看病
九月六日。土曜日。
昨日は放課後、体育倉庫に三時間近く閉じ込められた後、百日ダリアの精神的拷問を受け、最終的に藍と仲直りをすることができた。
十全とはいかずとも、八割くらいにはいい結果に落ち着いたのではないかと思う。僕は何もしてないに等しいけど。
あれがベストでなければじゃあ、何がベストだったのかと問われれば、僕はこう答えるしかない。
心労たたって今日熱を出して寝込むことがなければそれが最善だったと。
そう。埃あふれる体育倉庫に三時間閉じ込められたのが理由か、それとも、いろいろなストレスが続いた後にやってきた安堵の気持ちが理由かわからないが、僕は風邪を引いていた。
昨日、百日ダリアが体育倉庫にやってきたとき、体が熱いと感じたのはどうやら単なる怒りによるものだけではなかったらしい。
その時点から、体調変化は訪れていたのだろう。僕が見逃していただけで。
おかげで休日の朝からベッドに寝込むことを余儀なくされている。
これでは、せっかく藍と仲直りができたというのに、少々口惜しい。
こんなウイルス塗れの体では彼女に会いに行くこともできない。
やっと心の砂漠地帯から抜け出せた気がしたのに、オアシスに辿り着こうとしたところでお預けを食らわされた気分だ。
「……ぶつぶつ言ってないで、寝てなさいよ、涼」
僕の部屋の前を通りかかった凛が、開け放された扉の向こう側からこちらを辛辣な目で見下げている。
その身は確実にお出かけ用のファッションに包まれている。
どうやら、風邪の兄を放って外に遊びに出ようという算段らしい。
「……お前には、傷ついた兄を、気遣う心というものが、ないのか」
三十八度に近い熱があるせいで呂律が上手く回らず、途切れに途切れに言葉を発してしまう。
そんな僕の様子を見ても、凛は一切動じることなくひどく冷めた目をしている。
「その程度で死にゃしないんだから、平気だよ。男だったらもっとシャキッとしなさいっての。ていうか、涼がそういう優しさをあたしに求めるのは筋違いだと思うんだよね。あたしが小学生のときにインフルエンザで死にかけてても、涼は平気な顔をして部屋でゲームに夢中になってたことを、あたしは忘れちゃいないんだから」
そして、たとえどんなに妹の態度に不満を覚えたとしても、そんな反論をされてしまえばそれ以上何も言えなくなる。実際、僕も当時は若かったのだ。病状の妹よりも架空の世界を救うことに夢中になってしまうほどに。
何も言えずにいる僕の下に凛が近寄ってきて、ベッドの上に片脚を投げ出し、タオルケットの間から伸びた僕の足先を踏んでくる。
「わかったら、大人しく寝てることね。……そしたらきっと、いいことあるかもね」
「……あ?」
「ううん。何でもない。じゃあね、お土産の一つくらいは買ってきてあげるからさー」
身を翻した凛がふわりと柑橘系の匂いを香らせながら部屋を出て行き、慌ただしく階段を下りる足音が聞こえ、やがて遠ざかっていく。
僕は一人、家に取り残された。
といっても、母は一応、いるのだが。さすがに風邪とはいっても熱を出して寝込んでいる人間を放って出て行くほどうちの家族も冷酷ではない。父親はなんかどっかに消えたけど。
凛が去り、静かになった部屋の中をエアコンが空気を排出する音だけが聞こえている。
僕は静寂の中で昨日の夕方から夜にかけての記憶を思い出し、さまざまな映像を頭の中で再生する。
百日ダリアの嫌らしい笑顔。
百日ダリアの憎たらしい微笑み。
彼女に耳元でささやかれた怪しい言葉の数々。
僕がそれにそそのかされてまんまと手の平の上で踊りかけたこと。
藍が現れ、藍に救われ、藍への気持ちを思い出した。
藍の顔が頭に浮かぶ。
ああ、やっぱかわいい。
想いながら、いつしか僕は眠りに落ちていく。
おでこに当てられた滑らかな手の感触に僕の意識は徐々に浮上していく。
目を開けると、眠る前に頭の中に浮かんでいたそのものの顔が至近距離にあった。
「……藍?」
「うん。わたしだよ。九々葉藍だよ。あなたの藍だよ」
「いや、藍は普通、そんなこと言わない」
「……むぅ」
かわいいうなり声を上げて頬を膨らませたところを見ても、やはりそれは藍だった。
「どうしてここに?」
純粋な僕の疑問を受け、一旦は拗ねた顔を収めた藍が微笑みながら口を開く。
「朝一番に凛ちゃんがわたしに電話をかけてきてくれて、『仲直りしたんなら、とっとと看病でもしに来たらどうですか?』って」
「あいつ……」
藍に向かってなんて口の利き方をしているんだ。帰ってきたら説教してやろう。あと、お礼も。
「……それで、涼は何かわたしに言うことはないんですか?」
あたたかい微笑みを崩さず、しかし、しっかりとこちらと目を合わせ、そう口にする藍。
僕は熱にうなされた体を無理をして持ち上げ、上半身を起こした。
「……今まで、すみませんでした」
「……うん」
「その、旅館で藍をなし崩し的に押し倒してしまったことも。自分の気持ちが信じられないからなんていうふざけた理由で藍との連絡をほとんど絶ってしまっていたことも。そして、それに対してすぐに答えを出せず、あまつさえ百日ダリアに翻弄されかけて、藍への誠実さを損なった取返しのつかない過ちを犯してしまうところだったことも」
「うん」
「……そのすべてに、ごめんなさい。そして、昨日の夜、ああ言ってくれて、本当にありがとうございました」
「……うん」
感謝の言葉とともに僕は頭を下げ、簡単な言葉で藍が答える。
穏やかに相槌を打ちながら僕の言葉を聞き終えると、ベッド際に腰かけていた藍が今度は居住まいを正した。
「わたしも、ごめんなさい。昨日の夜言ったように、今までわたしは涼に夢ばかり見ているところがありました。あなたがわたしに優しくしてくれることに何の疑問も持たず、それを当たり前に思ってしまっていることが少なからずありました。反省しています。ごめんなさい。それと、そんなわたしに嫌な顔一つせず、これまで付き合ってくれていてありがとうございました」
藍は丁寧にきっちりと、頭を下げた。
僕ももう一度頭を下げ直す。
それから同時に僕と藍は顔を上げて、お互いの顔を見合わせた。
どちらの表情も決してそんなに悪いものではなかったと思う。
僕は再び、ベッドに戻る。
無理に体を起こしたせいか、頭がくらくらした。
「……ごめんね。無理をさせちゃって」
申し訳なさそうな顔で藍が謝る。
「いいよ。こういうのは区切りがついたところできちんとしておかないと、後に引きずっても嫌だし」
「……うん。ありがと」
藍が愛おしそうな目をして、僕の頭に手を置いてくる。
その手の感触がすべすべで心地が良くて、思わず、目を閉じる。
「だから、このまま寝てて。ずっとそばにいるから。落ち着いて、気持ちを楽にして、そのまま、ゆっくり、眠っていて」
藍の言葉とともに意識がまたまどろみ、彼女の愛に包まれるようにして眠っていく。
「おやすみ。起きたらまたお話ししよう」
藍が言って、僕は完全に意識を手放した。
もう一度目を覚ますと、今度は手を握られていた。
「……うん。起きたね」
「ああ、起きたよ」
僕が三度寝をする前と同じ場所に藍は腰を下ろしていた。
けれど、態度が全く同じかと言えばそうではなく、腰下は落ち着かなさそうに、紺色のプリーツスカートの下、白い太ももをすり合わせている。
「……どうかした?」
「ええっと、その、涼。お手洗いに行ってもいい?」
「え、っと、なぜその確認を僕に?」
「……涼が眠ってからそろそろ三時間くらいで、わたしが席を外してる間に涼が目を覚ましちゃったらずっとそばにいるっていう約束を破っちゃうことになるから……。でも、そろそろ我慢の限界で……」
やや青い顔をして再び藍が太ももをすり合わせる動きをする。
「いやいやいや! そこまでしなくてもよかったって! 早く行ってきていいよ! 早く!」
「う、うん」
ふらふらと立ち上がった藍が足早に部屋の外に出て行った。尿意を堪えるためか、その足取りはやや拙い。
……不器用にもほどがあるだろう。トイレくらい好きに行けばいいのに。
でも、まあ、そこまでしてずっと見守ってくれていたというのは素直に嬉しいけれど。
ほどなくして藍は戻ってきた。やや赤い頬をしているが、恥ずかしいのは当然だろう。
「ご迷惑を、おかけしました」
「……謝らなくてもいいんだけど、もう少し自分の心にも融通を利かせないと、いろいろつらいと思うよ」
「そ、そうだね。今度から気をつける」
言葉を詰まらせた藍が羞恥に堪えるようにスカートの裾を掴む。今日の彼女のスカート丈は膝上十センチほどで、それなりに短い。裾が引かれるとともに白い太ももが露出して、その隙間に危うい空間が見え隠れする。
「……ぬぅ」
「難しい顔をして、どうしたの?」
「いや、藍って、いろいろと緩いよなぁと思って……」
「?」
僕が押し倒してしまったときもそうだけど、時々見ていて少し危うくなる自分への無頓着さが彼女にはある。そこもまた、魅力だと思うけれども。
「そうだ、涼。大分、顔色もよくなったけど、熱は少しは下がったかな。測ってみて」
言って、藍が体温計を差し出してくる。今時珍しい、水銀を使った古いタイプ。相田家では脈々と水銀式体温計が受け継がれているのだ。意味はないが、渋みはある。僕はこれを自分の子供にも受け継ぐつもりだ。昔ながらのそれは電子式よりも明らかに正確性に欠けるかもしれないが、その無骨さが逆にいい。
着ていたパジャマを脱ぎ捨てると、上半身裸になる。
「きゃっ」
藍が小さく悲鳴を上げて、両手で目を覆った。
「あ、ごめん」
「う、ううん。大丈夫、続けて」
言いながら、彼女は指の隙間からじっとこちらを見ていた。
……一緒に風呂に入ったときも思ったが、藍は男の体に興味があるのだろうか。
彼女はもしかしたらムッツリの気があるのかもしれない。
脇に挟んだ体温計のひやりとした感触を気持ちよく思いつつ、言葉を紡ぐ。
「そういえば、藍は何で体温計持ってたの?」
「んー? ……あ、それはね。涼のお母さんに涼のお世話を頼まれたからだよ」
「へー、って、は?」
何? 藍が母に会ったと? 僕のお世話を頼まれたと?
僕が彼女を紹介する前に、半ば親公認となってしまったというのか。
――外堀を埋められた!
いや、別に相手が藍だから、何も困ることはないんだけれど。
「ちなみに、母さんは?」
「急に連絡してきた昔のお友達と映画を見に行くって」
前言撤回。うちの家族は風邪を引いた人間を置いて遊びに行くほど、どいつもこいつも薄情者らしい。
「あ、もうすぐお昼だね。わたし、何か作ろうと思うんだけど、涼は何がいい? 風邪を引いてるんだから、まだ消化にいいものがいいよね。うどんとか?」
時計を目をやった藍が言ってくる。見れば時刻は十一時を三十分ほど回っていた。結局、朝のほとんどを睡眠で費やした形だ。病人だから当然だけど。
「ああ、うん。うどんいいね。ちょうど麺類は食べたかった」
「そう? じゃあ、作ってくる。待ってて」
言って藍が腰を上げ、階下へ向かおうとする。
「あ、ちょっと待って」
「どうしたの?」
思わず呼び止めてしまい、振り返った彼女の無垢な表情に狼狽する。
呼び止めた理由は単純な話だったが、ためらわずに口にするには僕の胸中はやや男らしさに欠けていた。
「ええと、その、少々言いにくいことなのですが……」
「なに?」
「お昼ご飯はもう少し後でいいからさ。もうちょっとの間だけそばにいてくれないかな、藍」
甘えるような言い回しに、自分でも少し情けなさを思うが、心中を包み隠して良い格好をするのもいい加減やめるべきだろう。
情けなくとも、少々くらいのわがままは藍には押し付けていい気がする。
「……わかった」
僕の下に戻ってきた藍が、再び、ベッドのそばに腰を下ろす。
「こうして一緒にいるだけでいい?」
「……できれば添い寝とかしてくれたりとか……」
「……涼は風邪を引いているのに?」
「だ、だよねー。移したらまずいよねー」
「……わたしは最近ずっと体調はよかったから、たぶん、大丈夫」
告げた藍が僕のタオルケットの中に潜り込んでくる。
そのまま僕の胸に顔を埋めた。
「……」
「……」
無言で彼女を抱きしめた。そのやわらかな感触に心がじんわりと暖かくなっていくのを感じる。
人の体温があたたかい。
藍の体温がとてもとてもあたたかい。
彼女の気持ちがうれしかった。
「本音の涼は甘えんぼさんなのかな?」
「……かもね」
胸の中で顔を上げ、こちらを見上げた彼女が腕を伸ばして頭を撫でてくる。
本音を包み隠さないというのは、それはそれで不都合もありそうだと思った。
だって、目の前の心の底から嬉しそうな笑顔を見ていると、藍のことが好きで好きでどうしようもなくなってしまいそうだったから。
昨日まで府抜けた心で好きなのかどうかもわからないと言っていた人間の言っていい言葉ではないだろう。けれど、それでも今はこれが本音だと思う。自分の気持ちを確信するしない以前に、もう考えるのはやめたのだ。感じたままを言葉に出せば、それが僕の本音だとそう思っておくことにする。
「――涼」
「……はい、何でしょうか?藍さん」
「この手は何?」
腰の方で藍の小さな手の平に握りしめられた僕の手が掲げられる。
「何、とは何でしょう?」
「……直前までわたしの太ももを撫で回していたこの手は何? と訊いているのです」
「……僕はもう、自分に嘘をつくのはやめたんだ……っ!」
「だからって、不用意にセクハラをしていいということにはならないんだよ?」
「じゃあ、訊くけど、藍はどっちの方がいい? 自分に嘘をついて君の前でいい格好をする僕か、それともお前の前でも全く本心を包み隠さない僕」
「……今、それを言うのは卑怯」
言いつつも、言葉とは裏腹にその声は弾んでいる。そして、『お前』と呼ばれた瞬間に、藍が肩を大きく跳ねさせたのを僕は見逃していない。
「でも? どちらかと言えば?」
「……こ、後者……かな……」
「だよね。じゃあ、もう少し触っても」
「それとこれとは別の話」
口にした藍がするりと僕の手を解けて、ベッドから抜け出す。
「あー」
失ったやわらかい感触に思わず、落胆の声が漏れる。
「彼女のわたしを好き放題しようとする涼にはお仕置きが必要です。なので、しばらくそこで大人しくしていてください」
口を尖らせた藍がそう言って、今度こそ本当に部屋を出て行った。
「ぐぬぬ……」
逸った。焦った。セクハラった。
どうしてこう、限度なくやってしまうものだろうか。僕は。
もう少し中道を行ければ、彼女の反応も明るいだろうに。
反省はしつつも、もう一度同じ場面があれば、迷いなく同じことをやるだろうことを僕は確信しているのだった。
いやな確信だ。
「うどん作ってきたよー」
部屋を後にする前にあったちょっと不機嫌な態度などは見る影もなく、笑顔で藍がお盆を運んできた。
おうどん、二人分。
絨毯の上のテーブルにお盆を置き、藍がその前に正座する。
僕も多少重い体を引きずってベッドから降りた。
「熱はどう? どれくらいだった?」
「三十七度三分」
「大分、下がったんだね。よかった」
「藍の看病のおかげだよ」
「わたしは何もしてないよ。ずっとそばにいただけだし」
「藍が近くにいてくれるだけで僕の心と体は癒されるのさ」
「……実はわたしって自分で気づいていないだけで、マイナスイオン発生装置だったのかな?」
「そうかもしれないね。実際、昨日に比べて僕の心が百倍は軽いのは紛れもない事実だし」
「……冗談に本気で返さないで……。すごく恥ずかしい……」
そう言って身を縮める藍に、僕は肩をすくめる。
「その手の冗談は僕にとって単なる事実だから。あっさり肯定する以外の反応は返せないとあらかじめ言っておく」
「……もう」
赤い頬を膨らませる彼女は、それでも悪い気はしてないようだった。
「さ、早く食べよ」
それ以上問答を続けても自分が恥ずかしくなるだけだと思ったのか、照れくささを押し隠すように彼女は湯気の立つうどんを指し示した。
「……あのさ、お願いがあるんだけど、藍」
「薄々察してるけど、続きをどうぞ」
「藍が食べさせてくれない?」
「……何となく今日の涼はそう言う気がしてた」
嘆息するように口にして、藍は一方の手に箸を持ち、もう一方の手にうどんの入った器を手に持つ。
「風邪を引いてる今日だけだからね」
「そうは言っても、藍がお願いしたらその都度僕を甘やかしてくれる優しい子であることを僕は知っている」
「……わたしそんなにちょろい子じゃないもん」
さてね。そう言いつつ、ふー、ふーと熱いうどんを冷ましてくれている彼女の姿を見るに、その主張はずいぶん怪しそうだ。
「あーん」
差し出される前に、口を大きく開ける。
「あ、あーん」
数本のうどんの束をすくった箸が口に近づけられる。
……今更ながら、長さのある麺類を食べさせてもらうのは結構難儀なことだと思った。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
しっかりと手を合わせ、食事を終える。
結局、最初の数回を食べさせてもらった後、長さのあるうどんを食べさせてもらうのが彼女に悪く思えてきて、残りは自分の手で食べた。
萌える体験ではあるにしろ、最初から最後まで人に食事を食べさせてもらうのはそれはそれで食べにくいものだと思った。
「はい、お薬だよ」
藍が市販で販売されている風邪薬を差し出してくる。相田家愛用の風邪薬だ。これもまた、母から受け取っていたのだろう。
「この分なら、一日でほとんど治っちゃいそうだね」
僕の顔色を確認して、うどんを元気に頬張っていた僕を見ていた彼女がそんな風に言ってくる。
「まあ、体調を崩したというよりかは、精神的な疲れが主な原因だろうし」
実際、藍の顔を見てからは、信じられないくらいの速度で体が快方に向かっている気がする。
「……ええと、何かわたしにできることはありますか?」
精神的な疲れ、という単語を聞いたところで、藍が僕の心中を窺うようにそう訊いた。
大方、それもまた自分が原因と考えて責任を感じているのだろう。こうして朝早くから看病に来てくれているだけでも十分なのに。というか、本来、責任を感じるべきは僕の側だろうに。
言っても、聞かなさそうだったので、僕は素直にその提案を受けることにした。
「なら、また添い寝かな。大人しく寝て、回復に努めるよ」
「わかりました」
力強く頷いた藍が両手を胸元で握りしめている。そのままがんばるぞいって言ってほしい。
「ちなみにセクハラはOKですか?」
「No,thank you」
「Oh,I see!」
再び二人でベッドに入った。
抱き心地のいい抱き枕もとい、藍を抱きしめ、九月上旬という未だ残暑の厳しい時節に、クーラーをかけた室内で人肌の暖かさを満喫する。
なんとなく、こたつでアイス食べているようなアンバランスさを感じるな。
腕の中の藍がもぞもぞと体をよじり、僕の首元に顎を乗せてくる。
彼女が耳元でささやいた。
「……涼。そう言えば、るりちゃんには?」
告げられた言葉の内容には容赦がなく、彼女のささやき声を堪能する余裕もなしに、僕は重い声を返した。
「……何も言ってない」
「今日は風邪を引いちゃったんだから仕方がないけど、もし明日外を出歩けるようだったら、きちんとお話ししてね。……こんなの、わたしに言えることじゃないのかもしれないけど」
罪悪感を滲ませる最後の言葉は聞いていてこちらが悲しくなってくるものだ。
特に、この場合、悪いのは藍ではなく、全面的に僕である。
「ああ、もはや男として最低の領分に片足を突っ込みかけてるからね。せめてきちんとそれくらいの義務は果たすさ」
「義務じゃないよ。大事なのは気持ちだよ」
「……ごめん。そうだね。本音って奴を自覚したはずなのに、どうも、僕はその手の使命感やら義務感やら責任感やらで動きすぎる傾向があるみたいだ」
「悪いことじゃないと思うけど、人と人との間の関係で一番大事なのは気持ちだと、わたしは思うよ」
「肝に銘じとく」
「うん。よろしい」
気遣いと悪戯心の滲んだささやき声が僕の罪悪感を中和し、心を癒してくれる。
僕はそれに衝動を感じ、眼前の小さく強い女の子をぎゅっと抱きしめた。
彼女の右手は僕の頭を撫でていた。
「……あいつには訊かないといけないこともあるしな」
つぶやいた言葉はすぐそばの藍に届いたはずだったが、藍は無言で僕の頭を撫でるだけで、何も尋ねようとはしなかった。




