本音
体育館に入ったとき、そこには誰の姿もなかった。
うちの学校の完全下校時刻は午後六時と設定されている。運動部の強豪校でもなく、文化部で何かの賞を取った部活があるわけでもないので、大して居残り練習することもなく生徒たちは六時前には大体家に帰る。
今日体育館を使っていたのが何部かは知らないが、例に漏れずにその部の者たちもすでに帰宅したらしい。
僕は体育館の壁に背を預け、誰かがここにやってくるのを待つことにした。
「……」
部活もない放課後の体育館は静かだ。照明もなく、高い位置にある窓から入ってくる、消えかけの夕日の光だけが室内を照らしている。
夏休み前にはこの時間でも外は明るかったはずだが、今ではもう夕暮れ時だ。
夏は終わり、秋がやってくるのだと夕日の陰りを見て思う。
時節は変わり、人は変わり、人と人の関係は移ろっていく。
二か月前には、自分がこんな状況に置かれていることなどは想像だにしていなかった。
藍を想う気持ちを嘘だと思う自分がいるだなんて思いも寄らなかった。
結局、僕はどっちなんだろうな。
藍が好きなのか。それとも、好きな人がほしかっただけなのか。
好きな人がほしくて藍を好きになったとしたら、その想いは嘘なのだろうか。
考える。
誰もやってこない状況に暇を持て余し、最近の僕の頭を占有する問題に対する思考の錯誤が頭の中を駆け巡る。
藍に初めて話しかけたとき。
藍と初めてまともに話すことができたとき。
一緒に生徒相談室で話したこと。
天体観測に行ったとき。
それから少しして、ものすごく女の子らしくなった藍。
彼女と勉強会を開き、お互いの家を訪ねた。
楓さんに会い、藍の話を聞き、彼女の作ったシュークリームを食べた。
凛を藍に会わせ、彼女らが意気投合し、着ぐるみを来て、勉強をした。
藍に膝枕をしてもらい、気づけば眠りこけていて、最終的に藍がうちに泊まった。
彼女の裸を期せずして見て、彼女と添い寝をし、眠り際につぶやく彼女の声を聴いた。
テストを契機に藍の周りの環境が変化し、彼女に近寄る者が増え、栗原とも話すようになった。
カラオケにも行った。
斎藤が藍を脅迫し、彼女のひどく悲しい顔を見て、僕は自分の無力さを実感し、そして、その鬱々とした気持ちがすべて斎藤への憎しみへと変わり、僕は殴った。斎藤も。そして、藍も。
警察に連れられ、父親に殴られ、自暴自棄になり、凛に慰められ、栗原にも助けられ、楓さんに殴られた。
斎藤から事情を聞き、僕はあいつの友達になり、そして、あいつは藍と仲直りをした。
僕は藍に告白し、彼女はそれを受け入れ、そして、キスをした。
夏休みには、いろいろなことがあった。
反動の下に大胆になっている藍との際どい接触を繰り返した。
夏祭りにも行った。
浴衣の藍はきれいだった。
夜の公園でまた危ういやり取りを繰り返した。
栗原に踏まれ、栗原に足蹴にされた。
藍と旅館に行き、海にも行き、彼女の水着姿を見て、彼女と散歩して、彼女とお風呂に入った。
彼女と一緒に眠り、彼女と朝を目覚め、彼女を押し倒した。
すべてが僕の嘘の気持ちの下に積み重なっていったと、そう仮定するにはあまりにも大切で、あまりにも儚く、そして、途方もなく尊い思い出に、それは思えた。
嘘ではないとするのは簡単だ。ただそれを自分の心に言い聞かせればいい。
僕は藍がほんとうに好きなんだと。彼女でなければならないのだと。
では、もし、僕が彼女と出会う前に栗原と仲良くなっていて、彼女に告白されていたら?
そのとき僕はどうしたろうか。
現実に即していない以上、それは無意味な仮定でしかない。
けれど、本質を表していると言えば、表している。
結局、順序が先か後でしかないのか。
すべては時系列でしかないのか。
すべては早いか遅いか、時間の問題でしかなかったのか、と。
この世の中の存在するカップルの、たとえば結婚にまで至ったカップルの、そのどちらかに元恋人がいて、その人と今の結婚相手との出会う順序が逆だったのなら、結婚したのはその元恋人の方だったのだろうか。
それとも、時間など関係なく、ただその人だから結婚したのか。それとも、その『とき』にその人だったから結婚したのか。
人が人を好きになる気持ちが出会った時間が後か先かというその程度のことに左右されるのなら、その想いは果たして本当の想いだと言えるのだろうか。
考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返し、意味もないし生産性もない考えばかりが頭を巣食う。
好きなのか、好きでないのか。考えれば考えるほどに、その単純な質問に対する答えさえおぼつかなくなっていく。
大切なのは気持ちだと、どこかの誰かの言葉で聞いた。
なら、自分のその気持ちさえ信じられない者はどうすればいい?
自分で自分の気持ちがわからない人間には、人と関わる資格さえもないと、そう言われるべきなのだろうか。
わからない。
僕だって、こんなに暗く淀んだ靄の中にいるような思考の渦に浸っていたいわけじゃない。
けれど、だったらどうすればいい。自分を自分だと決めるのは一体なんだというんだ。
思考の海に没入していた僕は、そこでようやく気付いた。
すでに真っ暗になってしまっている体育館の中にがつんがつんと、まるで金属を殴っている重い音が聞こえてきていることに。
辺りを見回し、音の発生源を探る。
それはすぐに見つかった。
体育館の隅、用具庫の金属扉。それが内側から叩かれている音だ。
なぜ内側から、と考えて、思い至る。
まさか僕と同じように、部活内でいじめに遭い、あそこに閉じ込められてしまったのではあるまいか。
だとすれば、すぐに助け出さなければいけない。
深く考えることなく、僕は用具庫に走り、そして、そのやけに重い扉に手を掛け、力をこめる。
普通に考えれば、そうして開くのなら、内側から扉を叩く必要はない。けれど、僕は突然のことに冷静な思考力を失い、他に考えを割いていたこともあって、脊髄反射的に行動を取っていた。
不思議なことに、扉は平然と開いた。
拍子抜けするとともにようやく頭が働き、なんで開いたんだと疑問に思う。
だが、そんな流暢に考えている間もなく、内側から伸ばされた手に勢いよく体を引っ張られ、真っ暗な用具庫の中に引きずりこまれた。
したたかに腰を打ち、思わずうめき声を上げる。
転んだ拍子にポケットから携帯電話が零れ落ち、体育館の床を滑っていくのが目の端に見えた。
「……ざまあみろ」
冷たい声音で投げかけられた言葉に目をやると、今にも用具庫を閉じようとして、扉に力を込めている男子生徒の姿が目に入った。そいつは今日の昼、僕が代わりにキムチ大盛りを注文してやったあの男だった。
すぐに直感する。
ああ、僕は結局、いたずらと知っていてその罠にまんまとかかってしまったのだと。
慌てて体を起こし、扉にすがろうとするも、努力むなしく、扉はばしんという大きな音を立てて閉まる。
かけられた鍵の閉まる音がやけに耳に響いた。
足音が遠ざかっていく。
体育館自体の扉を閉める音が遠くで聞こえて、それっきり何も聞こえなくなった。
「……はあ」
昼休みにあんなからかい方するんじゃなかったと、後悔してももう遅い。
事態はすでに進行しているのだ。過ぎ去った出来事はもう戻らない。
どんなに悔やんでも、終わったことはやり直せない。前に進むしかないのだ。
携帯があれば誰かに助けを求めることもできたが、最悪なことに、それは今ごろ体育館の床に転がっているだろう。
無手で遠隔操作でもできない限り、それを使って外に連絡を取ることはできない。
今僕の手の中にあるのは騙された原因のこの白い手紙と封筒だけ。
あとはなぜかポケットに入っていた黒糖の飴ちゃんだけ。
焦っても仕方がないので、包みを破って飴を取り出す。いつのものだか知らないが、飴が腐るということもないだろう。この状況で腹でも壊したらもう笑うしかないが、運命もそういじわるではあるまい。
黒糖独特の粘りつく甘味が口の中に広がって、思考まで粘つくようだった。
「……しかし、暗いな」
もはや日の入りを果たしている時間帯の、体育館の中の、さらに光の入らない用具庫の中。まったく辺りに何があるかもわからないほどに、真っ暗闇で救いようがない。
なるほど。いじめっていうのはこういう日常ではなかなか得難い経験を得られるリスクを背負っているわけだ。
などと頭の中でふざけつつ、どうにか状況を打開する手がないか考え、十秒でそれをやめた。
どうにもなる気がしない。
いや、まじめな話をすると、いつかどうにかなりはする。
今日は金曜ではあるが、土日に体育館で部活を行う生徒もいるかもしれないし、夜になれば警備員の人が巡回なども行うだろう。そのときにでも扉を叩いて存在を主張すれば、間違いなく外に出られるはずだ。
だから、どうにかなるかならないかという意味で言えば、どうにかなりはする。
けれど、今すぐは無理だ。
今すぐには誰もここにはやってこないだろう。
体育館には人気がないほどに人気がなく、用もないのにうろつく生徒もいない。ましてや下校時刻を過ぎている。誰も近づくはずがない。
だから、僕はおそらくここから数時間をこの埃っぽい暗闇の中で過ごさねばならない。
埃アレルギーとかじゃなくてよかったー、と心から思う。
ああ、僕の心から思うっていうのはつまりは嘘だっていうことだから。
……自分で自分を皮肉るのは余裕の表れか、はたまた余裕がないことの証左か、もはやわかりはしなかった。
どれくらいの時間が経ったか。
一時間かもしれないし、まだ十五分ほどしか経っていない可能性もある。
目は慣れて、見通せない暗闇も少しは見えるようになっている。
近くにあった体操用のマットに寝転び、助けを待つ。
ある意味、ちょうどいい機会だと言えるのかもしれない。
こうして、他のことに煩わされず、ただひたすらに自分自身と向き合うチャンスを得たのだから。
「……藍が好きだ」
言葉に出してみれば、何かがわかるかと思い、口にする。
けれど、その思っていたよりも感情のこもらなかったその言葉はすぐに闇の中に溶けていった。
「……栗原が好きだ」
紡がれた別の言葉はやはり温度を感じられない。
いっそ空気を吐いているだけのような気がしてきた。
「百日ダリアは嫌いだ」
今度の言葉には明確な憎悪がこもっていると、自分を信じられない僕でさえも思う。
そう思うほどには感情がその言葉には乗っている。
「結局、人を好きになる気持ちよりも人を憎む気持ちの方が強いって話なのかね……」
誰も聞いてないと思って紡がれるその独白は、けれど、どこか悲しそうに闇にこだまし、僕の耳を、心を揺さぶる。
「なんで、僕は負の感情ばっかり表に出るかな……」
やりきれない。納得できない。理解できない。
二人の女性が僕を好きだと言っている。
けれど、その言われた僕はそのどちらを好きだと言っても、その言葉ばかりがうつろに響き、嫌いだとする言葉ばかりが明確に存在を主張する。
「情けない情けない情けない」
どうして人を好きになれないのか。
どうして人を愛せないのか。
どうして憎むばかりは上手いのか。
僕の中に生まれた感情の中でもっとも強く、もっとも異質だったものはきっと夏休み少し前のあれだろう。
殺してやる。
言ってはならないその言葉。口にしてはならないその言葉。
けれど、平然と口にされるその言葉。
死ね。殺す。うざい。むかつく。きもい。
強くて強くて、人を傷つけ、人を損なう弱い言葉。
それらを口にして得るものはなんだろうな。
殺してやるって、言って、僕は一体何がしたかったんだろうな。
好きだから傷つけられて、そう言ったのか。
それとも。
好きだと思いたいから、傷つけられて、そう言ったのか。
好きだと口にはしない癖に、平気で死ねとは口にする。
そんな感性。そんな習性。反吐が出る。
けれど、僕もそれと変わらないか。
平気で殺してやると口にして、平気で好きだと口にして、平気でそれを裏切る心。
紡ぐ言葉に意味はなく、薄っぺらで、表面で、表層で、嘘で、偽善で、偽悪で、たったそれだけで、脆く崩れる人との信頼。
言いたいことも言えなくて、言っちゃだめなことばかりを口にする。
言いたいことも言うけれど、言っちゃだめなことさえ口にする。
言いたいことも言えなくて、言っちゃだめなことは口にしない。
言いたいことは言うときと言わないとき、言っちゃだめなことは絶対に口にしない。
好きだ好きだと言う言葉に意味はあるのか。
嫌いと言わないことはならば正義なのか。
僕は彼女が好きかなのか。好きでないのか。
そのどちらかを選ばなければいけないのか。
「当たり前でしょう? だって、君は九々葉藍の恋人なんだから」
じゃあ、僕はどっちを選べば。どっちが、いい。
「どちらでもいいじゃない。好きな方を選んだら?」
ああ、そうか。じゃあ、僕はもう傷つきたくないから、僕には人を愛する心などないと、そう思うことにするよ。
「へえ。そう。じゃあ、あの子はボクがもらっていくね」
百日ダリアはそう言った。
開かれた扉の前に、月光を背にして金色の輝きが色を放っている。どこまでも眩しい色を。
呆然自失の心を瞬き三度で取り戻して、いつしか僕は暗闇の中で一種の酩酊状態に陥っていたのだと自覚する。
「……お前、なんで、ここに……?」
「なんでも何も、君をここに閉じ込めるよう指図したの、ボクだし」
あっけらかんとしてそう言って、百日ダリアは酷薄な笑みを浮かべた。
「……わかっちゃいたけど、そう平然と肯定されるとさらにむかつくな」
「人をむかつかせることもできるのも一種の才能だとボクは考えている。だから、それは褒め言葉として受け取っておくよ」
「……ふざけんなよっっ!!」
常になく、僕は声を荒げていた。
ずっと暗闇の中にいたせいで気が変になっているようだ。
頭が冷静じゃない。体が熱い。頭がだるい。
目の前の女への憎悪の熱で体全体がどうにかなってしまいそうだ。
「ちなみに今は九時三十分。君が六時半ごろにここに閉じ込められたとすると、三時間ほどをこの暗く湿った室内で過ごしたことになるね」
「……お前が、そうさせた……っ」
「あはははっ。そうだよっ! その通り!」
百日ダリアは心底嬉しそうに笑い声をあげて見せた。まるでお前はわたしの手の平の中で踊っているだけの操り人形なんだと、そう言わんばかりに。
心の奥底で、煮えたぎるマグマのような怒りが沸騰しているのを感じた。
僕の目を見て、百日ダリアが近づいてくる。
ゆっくりと。牛歩のように。悪魔の歩みのように。
マットの上で呆然と彼女を見つめている僕に近づいてきて、膝の上にゆっくりと自身の足を乗せてくる。
耳元に彼女の唇が寄せられた。
「……それで、君はどうするの?」
「……どうする、って……」
声がかすれている。喉はからからに渇いて、上手く息ができない。
「……ボクは今ここに一人だよ?他に誰もいないし。君を見ている人もいない。君が大事に思っていると思いたい人もいない」
「……っ」
百日ダリアはその長い金色の髪をかきあげて、形のいい耳を露出させる。シャツのボタンを外して、襟元を緩めた。月明りのわずかな明かりが入ってくるだけのこの光度の中でも、白い肌が如実に存在を主張している。
「ボクは女の子で、君は男。それもボクは君をそんな風にひどい目に遭わせてばかりいる最低の女だよ? やられっぱなしで、いいのかなぁ?」
彼女の声が耳に届く。彼女の声が頭に残響する。
百日ダリアが胸元を押し付けるように、僕に身を寄せてくる。
「男なら、やり返さないとだめだよねえ? やられっぱなしじゃ、悔しいよねえ? この女をめちゃくちゃに……してやりたい、よねえ?」
彼女の両腕が僕の背中に回される。
押し上げられた彼女の胸の膨らみが僕の胸に押し付けられる。
「……相手はか弱い女だ。それも華奢で力も弱い。こんな奴、僕が本気で手を上げれば簡単に屈服させることができる。こんな奴、僕の思い通りにできる。これだけのことをされたんだ。このままにしておいていいわけがない。やられたままでいいわけがない。やられっぱなしで終われない。復讐、してやらないと」
悪魔のささやきが依然として耳元で聞こえている。
僕はそれが自分の心の声なのか、彼女の声なのか、もはやわからなくなっている。
頭が、ぼーっとする。
「やってやる。やってやる。やってやる。この女を組み伏せて、服を脱がして、全部全部、めちゃくちゃにしてやる。この女の体の隅から隅まで僕が支配して、隷属させて、二度と僕に逆らえないように、ぐちゃぐちゃにしてやる。こいつをめちゃくちゃに……犯してやる」
いつの間にか体勢が変化していて、僕が彼女に迫られている様子だったのが、僕が彼女を押し倒し、その両手首を抑えつける形に変わっている。
「……この女の泣き顔を見たい。この女の屈服する顔が見たい。この女の泣き喚く顔が見たい。この女の快楽に喘ぐ顔が見たい。この女の懇願する顔が見たい。この女の凌辱される顔が見たい」
僕の手は半ば無意識的に彼女の白いシャツのボタンに手をかけて、一つ一つを外していっている。
百日ダリアの唇が僕の唇の目の前にある。
「……さあ、やっちゃえ」
言われた途端、頭の中が真っ白になり、目の前の女を犯すことしか考えられなくなる。
剥ぎ取り、まさぐり、凌辱する。
そのことしか頭になくなる。
目の前にいる最低の女の、かわいい顔を快楽に歪ませ、悲哀に歪ませ、苦痛に歪ませ、そして――
「……涼?」
――そして、僕の目の前が真っ暗になった。
聞いてはならない声だと本能が言っている。
聞けばすべてが壊れるとそう言っている。
聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞く――
「だ~めぇ~、聞きなさい」
悪魔のささやきはまだ続いていた。
顔を上げる。振り向く。
呆然とした顔の九々葉藍がそこには立っていた。
「……もも、ちゃん……?」
「そうだよ。九々葉藍。君の相田くん、ボクのこと犯そうとしたんだ」
「……っ!?」
驚愕に見開かれた瞳がすぐさま絶望に彩られる。
その目が一心に僕を見つめていて、僕は目を逸らそうと――
「――現実を見ろ。相田涼」
冷たい冷たい冷酷な声がそんな現実逃避を許さない。
「……わかるよね? 九々葉藍。こいつが何をしようとしたのか、何をしでかそうとしたのか、わかるよね? わからないわけないよね? わからないなんて言わないよね? ねえ?」
「……」
「この男は君っていう彼女がいながら、栗原っていう自分に告白してくれた子がいながら、それとは別のボクのことを……めちゃくちゃにしようとしたんだよ?」
「……」
「わかるでしょう? 九々葉藍。わかるよね? わからないはずないよね? わからないなんて言わないでよ? わからないなんて聞きたくないよ? それとも、何、九々葉藍も現実逃避する?」
百日ダリアは僕を見下し、その鼻先に指を突きつける。
「この男、みたいに?」
「……」
藍は黙っていた。
何も言わずに百日ダリアの話に耳を傾けていた。
そして、次に僕を見て、僕を見て、僕を見た。
その瞳に宿る絶望の色が、不思議と穏やかな色合いに変化していくのを僕は見た。
「……ももちゃんの嘘つき」
「……は?」
百日ダリアが素っ頓狂な声を上げた。今までの彼女の様子から考えられないくらい間抜けな声だった。
「……涼の顔見ればわかるよ。ももちゃんが何かしたんでしょう?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!! 九々葉藍。なんだって? ボクが何かした? ボクがこの男に何かした? どうして、そんなことになるって言うのさ!?」
「何もしてないって言うのなら、そんなに取り乱す必要、ないよね?」
「……ぅぐっ」
ぐうの音もでないとはまさにこのことだろう。
今まで余裕綽々といった態度を維持していた百日ダリアが初めて狼狽している。藍を前に。
僕はそれを目の前にして、けれど、溜飲を下げることはなかった。
だって、その前の藍の言葉でどうしようもなく救われていたから。
「……ももちゃんはいつもそうだよね。わたしの前では良い顔をして、他の人の前では、斎藤……日比原くんや、涼の前では、とてもとっても、冷たいの」
「……だから何だって言うのさ! 九々葉藍。ボクは君に優しいだろ? 君のことはなんでもわかって、なんだってしてあげているじゃないか!?」
「わたしがいつ、そんなこと、してほしいって言った?」
「……んなっ……!?」
「……夏休みにね。ももちゃんがわたしの家に訪ねてきたとき、わたしすごく落ち込んでいたの。涼と喧嘩別れみたいになっちゃって、それからいくら連絡を取ろうとしても、涼が出てくれなくて……すごくつらかった……」
「何を……」
「でも、そんなときももちゃん……百日ダリアが、わたしの親友だった子がわたしを訪ねてきてくれて、仲直りしようって言ってくれて、すぐには頷けないわたしを何度も何度も訪ねてくれて……すごく嬉しかったの……」
「だったら……」
「でもね。それ以上に思ったのは、わたしは人に甘えすぎていたんだってこと」
「……な、にを……」
「わたし、誰か自分を大切にしてくれる人がほしいってずっと思ってたの。小学生のとき、ももちゃんと喧嘩別れして。その後もひどいことになって……。だから、わたしだけを大切に……って」
語る藍の目に一筋の涙が流れた。
「でも、そんなの自分本位すぎるよね。わたしが、わたしが、って求めるばっかりで、誰にも何にもしないの。自分の殻に閉じこもって、誰かがその殻を破ってくれるのを期待している、ような」
藍の目が僕の目を見た。その瞳は潤んでいて、けれど、とても強い輝きがその奥に覗いていた。
「涼と会ったとき、わたしはこの人はわたしのことを大切にしてくれるかもしれないって思った。わたしのことだけを見てくれるかも、って。けど、涼と喧嘩して、会わなくなって、ああ、わたしはなんて自分勝手だったんだろうって、思ったの。涼がわたしにしてくれることばかりを期待して、自分からは何もしない。そんなことばっかりだったって。もらうばかりだったって思ったの」
そんなことはないと僕は断言できる。藍から僕がもらったもの、それはとてもたくさんのもので、とても僕が返しきれるものではない。
「自分を大切にしてくれる誰かがいないと生きていけないなんて、わがままだよね。自分勝手だよね。だって、みんなそう思ってるはずだもの。そんな誰かがいてくれたらどんなにいいかって。でも、そんな都合のいい誰かは現れなくて、いるのは自分とは違う、他人だけ」
都合のいい他人。それは僕にとっての藍だけでなく、藍にとっての僕でもあったのかもしれない。
「生きていかなきゃいけないの。それに折り合いをつけて、現実を見て、夢を求めて。けど、夢は他人に見るものじゃないの。自分に見るものなの。こんな自分になりたいな、あんな自分になりたいなって」
百日ダリアは黙って藍を見つめている。
その顔に宿る表情がどうなっているのか。彼女の背中しか見えない僕にはわからない。
けれど、きっといつものように意地悪く笑ってはいないだろうな、と思う。
だって、百日ダリアは藍には、藍だけにはどうしても酷薄になり切れないでいるのだから。
「だからね。わたしは涼に夢を見ることをやめたの。わたしはわたしに夢を見たい。わたしを涼が本当に好きになってくれるわたしにしたい。誰にも胸を張ってこれがわたしって言い切れるわたしになりたいって」
藍は百日ダリアを見据えて、「だからね」と言葉を紡ぐ。
「わたしには、わたしにだけ都合のいい友達なんていらないの」
藍がそう言った瞬間、百日ダリアの体がびくりと硬直して、糸の切れた人形のように倒れる。
僕は慌ててそれを後ろから支えた。
見れば、目をつむり両目から大粒の涙を流した百日ダリアがくしゃくしゃにそのきれいな顔を歪めていた。
声もなく、泣いている。
僕はその様子に怒りも忘れて何も言えず、そっとマットの上に彼女を横たえてやった。
その様子に何を思ったか、藍が微笑をたたえていた。
「涼はやっぱり優しいね。それでも、ももちゃんを助けるんだ」
「……いや、そういう問題じゃないんだけど」
普通、目の前で人が倒れたら支えるでしょう。でなければどんな非人道的な人間だという話だ。
「涼、今までありがとね」
「え……?」
「……ありがとうって、言ったことがあった気もするし、なかった気もする。だから、改めて、言っておきたかったの。今までわたしのこと助けてくれてありがとうって」
「……それは、どういたしまして」
「うん。ありがとう」
もう一度お礼を言って、藍は笑った。
でも、それが、まるでこれから先はないって言っているように聞こえて、僕の心に不安がよぎり。
そして、それを見とがめた藍が先んじるように口にした。
「これからもよろしくね……って言わせてもらえると、嬉しいんだけどね」
「……あー」
この期に及んでまだ腑抜けたことを考えた自分を殴りたくなった。殴るわけには、もちろんいかないんだけれど。
「答えは……先延ばしかな?」
上目遣いで窺う藍がいたずらっぽく微笑む。
僕はそれに笑みを堪えきれず、
「……もうほとんど決まってるようなもんだよ」
自然と出てきた言葉をただ口にした。
深い考えもなく、浅い知恵もなく、ただ率直に体の、口の、心の赴くまま、言葉は出てきた。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しくて。
僕は満面の笑みを浮かべていた。
「……涼がそんなに嬉しそうに笑ったの、初めて見たかも」
若干の驚き顔をたたえた藍にそんなことを言われる。
「え、そう?」
「うん。口の端で笑うのは多かったけど、そんな風に子供みたいに笑うのは初めてだよ」
ああ、そうか。
僕は藍に笑ってほしいとばかり思っていて、自分のことなどまるで見えていなかったというわけだ。
それを客観的に複数人に指摘されれば、何が本当なのかわからなくなるというものだ。
結局、僕はガキなのだ。
他人を見ているつもりで、実のところ、自分さえもしっかりとは理解していない。そんな当たり前の、どこにでもいるようなガキなのだ。
「……楽しそうな声」
無感動な声が聞こえてきて、笑みが少し遠のく。
百日ダリアが顔を上げて、僕と藍を見た。
これ以上ない沈黙が場を支配して、次に何が起こるのかという不安が渦巻く。
すぐそばの藍がごくりと喉を鳴らすのを聞いた。
けれど、百日ダリアは何もしない。
何も口にすることなく、何も行動することなく、僕と藍を、その二人の姿を見つめている。
それから彼女はそれ以上何をすることもなく、古びたマットから立ち上がり、歩き出す。
月光の臨む外へと。
僕と藍は黙って、それを見送った。
「……まだ、ボクは諦めないから」
捨て台詞を残して、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。
僕は藍と顔を見合わせた。
「……なんて奴だ」
「……ももちゃんって、とっても執念深いからね」
それでも、まだ、終わらない。
百日ダリアは止まらない。
けれど、もう迷う必要がないということがわかっただけで、こんなにも気持ちが軽くなるものか。
隣に藍がいて、笑っている。
それだけでこうも僕は幸せになれるのか。
疑いようもなく、それが事実だった。
それが僕の本音だった。
何も変わっていない、けれど、何かが変わっている、そんな僕の本音。
「藍」
だから、僕はこう言った。
「好きだよ」
期限も先の発言も何もかもぶっちぎって、結局、僕はそう言うのだ。
なぜも、どうしても、どっちも、どうでもいい。
僕は藍が好きだし、藍を好きでいたいし、藍を好きになりたいんだ。
ただそれだけだったんだと、ようやく気付いた。
行きついた言葉に意味はない。行きついた結論に意義はない。
だって、堂々巡りを繰り返して、スタート地点に戻ってきただけだったのだから。
「……卑怯だよぅ……」
顔を赤くして俯く藍がそこにいて、
僕は彼女に心を寄せた。
仲直りの機会は別に考えていたんですけど、なぜかここでしちゃいました。ということで、多少都合もいいので、次回はシリアスは小休止になると思います。たぶん。




