手紙
いじめとはなんだと思う。
そんな現代日本の教育者にとっての一種の至上命題に対して、僕はこう答えたい。
テロと同じものだ、と。
多かれ少なかれ、被害者に関係する原因となる事象が存在することはあるかもしれないが、それにしたって、それを受ける合理的な理由は何もない。
また、被害に遭う理由もなければ、その対象として選ばれるのにも大した理由はない。
大抵は気に入らないから、とか、むかつくから、とかなのかもしれないが、だからといって、そういう相手も社会の中で過ごす上では必ず出てくるということを学ぶのも学校の役割の一つであるはずだ。だからそういう相手に対して陰惨な対抗手段を取ってしまう時点でその人間は間違っている。むかつく相手とどう付き合うかも本来は学校で学ぶべきことのはずだ。そういう意味でも、誰であってもいじめの対象となる理由などない。
被害に遭う合理的な理由と、その対象となる実際的な理由がない。それはテロといじめに共通する視点だと思う。
そして、さらに言えることがあるとするならば、やっている人間に罪の意識がないのも同じかもしれない。
宗教上の理由でテロリズムに奔った人間なら、正しいことをしているつもりで、それを行っていることもあるだろう。
それと同列に語れないにしても、残酷な幼さゆえに善悪を知らずにいじめを行うのもまた、罪悪感なしに行われることといえる。
そして、テロといじめのもっとも大きな共通点として挙げられるものが、何があったとしても断固として屈してはならないということだ。
間違った行いの中でも特に間違った行いであると誰もが認識しているはずの行為に、たとえどんな言い訳が存在しても、屈服してはならない。
間違った行いを犯した者に屈服することは、その間違いを許容することに等しい。
それは善悪の観念を持つ人間としては、決してやってはならないことだ。
往々にして、空気の中に善悪を度外視される風潮のある日本であったとしても、それは変わらない。
変わらないと、僕はそんな風に思う。小学校時代のあの体験が、僕にそのような価値観を構築させた。
だから、その被害者となった今の僕もまた、それに屈する気はない。
高校生ともなれば、小賢しい浅知恵も働くもので、表立ってそれが行われることはないが、偶然や故意ではないという言葉を免罪符に、僕への嫌がらせに等しいいじめ行為は行われる。
たまに足を引っかけられる、たまに聞こえるように悪口を言われる、たまに体育で偶然の暴力を振るわれる。
高校生になっても、未だ善悪が判断できない幼さに嘆くとともに、僕は耐え忍ぶ。
誰かに何かを訴えたところで、おそらくは、きっと、いや間違いなく元凶であるところの百日ダリアには何も影響はない。
どういう手段を取ったかは定かではないが、現行犯は別にいる。あいつが行ったのは扇動であり、実際に僕に何かを行ってくるのはいつも別の誰かだ。主だった面子というのもいるが、その中にも百日ダリアの姿はない。
ゆえにこそ、あいつは罪悪感の欠片も感じさせない笑顔で、藍の隣にいられるのだ。
九月五日。金曜日。
授業が再開して五日目。劇的といえるほどには見た目には変化していない、しかし、確実に何かが変わったクラスの中で、僕はそこにいる。
依然として、藍に何か特別な言葉をかけることができず、栗原には明確な答えを示すこともできず、かといって、状況は停滞しているかといえばそうではなく、僕がいじめに遭うというよくわからない事態にまで陥っている。
潰さなければこちらがやられるといった斎藤の言葉は嘘ではなかったらしい。いや、現実になったという方がそれはやはり正しい。
この状況の面倒くささは表立っては何も行われていないことにある。すべて偶然と故意ではないで済まされてしまえば、納得はできなくとも明確に言い募ることができない。その程度にはそれらの行いは包み隠されている。証拠は何も残らないし、僕の体に大きな怪我が負わされたわけでもない。
僕はどこかにそれを訴えることもできず、やるせなさを自分自身で飲み下す。
「おはよう、涼」
「おはよう、相田君」
朝、始業時間ぎりぎりに登校した僕に、両隣からあたたかい挨拶の声がかけられる。
それでも、こうしてこの二人に毎朝声をかけてもらえるだけでも、まだ僕の学校生活は救われていると、そう思う。
同時に、そんな優しい二人に誠実になりきれない自分に嫌気が差しもするけれど。
「おはよう。藍。栗原」
「おはよう! 相田くん」
挨拶を返した瞬間、振り返った前の席の金髪の笑顔に機先を制される。
肌に怖気が走る。それでも、無視することはこの女のやっていることに屈することだ。それはできないし、やってはならない。
「……おはよう。百日ダリア」
声音に震えを帯びさせない。顔を強張らせない。腹から声出す。そんな風に意識した言葉は、それでも藍と栗原にするのと比べてどうしても気落ちしたものになるのは避けられない。
そんな僕を見とがめて、
「ボクのときだけずいぶんとテンション低いなぁ。そんなに露骨に嫌われちゃうと、ボクちゃん悲しい。しくしく」
両手の指を目元に押し付け、わかりやすい泣き真似をしてみせる百日ダリア。
「……もう少しましな嘘をつけよ」
「へえ、それを相田くんが口にするんだ?」
「どういう意味だよ」
「えへへぇ。どういう意味でしょう?」
子犬のような表情を作って見上げてくる金髪ハーフが憎たらしくて仕方がない。……いや、金髪ハーフ自体は悪くないな、うん。
「……自分に嘘をつくよりもましな嘘なんかない、って話か」
「わかってるなら、そろそろやめたら?」
「何をだよ」
「そうやって、嘘をついていた自分が全部悪いんだ、って、なんでもかんでも自分のせいにしようとするの」
言われて目を合わせると、百日ダリアの圧倒的な視線が僕の平常心を完全に射抜いていた。
動揺する。困惑する。
何も人間らしい気遣いなど欠片もないその目が僕を揺り動かす。
「お前は僕をどうしたいんだよ……」
つぶやいた言葉は偽らざる本音だ。栗原と藍が隣にいるこんな状況で、こんな弱音に近しい言葉を吐くつもりはさらさらなかった。
けれど、積み重なったストレスは僕にその自制を働かせるだけの気力を奪っていった。
「……ふぅん。そ。……それは最初に言ったんだけどね。まあ、また今度、教えてあげるよ」
失望したように息をついた百日ダリアはそう言って、それから俯く僕に頓着せず、前に向き直った。
両隣の慮るような視線が何よりも重たかった。
昼前の四時限目に英語の授業があった。
単に英語といっても、英文の読解に取り組むというような通常のものではなく、そういった普通の英語の授業と区別されて行われる、週に一度の特別な英語の授業だ。科目の名前も英語Ⅰとかではなく、なんたらコミュニケーションという変わった名前がついている。
それはコミュニケ―ション能力の向上を目的としたもので、よく隣の席の人間とペアを組まされて、会話文の発音の練習や英作文の問題に共同で取り組まされる。
ゆえに、今の僕の席配置で言えば、それなりの心労を要する授業内容となる。
僕は左隣の栗原とペアを組んだ。
机を動かし、机をひっつけ、彼女と英文の問題に向かう。
内容は夏休みに印象に残ったことについて何十語以内で書け。というもの。来週の同じ時間にはペアのどちらかが自分の書いた内容について前へ出て発表することになっている。
書くのは個人なのだから、相談は要るのかとも思ったが、それでもまあ、建前としては必要なのだろうと考える。
相談するのが前提の授業なので、室内の雑音は多く、雑談に励んでいる人間も少なからず見受けられる。
目の前の百日ダリアなどは隣の女子生徒と高らかに笑い合っていた。
その笑い声を聞くだけで、心中穏やかではいられなくなる気がした。
「……相田君、少しは自分の気持ちに答えが出せた?」
変に相談することもなく、黙々と個人で課題に取り組んでいた僕と栗原のペアだったが、そんな彼女の言葉に沈黙を破られる。
「……申し訳なさに胸が締め付けられる思いだけど、正直、全然」
「そう……。まあ、まだ君が決めた期限までは時間があるんだから、ちゃんと、考えてね」
そう言いながら、丸っこくともしっかりとした字で英文を紡いでいく栗原。
角ばったところのないその文字に彼女の性格が現れている気がした。
「……字かわいいなお前」
「そ、そう? あんまり言われたことないな、そういうの」
満更でもなそうに髪を撫でつける栗原が、やや頬を染めた。
「昔は字が汚かったから、意識してきれいに書く、っていうのを七年くらい続けてたら、いつの間にかこんな風にしか書けなくなっちゃったんだけどね」
「別にきれいに書けるのなら、不都合もないだろう。逆ならともかく」
「そうなんだけど……。でも、昔の汚い字でも褒めてくれた人はいたから、それはそれで味はあったのかもなんて、思う次第であります」
おどける栗原に肩をすくめる。
「ま、字なんて読めればいいと思うけどな」
そうつぶやきつつ書く僕の英単語はお世辞にもきれいとは言えない。かろうじて読めるには読めるが、所々判別の難しい単語がある始末。
それを見た栗原が呆れたように嘆息した。
「相田君のはもうまったく読めないから絶対どうにかした方がいいよ。近い将来、受験とかで困るから」
「それは困るな」
言いながら、多少は丁寧に書こうとする意思を見せる。
aにしか見えなかったuがnには見えるようになった。
「もはや才能だね、それは」
僕の判別不可能なアルファベットに目を細め、栗原がもう一度呆れるため息をつく。
「昔から字汚いよね」
そして、自然と言ってしまったというように彼女の口から漏れ出た言葉が少し引っかかった。
「昔? お前、僕と以前、会ったことあったっけ?」
「……あ」
あからさまに失言したことがわかる驚き顔がそこにはあった。
「……あ、あははー。会ったことないよね。そうだよね。相田君といるのが自然過ぎて、昔から一緒にいたような気になってたのかも……。ごめんね。変なこと言って」
「別にいいけど……」
ぎこちなく話をごまかそうとする栗原に逆らわずに返答する。
触れられたくない話というのは、誰しもあるものだからな。
数日前、前座席の金髪にやられた言葉の暴力の傷を未だ引きずっている僕はそんな風に栗原の触れられたくない過去にも深く掘り下げることはしない。
その程度の分別はわきまえているつもりだった。
だから、
「……う、うん」
どこか不満を滲ませた顔で頷く栗原の態度には、首を傾げるしかなかった。
昼休み。
今日こそは、と勢い込んで僕は右隣の席に目を向ける。
結局、夏休み終わりから一度も藍とは昼食をともに出来ていない。いつもいつも百日ダリアに邪魔をされて、話しかける間もなく教室から去って行ってしまうのだ。
だから今日こそは藍に話しかけ、藍と一緒に食堂で昼食を取りたい。
その決意の下に口を開き、「藍、今日は一緒に食堂で食べないか?」と誘いの声をかけ、そして、
「ご、ごめん……。今日、自分でお弁当作ってきちゃってて……」
そんな彼女の返答に大いに肩透かしを食らわされた。
見れば、藍は鞄の中から空色の包みにくるまれたお弁当箱を取り出している。
タイミングがかみ合わないにも限度があるだろ。
思うが、彼女に非があるわけでもないので、責めるわけにもいかない。
「そうそう。今日は一緒にお弁当食べさせ合いっこしようって、九々葉藍とは約束してたんだ~」
いつの間にか自身も鞄から弁当箱を取り出して藍の机に置いていた百日ダリアが勝ち誇るようにそう口にする。
「……そうか。なら、仕方ないな」
「そうそう。仕方ない仕方ない」
百日ダリアに同意を受けるのは腹立たしいが、この場合は本当に仕様がない。今は退こう。戦略的撤退も重要な戦略だ。
「ごめんね。涼。また、今度」
「ああ、また今度」
藍が言い、僕が答えて、僕は一人、食堂に行く。
食堂で日替わりの定食を注文する。
今日はカレイの煮つけ定食という、高校生の昼時には似合わない渋い内容だった。
カレイの身をきれいに切り分け、味噌汁を啜り、白米を咀嚼する。
出汁の染み込んだカレイの身がやけに美味かった。魚肉の味わいと出汁の旨みが体中に染みわたっていく気持ちがした。
ぱっと見高校生らしくない食事内容でも、ちゃんと美味しく食べられるように作られているんだなあと、妙な感慨にふけりながら黙々と昼食を取っていると、視界の端に最近よく見る顔の人間が座ったのが見えた。
それ寝ぐせなの何なの?って風に髪を立たせた頭をしている男子生徒。僕に対していじめ未満の隠れた嫌がらせをしてくる主な面子の中の一人。体育の授業で最初に僕にボールをぶつけた奴がそこにいた。
ちらりと目線を横に向けると、男と目が合った。
目だけで笑う気色の悪い顔が投げかけられて、僕は仏頂面で目を細めてそれに返した。
僕の態度が気に入らなかったのか、その男は口を半開きにして何か言おうとしたが、他クラスの友達らしき別の男子生徒に話しかけられてそれを中断した。
僕は目前のカレイに視線を落とし、半分ほど残っている定食を胃袋に収めることに専念する。
食べ終わると、もうここに用はないとばかりにすぐに立ち上がり、食器の乗ったトレイを返却口に返そうと、さっきの男子生徒のそばを通り抜けようとし、そして、僕の足下に運動部だというその男の長い足が差し出されるのを目にする。
半ば予想のついた事態だったので、僕は慌てることなく、それを避け――ることなく男の足の甲を思いっきり踏みつけた。
「っ――!?」
思わぬ反撃に目を見開き、男が僕の顔を見る。
僕は能面を貼りつけたような無表情でそれを見下ろし、
「ごっめ~ん。……足が滑っちゃったっ♡」
と変に抑揚をつけまくった声で言った。
男は唖然とした顔をして、次の瞬間にはそれが憮然とした表情へと変わる。
「てめえ……っ」
と胸倉でも掴まれそうになったので、
「すいませーん。この人がキムチ大盛り三杯追加注文だそうですー」
と食堂のおばちゃんに声をかけておく。
「なっ……」
男の馬鹿面がさらに間の抜けた阿保面に変わったところで、足早にトレイを戻し、食堂を去る。
去り際に振り返ると、男は無用な親切を働こうとする食堂のおばちゃん相手に断り切れず、結局キムチ大盛りを五杯配膳されていた。
口の端だけで笑って、僕は教室に戻った。
百日ダリアの影響を受けて、僕まで煽り上手になってしまったかもしれないと思った。
今日の全授業日程を終え、教室の中が放課後の喧騒に包まれる。
僕は帰り支度を整えて、席を立とうとし、しかし、自分の机の中に見慣れない手紙が入っているのを目にした。
両隣の目を意識しながらそれを鞄に入れ、教室の外に出て、人気の少ない廊下に足を伸ばして中身を確認する。
白い便箋には簡素な文字でこう書かれていた。
『大事な話があるので、放課後、午後六時に体育館に来てください。Mより』
いたずらの類ではないかというのが、最初に頭をよぎった考えだった。
Mとは一体誰なのか。大事な話があると言っているが、そもそもそんな話がある相手が交友関係の薄い僕にいただろうか。時間設定がやけに遅いのも気になる。
いくつかの疑問が頭をよぎり、そして、Mの心当たりに至る。
百日ダリアか。
しかし、冷静に考えてみて、それはないようにも思えた。
あの女ならば、僕を呼び出そうとするのならば、席が近いという関係上、まず普通に面と向かって何かを言ってくるだろう。わざわざ迂遠な手紙という手段を取る理由がない。席が近いという理由は両隣の二人にも適用できるため、彼女たちも除外できると言える。藍だけはそういう迂遠な手段を取ることもないとは言えないが、それにしたって、昼休みの彼女の態度からしても僕と大事な話がしたいという風には見えなかった。
考えたって仕方がないと思い、教室に戻って、藍や栗原や百日ダリアの姿を探すが、もう帰った後らしく、どこにも姿は見えない。教室の中には未だ居残っておしゃべりをしている女子のグループがあるのみだ。
僕はそのめんどくさそうな連中に目をつけられる前に足早にそこを去り、歩きながら考える。
行くか、行かないか。
この状況で、こんな手紙、十中八九、僕に対する嫌がらせの一環だと思われるが、明確な証拠はない。
もし、本当に大事な話がある相手が僕を呼び出したとするのならば、行かなければその相手を放置することにもなり得る。
どうするべきか。
下駄箱に着くまでの間に思考を終え、結論を出す。
「よし、帰ろう」
藍でもなく、栗原でもない理由は明白だ。ならば、可能性のあるとしたら、やはり百日ダリアとなるが、あいつに呼び出されたところでそれに真摯に応えてやる義理もない。どうせ呼び出されたところで、どうせへたれとか言われて精神的に追い詰められるだけなのだ。それならば、行かない方がいい。
僕の未だ知らない第三者だとしても、やはりどうでもいい。
今の僕は藍と栗原のことで頭がいっぱいなのだ。
ほかのことにかまける余裕はない。
もしその第三者が本当にいるのなら、さすがに悪いとは思うが、しかし、その可能性もかなり低いと思われるし。
それから外履きに履き替えようとして、メールの着信に震えた携帯を取り出した。
確認すると、差出人は知らないメールアドレス。
件名は『手紙』
本文は『行くも行かないも自由だけど、このままだらだらと堂々巡りを繰り返していて、本当に結論が出せると思うの?』
こちらの心境を読んだような内容に、思わず周囲を確認する。こちらを窺っている影はないように思われた。
……。
気が変わった。
手紙の差出人が誰かは知らないが、少なくともこのメールの差出人が誰かはわかる。
この女の言い様に従うのは癪だが、それでも、このまま帰るととても負けた気分になる。少しでもこの女の驚く顔を見てやりたいとも思う。
そのためには、奴の意表を突くのもそうだが、奴の思惑を外してやるのもまた必要だ。
それで言えば、こいつが僕がこの手紙に従って何かに打ちのめされるとでも思っているのなら、やはりそれに逆らいたい。
せめてもの逆襲をしてやりたい。
だから、僕は午後六時の時間まで時間を潰すべく、図書室で本でも読んでいることにした。




