影
昼休みとなり、クラスメイトたちが三々五々、各々の昼ご飯を求めて各地へと散っていく。
栗原は弁当を取り出して、声をかけてきた友達と少し離れた場所で包みを広げた。
藍は今日は自分で弁当を作ってきてはいないようで、食堂へと赴く様子。
僕はその後ろ姿に誘いの声をかけようとして、金髪女に先を越される。
「ねえ、九々葉藍。久しぶりに一緒にお昼食べよ?」
「……わかった」
横目でこちらを窺いつつも、百日ダリアの提案に頷く藍。
僕は教室に取り残された。
「……相田、飯一緒に食うか?」
「……ああ」
最終的にそんな僕を見るに見かねて近寄ってきた斎藤の誘いに首肯した。
斎藤努が堂々と僕の前の座席を占有して、椅子を後ろ向け、机にパン類を並べる。そこは百日ダリアの席なのだが、振り切ったのか割り切ったのか慣れ切ったのか知らないが、なかなか根性の座っている男だと思う。
僕も、購買で購入してきたカレーパンとメロンパンとクリームパンと牛乳を並べた。
「三分の二が菓子パンって……甘くないのか?」
「いいだろ、別に。今日はこれが食べたい気分だったんだよ」
昼ご飯にメロンパンとクリームパンを選択した僕に、目を丸くした斎藤が言って、唇を尖らせて反論する。
「それでどうだ? 三人の美少女に囲まれて過ごす学校生活は」
焼きそばパンを咀嚼しながら、行儀悪く肘をついた斎藤が半ばからかうように訊いてくる。
「語感で感じるほどには好ましくないものだとだけ言っておく。他人から見ればうらやましく思える状況であったとしても、その中に揉まれる当事者からすればしゃれにならないものだ」
「だけとだけ言ってないじゃねえか」
「人の揚げ足を取って楽しいか?」
「楽しくはないが、つまらなくもないな」
男二人で顔を突き合わせてパンを貪る。なんと見目醜い絵面だろうか。
……いや、まあ、高校生的に日常ありふれる光景だとは思うけれど。
「それで、相田は何をどうするつもりなんだ?」
焼きそばパンの三分の一を一口で飲み込み、お茶をペットボトルの容量五分の一ほどを一気に飲み干し、斎藤が言う。
「何をどうするって、具体的になんだよ」
「だから、それを訊いてるんじゃねえか」
「だから、その質問が意味わからないんだよ」
喧嘩腰に見えなくもないやり取りだが、お互い何ら含むところはない。同性に対する接し方に難のある僕と、いまいち言葉を選ばないところのある斎藤が込み入った話をしようとすれば自然、こうなる。
「あの女に何をどうするっつー話だよ」
「あの女、ね。百日ダリアか」
「今の現状、それ以外にないだろ」
「今の現状って意味被ってるんだが」
「どうでもいいだろ、そんなこと。で、実際のところ、どうなんだよ?」
パンの袋を握りしめて、急かすように顎をすくう。
「どうなんだよ、と言われても。あいつの性格の悪辣さ加減は身に染みたつもりだが。それでも、性格が悪いっていうか、性格が破綻してるっていうか、その範疇を超えちゃいないし、そもそも僕はあいつに何もされてない」
散々な言葉の数々を浴びせかけられたという自覚はあるが、あの金髪蒼眼ハーフに僕はまだ何も実際的な被害を受けたわけじゃない。あいつが藍にどうしようもなく執着しているらしいというのは態度や言葉の端々から見受けられるが、それにしたって、行動としては仲直りした旧友の範疇を超えていないのだから、こちらとしても何もしようがないだろう。
僕のそんな常識的とも控えめともいえる意見を、斎藤は一顧だにしない。
「あの女相手にそんな殊勝なこと言ってると、後で痛い目見るぞ」
「おおげさじゃないのか?たしかにお前は小学校時代はあいつが原因でひどい目に遭ったのかもしれないが、それだって、故意ではあるのかもしれんが、それでもいじめにまで発展すると思ってやったわけじゃないんだろう?」
いくら百日ダリアが人格破綻者でも、小学生の時分にそこまでの悪意を持ちうることはないだろうという一般的視点に基づくその疑問は、「いいや」という斎藤のまじめな面持ちの下の低い声によって否定される。
「あの女を舐めるな。小学生だろうが、中学生だろうが、高校生だろうが、あの女の本質は何も変わっちゃいない。一週間足らずとはいえ、小学生時代、あいつと付き合ってそれなりに一緒にいたからわかる。あの女は真性のいかれ野郎だ」
「野郎ではないだろうよ」
「そんなことは細かいことだ。どうでもいい。俺が言ってんのはあいつに関して後手に回ったら、必ずあんたは後悔するということだけだ」
「後手、って戦いじゃあるまいし……」
「戦いなんだよ。学校内における人間関係ってのはある種勢力争いみたいな面も孕んでる。その点、自分の勢力を作ることに関しちゃあの女は抜きん出てる。そして、学校内における一つの勢力ってのは個人の言動や力量なんか関係のない絶対的権力だ。あの女は自分の目的を達成するための力が手元にあるのに、それを使うことをためらう女じゃない。だから、早めに潰さないとやばいんだよ」
力説する斎藤に、僕は困惑するしかない。
友達付き合いの薄い僕だからかもしれないが、今の学生を取り巻く環境ってそんな殺伐としてるものなのだろうか。
「潰すって言っても、どうしようもないだろ。暴力にでも訴えるのか、それこそどっちが悪だって話じゃないか」
「……まあ、そう言われるとそうなんだが。でも、たとえ現状できることが限られてるとしても、それを怠っちゃまずいと、俺は思うぜ。経験者として、それは言っておく」
「傍観者面してるところ悪いが、お前がその標的にされる可能性もないわけじゃないと思うが……」
「そうだったぁ……!!」
頭を抱える斎藤は本気で苦悩しているように思われた。
斎藤の懸念はその日のうちに現実のものとなってしまう。
いや、少なくとも、その兆候は見られたと言えるかもしれない。
それは、その日の最後の授業六時限目の体育の時間に訪れた。
「いっ……!?」
突然感じた側頭部への衝撃に思わず、苦痛の声を漏らす。
「……あー、わりぃ、手が滑った」
飛んできたバレーボールの方向を見ると、その方向に突っ立っていた一人の男子生徒が頭をかいて謝罪の言葉を述べた。
取り組んでいる体育の種目はバレー。時期に沿っているのか沿っていないのかは知れずとも、担当教師から告げられたからには生徒はそれに従うしかない。
他クラスと合わせて四十人いる男子の中で、四グループに分かれてバレーボールの試合が行われている。
その折、コート前面で後ろの男子生徒がサーブを打つのを待っていた僕は斜め後方から勢いよくボールを頭にぶつけられたのだった。
「……」
軽く手を上げてその謝罪に応じる。
かなりの激痛が頭部側面に生じているとはいえ、故意ではない行為にそこまで目くじらを立てるわけにもいかない。
後ろの男子生徒の態度がそれほど悪く思っているようには見えないものだったとしても、こちらの痛みが向こうに伝わらない以上、向こうもそれに真剣な罪悪感を持てるものでもないのだろう。
構わず、僕はまた前を向き、試合の再開に備える。
だから。
「……ああ、そういうことか」
もう一度、側頭部にぶつけられたボールがネットに大きなたわみを生じさせるのを見て、僕は自身の置かれた状況というものに納得がいった。
高校生にもなってこれとは、反吐が出るとしか言いようがないが。
「……わりぃ」
機械的に後ろを振り返り、向けられたまじめ腐った顔と軽い謝罪の言葉を受け、それにこだわるでもなく僕はもう一度手を上げた。
二回のサーブ失敗により、サーブ権が相手側に渡る。
相手は別のクラスの人間で、僕の置かれた状況とはまるで関係がない。相手チームの幾人かが、二度もボールをぶつけられた僕を何か不気味なものを見るような目で見ているが、僕は努めてその視線を拒絶して、飛んでくるボールに構える。
味方コート中ほどにいた小柄な男子がレシーブをし、前衛の僕がトス、そして、隣にいた背の高い男子がジャンプして強烈なスパイクを打つ。
――その着地際、体勢を崩したらしきその男子の不自然なほどに伸ばされた足が僕のつま先を踏んでいた。
「……ご、ごめん」
割と真摯に謝るその姿に僕は「ああ」とだけ返して、視線を逸らす。
故意なのか故意ではないのか、疑心に陥るような態度だが、どちらにしろ僕の置かれた状況が変わるわけではないのは明白だった。
その時間に手が滑った、または足が滑った、または故意ではないとして、僕の肉体に振るわれた偶然の暴力はおよそ十回ほどだった。
……これが単に僕の今日の不運を差していないことだけはたしかだろう。
思いながら、更衣室で体操着を着替える。
今日の授業はこれで終了。
僕は体操着を袋に入れて、肩に引っさげて教室に戻ろうとし、女子更衣室の方から出てきた百日ダリアと藍の二人に出くわす。
彼女は僕の顔を見て、何を思ったか気遣うように、
「……相田君、試合中に間違えてボールをぶつけられてたみたいに見えたんだけど、怪我とかない?」
と訊いた。
それを聞き、横にいた藍が少し驚いた顔をし、心配そうな目を向けてくる。
「……大丈夫なの? 涼」
僕はその二人にどういう返答をしようか考え、結局は事実のみを述べることにした。
「別に目立つような怪我もないし、今は痛みもない。ぶつけてきた奴も『本人の』故意ではないだろうしな。何も問題はないさ」
『本人の』を強調するように口調を強めた。藍が不思議そうな顔をしている。
百日ダリアは僕の言い様に、やはりその笑みを深める。
「そう、故意じゃないのなら、誰も責めるわけにはいかないよね。相田くん」
「ああ、本当に故意じゃないのなら、な」
「……?」
横で首を傾げる藍の姿に、今の状況にありつつも少しの心の癒しを感じ、けれど、百日ダリアには毅然として態度を取り続ける。
それをどう思ったのか、彼女はひらひらと手を振って、「お大事にー」と言い残して、去っていく。
残された藍は僕を心配そうな目で見つつも、それでも今の距離感ではそれ以上の言葉をかけることはせず、僕の横を通り過ぎていく。
「……はあ」
ため息をつくことだけが今の僕にできる唯一の安息を得られる行為だった。
僕は教室に戻って、鞄を回収し、家に帰った。




