わたしは、以前の自分を藍ちゃんに重ねていたけれど、そんなの藍ちゃんからしてみればいらぬお節介以外の何物でもない。藍ちゃんは藍ちゃんだもんね。わたしに勝手に同情されて、わたしに勝手に憐れまれて、それで仲良くしようだなんて、思えるわけないよね」
憐憫の視線は、ときにどんな憎悪よりも人を傷つけることがある。
藍にとって、そのときの栗原がどう思えたのか、僕は知らないが、今よりも頑なだった藍がそんな栗原を受け入れないことは想像に難くなかった。
「……じゃあ、お前は何で僕には何も言わなかったんだ? 僕だって、クラスで十分孤立していたじゃないか。僕のことを見て、藍と同じようにいたたまれなくなることだって、あり得ただろうに」
「相田君が相田君だから」
「……? ……どういう意味だよ?」
「わたしにとって相田君は、わたしが手を差し伸べて助けてあげないといけないほど、弱い人間には見えなかった。それだけのことだよ」
僕を見る彼女の瞳には憧れの情が含まれているように思えて、同時に、決して届きえない空の星を見つめているような諦念があった。
「――僕は、そんなに強い人間じゃない。あのとき、誰からも話しかけてもらえなくて、ずっとずっと、寂しかったさ」
「……そっか。じゃあ、わたしが最初に話しかけていたら……。わたしが最初だったらっ……そしたら……っ……」
後半は涙声だった。
震える声音とともに、一筋の涙が彼女の頬を流れていく。
栗原は慌てて、目元をぬぐった。
「あ、あれ……?」
しかし、堰を切ったように流れ出した涙は留まるところを知らない。
溢れ出す熱情の塊が、呆然とする彼女の頬を等しく穏やかに撫でていった。
「お、おかしいなー。わたしって、昔よりもずっと強くなったって、そう思ってたのにっ……。なのにっ……どうしてこのぐらいのことで……泣いちゃうんだろう……っ?」
それでも、気丈に笑ってみせる栗原に、僕は拳を握りしめて、歯を食いしばった。
「いいんだ。いいんだよ。栗原。泣きたいなら泣けよ。泣けば、いいよ。我慢するなよ。お前は悪くない。優しいお前は悪くない。全部、僕のせいだ」
「……っ! ……やめてよ……やめてよ……そんなこと言わないで。そんなこと……言われたらっ……!」
「何でもかんでも自分のせいにするな、なんて、百日ダリアは言ったかね。こうしてみると、まるで僕のことを気遣っているみたいな台詞に聞こえるな……。実際は真逆だったんだが……。
……でも、いいよ、もう。そんなのどうでもいい。お前は全部の気持ちを僕のせいにしろ。栗原るり。お前にはもう、返し切れないだけの恩をもらった。お前からもらったのもののすべてを、僕はもう、到底返せない。だからせめて、全部僕のせいにしてくれ。全部僕のせいにして、少しでも楽になってくれ。それで、お前の心が少しでも軽くなるのなら、だけどな」
彼女はきつく唇を噛み、溢れ出る感情をどうにか制御しようと試みているようだった。
けれど、涙はとめどなく流れて、彼女の面をたった一つの心傷に染め上げていく。
「……ぅうぁ。……ぁ……そんな、優しいの、だめだよ。わたしを甘やかさないでよ。……そんなの、わたし、だめになっちゃうじゃない……っ!」
頬を流れる彼女の涙が――彼女の激情が、彼女の薄い化粧を流していく。彼女の表面を流していく。
栗原るりは、泣きはらした顔を歪ませて、僕の胸にすがりついた。
どすんと大きな音を立てて、彼女の拳が僕の心に叩き込まれる。
「……わたしをっ……わたしを好きだったのならどうしてっ……!? ……どうして藍ちゃんなのっ!? ……どうして、わたしじゃないのっ……! ……わたしは、君に救われた……あなたに、君に、救われたのに……。どうして、どうしてどうして――わたしを好きだったあなたは、わたしが好きだった君は、わたしを好きでいてくれないの……っ!?」
流れる涙と激情が、彼女の表面を押し流し、彼女の笑顔を押し流し、彼女の悲しみを露出させる。
優しい栗原は身を潜め、優しい彼女は消え失せて、そしてそれでも――
「わたしはあなたが好きだった……っ! 小学生のとき、わたしを助けてくれたあなたが、それなのに、あなたはわたしじゃなくて……藍ちゃんを選んだ……。かわいいよね。かっこいいよね。癒されるよね……。藍ちゃん。藍ちゃん。藍ちゃん。九々葉藍ちゃん。わたしなんかじゃ、及びもつかないよね。……わかってた。わかってたよ。……それでも、それでもただ、言わせてね」
――栗原るりはやはり優しいのだと、僕は言う。
「わたしはあなたが好きです。あなたがわたしのそばに一緒にいてくれれば、ほかに何もいりません。だから、ずっと……ずっと、わたしだけのあなたでいてください……っ!」
優しい彼女は、見返りを求めない。
恩を盾に、僕を求めない。
小学生時代の恩、高校生時代の恩。
相田涼という僕が、栗原るりという少女から受けた恩は、もはや当初僕が考えていた閾値を超えている。
恩の見返りに、藍と別れることなどできないと、冗談として彼女に言ったことがあった。
僕はそれを本音で言って、本気の心でそう言ったつもりだったけれど。
けれど、やはりそれは間違いだったと、そう思わずにはいられない。
栗原への恩は返し切れるものではない。
彼女はただ僕を助けてくれたわけではなかった。
小学生時代の僕に対する恩返しとして、僕を助けて、藍を助けて、くれていたのだ。
それも、自分の心を押し隠して。
ならば、その恩の大きさに僕が返せるものなど何もない。
大きすぎて、それはもはや僕の手に負えるものではないのだ。
だって、彼女は自分の恋心よりも、何よりもただ僕のために僕を助けてくれていたのだから。
そんな女の子に、そんな優しい女の子に、僕が一体、何ができるだろう……っ!?
僕に一体、何が……っ!?
もし、彼女に、自分のしたことの代わりに、藍と別れ、自分と一緒にいてほしいと、本気で願われたら、僕はそれを跳ねのけられるか?
僕はその気持ちを全部、恩知らずにも断ち切れるのか。
断ち切らなくてはいけないことを知っていても、心がどう動くか、僕には到底予測がつかない。
だから、彼女はそうしない。
僕のために、僕が懊悩することを望まず、ただ、自分の気持ちだけをまっすぐに、伝える。
こんなに優しい女の子。
こんなにも優しい女の子。
ああ、僕はどうしてもっと、この子に気づいてあげられなかったのだろうか。
「――お前の気持ちに、僕は応えられない。僕が好きなのは藍で、お前じゃない。だから、お前のそばにはいられない」
優しい女の子に優しくなれないこの僕は、きっと、ずっと極悪な非道な人間なのだろう。
それでも、自分に嘘をつかない人間であることだけは、誓ったから。
だから、僕はそれでも、言うしかない。
優しい彼女に、残酷な言葉を、紡ぐ。
「……ぅうあ……っ」
「栗原」
「……ぅああああ……っ!!」
「栗原るり」
「……ぁあああああっ……!」
「ありがとう」
「……――~~~~~ッッ……!!!」
声なき慟哭は、静寂の校舎に響き渡り、
子供のように泣き続ける彼女の涙は、熱気の校舎に、ただ冷たく染み渡っていった。




