それでも、二人は変わらない
九月二日。
本格的に授業が開始され、半ばの諦めとともに学生が現実を受け入れ始める頃合い。
今月の休みの数を頭に浮かばせながら教室に入ると、昨日席替えをした教室中央最後方の僕の席の隣に、小さな背中が座っているのが目に入った。
後ずさりしそうになる自分を叱咤し、僕は自分の席へと向かう。
鞄を机の横に引っかけ、椅子を引くと、藍が手元の本に向いていた目線をちらりとこちらに投げかけてきた。
腰を下ろして、口を開く。
「おはよう」
「……おはよう、涼」
まだそれなりに親しみを持った呼ばれ方をしていることに少しの安堵を覚え、そして、次の言葉で見事にその気持ちを打ち砕かれる。
「るりちゃんから、聞いたよ」
大した表情の変化もなく告げられた言葉に、思わず動きを止めてしまう。
そんな僕を横目で窺い見るようにしながら、藍が続ける。
「告白、されたんだね」
「う、うん」
「……受けるの?」
「何を馬鹿なことを……僕は藍の」
「わたしの、彼氏だから?」
「そ、そう」
続けようとした言葉を藍に拾われ、たじろぎながら頷きを返す。
「わたしを好きだから、じゃなくて?」
そして、次の言葉にはすぐには返答できない。
別に彼女の声音に突き放すような感情や冷たい心根を窺わせるような色が含まれているわけではない。単純な事実確認を行われているような平坦さが、とても心に苦しく感じる。それは僕が図星を指されているからなのか。それが自分自身で判断できないのがどうしようもなくもどかしい。
こうして動揺するのもこの一週間ほどの間に、もはや何度目だろう。
「……ごめん。その質問に対して即答で否と答えられたらどれだけよかったかと思うけど、僕はそれに答えられない」
「……そう」
返ってくる相槌には隠しきれない一抹の寂しさが滲んでいる。
それをどうにかできる術が今の自分の心にはないことが、僕自身の心をどこまでも苛んでいた。
「これだけは言っておくよ」
僕の顔に浮かんでいる表情をどう感じたのかわからないが、藍が揺らがない意思を感じせる声とともに言い放った。
「わたしは涼が好きだよ。あなたがわたしのことをどう思っていようとも、それは変わらない。こんな風に涼と距離を取った関係になるなんて、全然想像していなかったけど。それでもやっぱりわたしの想いは変わらないから。すでに彼氏彼女の関係になってしまった上でこういうことを言うのも変だけど、でも……だからこそ、あなたがわたしを好きでなくなってしまっても、わたしはきっとあなたが好きです」
変わったと思う。
振り返ってみて、教室の中という、誰もが誰もを知っていて、けれど誰もが誰もを受け入れているとは限らない、こんな特殊な環境で、ここまでの本音を口にする藍の姿は一度として見たことがなかった。
だから、変わったと思う。
僕が彼女を見ていたのはせいぜいが三か月といったところだけど、その中で見た彼女の印象にはとても弱さを内包しているところがあった。突き通す意思を持っているようでいて、揺らぐ弱さも持っている。そんな具合に。
けれど、今の彼女はそうではく、僕という媒介を通すでもなく、ただ己の身のみできちんとした主張を僕にし、きちんとした気持ちの整理をしている。
心のどこかで僕は藍を守ってあげなければいけない弱い人間だと思っていた節があったが、いつの間にか、その認識は現実に即さないものとなってしまったようだった。
藍はもう、彼女一人で立っている。
それが今の僕には救いであって、同時に失意でもある。
僕が彼女を守らなくてもいいのなら、そこには本当に何も大義名分がない。逃げ道がない。取り繕う体裁もない。
あるのは本当に、僕が藍を好きかどうか、その問題だけ。
気持ちがあるかないか。この関係は本当にそれのみに帰した。
「……ありがとう。とそれには答えるよ。今の僕にはそれに返す言葉がそれ以外にない。だけど、近いうちにちゃんと答えを出すから。わからなくなっている自分の心を殴りつけてその心にかかった錠前を外して、内実をぶちまけてやるから」
彼女に向き合うには足りない誠実さであっても、それが今現在の相田涼の気持ちだった。
藍は無言で頷いて、手元の本に向かい直す。
けれど、その意識が物語の世界に浸る前に、それは再度僕に向けられた。
「……自分を殴るのはもうやめてね」
「……ごめんなさい」
冗談ではなく比喩でもなく実際に彼女に頭を下げて、僕はこれだけは自分でも本当の気持ちであると確信しながら謝罪をした。
それからしばらくの時間が経ち、教室の中に続々と生徒諸氏が足を踏み入れてくる。
その中に栗原の姿もあり、その後ろに百日ダリアの姿もあった。
栗原の顔色が優れないのと対照的に百日ダリアの顔色はすこぶる明るい。まるで受験に失敗した浪人生と志望校に一発で合格した現役生のような塩梅だ。
その二人は並んで、ではなく、五メートルほどの距離を保ちつつ、僕の方へ、つまりは自分たちの座席の方へとやってくる。
「おはよう……。相田君。藍ちゃん」
「おはよっ。九々葉藍。相田君」
栗原るりと百日ダリアがこれまた対照的な暗い声と弾む声をかけてくる。
僕と藍もまた挨拶を返し、そして、藍が栗原に心配そうな目を向けた。
「どうしたの? るりちゃん、顔色がよくないけど、何かあった?」
「いやー、ちょっとねー。なんて言ったらいいのかなー。こう、女の子的えぐいやり取りを朝っぱらからやらされると気分も顔色も優れないというものなのですよー」
言って、栗原は胡乱気な目つきを百日ダリアへと向ける。
彼女は素知らぬ顔で近くにいたクラスメイトに声をかけていた。
なんとなく、何があったか察したような察せられていないような。
だが、詳しい内容はわからずとも、教室まで来るまでの時間に栗原と百日ダリアの間に、おそらくは藍か僕かそのどちらか、あるいは両方に関係する裏取引の類があったらしい。
その辺を包み隠そうとしない栗原に、好感を覚えるとともに、転入二日目の朝に、栗原という僕と藍にとって今現在微妙な立場の人間に何かを仕掛けようとした百日ダリアに末恐ろしさを感じる。
だが、栗原がそれを隠さないということは、その交渉は決裂に終わったと見ていいのだろう。でなければわざわざ僕の前で何があったかを話していい理由はないだろうし。
「……よくわからないけど、おつかれさま」
栗原の言葉の意味を理解しきれなかったらしい藍が労いの声をかけ、栗原が「ありがと」と返した。
その二人のやり取りに、色恋の問題がこじれているとき特有のぎこちなさは生じていない。僕という奇特な人間を好きになってくれたという奇特な彼女たちなので、また一般の例に則ることなく自分たちらしさを貫けるということらしい。わかりやすく言えば、好きな相手を争っていても、友達でいられるということだ。
こんなこと、その渦中にいる僕が考えるのは何かが間違っている気はする。
「……今更なんだけどさ」
この二人の変わらないやり取りを見た後に、僕が口を開くのは少しばかり勇気は要ったが、それでも一つ、答えを明らかにしておく必要のある疑問が胸中に生じたので、それを解消するべく舌を動かす。
「藍は百日ダリアとは仲直りをしたの?」
普通に朝の挨拶を交わしていた二人の間に、数年来の仲たがいの後のようなこれもまたぎこちなさは生じていなかったように見えた。百日ダリアと藍が仲直りをしたというのならば、それはいつの間に行われていたのだろうか。
僕の言に目を見開いた藍が何かを口にしようとして、それを遮るように、今の今までまったく別の方向を向いていた百日ダリアがぐりんと首を回転させてこっちを見ながら言った。
「……君が九々葉藍の家に通い続けていた三週間ばかりの間に、ボクもまた同じことをしていたんだよ」
「同じこと?」
「要するに、何の理由か知らないけど仲たがいしていた君と同じように、ボクもボクで帰国して真っ先に藍と仲直りをしたいと思ったんだよ。だから、君に会うその日までボクもまた君と同じように彼女の家に通い詰めていたのさ」
勝ち誇るようにそう言う百日ダリアの目が鋭く僕を見つめているのは、言外に、未だ本当の意味での仲直りを果たせていない僕の不甲斐なさを責めているからだろうか。
「……涼も来てたの?」
藍がその言葉を聞いて、意外そうにこちらを窺う。
少しばかりばつが悪くとも僕はそれに頷くしかない。
「……何かしなくちゃ、とは思ってたんだよ……。思ってたけど、藍に会う勇気がなかった……」
懺悔するように口にする僕。それに応じて、藍がおそらくは慰めの類を口にしようとした瞬間に、百日ダリアの言葉が紡がれる。
「へたれ」
「――っ!」
それが謂れのない罵倒の類ならまだ言い返す余地はあったかもしれないが、その言葉は今の僕にぴったりすぎるほどにぴったり合っているものだった。たとえ腹が立つ言い方であったとしても、反論の余地はない。事実、自分の彼女への気持ちを確信できず、女友達からの告白の返事を待たせている僕はへたれ以外の何物でもない。
それは僕ももう、とっくの昔に自覚していることだ。
だというのに、
「ももちゃん!」
「百日さん!」
僕の両側から、そんな僕であってもなお、その味方をしてくれる二人の声が重なった。
うなだれる僕は顔を上げ、左右の女の子のひしひしと顔に浮かぶ義憤の表情に唖然とした。
二人は僕を挟んで目を合わせ、そして同時に笑みを浮かべた。
「……いくらももちゃんでも、涼のことそんな風に言うのはやめて。でないと、また絶交することになるから」
「百日さん、言っちゃだめな場面と言っちゃだめな言葉があることぐらい帰国子女の君でもわかるはずでしょ? 今の君はその両方を犯したのよ」
藍と栗原が言い募り、百日ダリアがにんまりと笑みを浮かべる。その笑みに僕は言い様のない不快感を覚える。
「やだなぁ。二人とも、そんなに怖い顔してー、ボクが本気でそんな人を傷つけるような言葉を口にするはずがないじゃないかー! 見損わないでよ、もぅ。栗原さんの言う通り、ボクは帰国子女だけれど、それでも日本のその場の空気を重んじる風潮自体は理解してるつもりだよ? その善悪は問わずして。
……ごめんね。相田君、ボクにはちょっと冗談を言う場面を弁えられない癖があるみたいだ」
そう言って、彼女は僕を見る。
その瞳がまったく笑っておらず、ただただ冷たい響きだけをたたえていることを認識し、僕はこの女がただの上っ面だけでその謝罪を口にしたことを理解した。
けれど、彼女の視線上にいない栗原と藍にはそのことが伝わらなかったのだろう。二人は安堵するように少し息を吐いて、ひとまずはその怒りを収めている。
「……ああ、別にいいさ」
だから、僕はそれ以上、その問題を長引かせることもできない。
「ありがとっ」
言いつつ、おどけたように笑って見せる百日ダリア。
その人をあからさまに馬鹿にしているとしか思えない笑みを見て、この女とは心底相容れないのではないか、と思わずにはいられない。
「そろそろ授業始まるよ」
栗原の言に、まるでタイミングを見計らっていたように、担当の教師が教室の扉を開ける。
日直の声に席を立ち上がり、礼をして、席につく。
揺れる金髪が僕の眼前に広がって、そのきらめく輝きに目を逸らす。
この女の底は一体どこにあるのだろうか。その本心は。望みは。願望は。何がしたくてここにいるのか。
見えているようでいてまるで見えていない。すべてふざけたようなものばかりに聞こえた彼女の言葉のどこに、真実があったのだろうか。
それがわからない限り、この女に僕が振り回されるという現実は変わらない気がした。




