回想
小学校三年生のとき。
僕には好きな女の子がいた。
その子は僕と同じクラスの大人しめな女の子で、クラス内では大して目立つでもなく、さりとて一人ぼっちに陥るでもなく、二人ほどの同じく大人しめな女の子と一緒にいつも穏やかに話をしていた。
当時の僕は取り立てて特徴といった特徴が挙げられない普通の男子生徒で、だから、取り立てて述べる必要のあるようなイベントがあったわけでもなく、特徴といった特徴の挙げられないその女子生徒を好きになった。
今から考えれば、その想いこそ幼い頃の心の不安定さゆえの嘘だったと言えるのかもしれない。いや、嘘というよりかはただ単に未熟だったというだけの話なのかもしれないが。
何の特徴もない恋かもしれなかったが、けれど、彼女との出来事がまったくの皆無だったというわけではなかった。
あるとき、僕は体育の授業のサッカーの時間に派手に転んで、グラウンドの砂に肌を傷つけられた。
特筆して運動神経がいいわけでも悪いわけでもなかった僕は、そう目立った怪我をすることも少なく、小学校を通して体育の時間に怪我をしたのはそのときだけだったように思う。
その怪我はふくらはぎの表面の皮膚が掠め取られるように持っていかれたもので、痛みはそれほどでもないものの、滲んだ血とわずかに見える内側の肉のせいで大分見た目にはえぐいものになっていた。
僕は見ようによっては大怪我の類に見えなくもないそんな怪我を自分がしているという事実に狼狽して、狼狽えてしまった。
派手に泣いて、派手に喚いて、派手に傷口を見せびらかした。
もっとも、傷の見た目のえぐさに動揺したのは周りにいるほかの生徒にとっても同じことで、動揺する僕の周りで「どうする」「やべえだろこれ」などと、彼らはあまり生産性のない言葉を吐いていた。
本来なら保健室に付き添ってくれるかもしれなかった体育教師は運悪く何かの用具を倉庫にでも取りに行っていてその場にいなかった。
僕はどうすればいいのかわからず喚くばかりで、できた人だかりに、少し離れたところで女子同士で試合を行っていたはずの女子生徒の何人かが近寄ってきた。
その中にいた当時僕が好きだったはずの女の子は、僕の傷を見ると、すぐにまじめな顔になって駆け寄り、
「大丈夫? すぐに保健室行かなきゃ。立てる?」
と優しく声をかけてくれた。
保健室に行かなければならない。そんな当たり前のことでさえも、怪我で動揺を極めていた頭の中に浮かんでいなかった僕にとって、だからその優しい声にとても救われた気持ちになったことを覚えている。
保健委員だったからという使命感が彼女にはあったのかもしれないが、それでもそんな風に怪我をしたクラスメイトに当たり前の声をかけることはなかなかできることではないと思う。
僕はその子に肩を貸してもらい、保健室まで連れて行ってもらった。
その子の好意が僕は嬉しかったし、そんな風に優しい行いを当たり前のようにできるその子を好きでいて、本当によかったと僕は思った。
それ以来、以前にもまして僕はその子のことを意識するようになった。
告白だなんていう大それたことをする勇気はなかったけれど、たまに挨拶を交わしたり、近くの席にいた彼女と授業中にちょっとした会話をすることが何よりも楽しかった。
だから、ほんのちょっとした出来事から彼女がクラスメイト全員に無視されるようになってしまったとき、僕は激しく懊悩した。
きっかけは些細なもの。
そのクラスの中で一番活発な雰囲気のあった女子に、その子が注意をしたこと。
その注意とは、友達の貸したはずの髪飾りを返してほしい、というものだった。
なんでも、かわいい髪飾りを母親に買ってもらったその友達が、その活発な女子に「それかわいいじゃん。ちょっと貸して」などと言われ、その髪飾りを奪われてしまったということだった。
「後で返すから」などという主張を繰り返すその活発な女子に、僕が好きだったその子は何度も食い下がり、結果的にその子は「うざい奴」というレッテルを張られ、クラス内で孤立した。
彼女が代わりに怒った、髪飾りを貸したというその友達でさえも、その空気感には逆らえず、彼女を無視していたことが僕は何よりもいたたまれなかった。
クラス中から無視されて、休み時間も一人でぼうっとしているだけのその少女。
僕は何度その子に声をかけようと思ったかわからない。
けれど、友達に止められ、原因たる活発な女子に止められ、人前でその子には何も言うことができなかった。
でも、僕はそれでも怪我をした僕を助けてくれたその子に感謝していたし、その子のことが好きだった。
だから、少しでも自分にできることをしたいと思い、手紙を書いた。
今思えば恥ずかしくて顔から火が出るようなことだが、その当時は本気だった。
朝、誰もクラスに来ていなような早い時間に学校にやってきて、その子の机の中に『もしよかったら僕と手紙でお話してください。相田涼』と書いた紙を折りたたんで入れておいた。
胸がどきどきしてその子の反応を窺っていた。
その子はその朝、学校にやってくると自分の席についてしばらくぼうっとしていたが、ふと机の中を探り、その手紙に気づいたようだった。
その子はわずかに顔を強張らせたが、慎重にそれを取り出して、他のクラスメイトにはばれないよう机の陰にそれを隠し、読んだ。
一行だけのその手紙を彼女がどう思ったのかはわからない。
なぜなら、彼女は勢いよく立ち上がって教室の外に走り去ってしまったからだ。
僕は不安に駆られてその一日を過ごした。
次の日の朝、僕が学校に来ると、机の中に一冊のノートが入れてあった。
『交換日記』と書かれたその表紙に、僕は激しく動揺して慌ててそのノートを机の中にしまった。
彼女の席の方へ視線を送ると、まともに目が合って、すぐに目を逸らした。
家に帰って中身を見ると、その日の日付と『これからよろしくお願いします。相田君』と書かれた文章が中にはあった。
次の朝、僕は学校に早く来て、彼女の机の中に、新しい日付と『こちらこそよろしくお願いします。じゃあ、何の話をする?』と書いたノートを入れておいた。
それからしばらく、二人で交換日記をやっていた。
小学生なので、文章はどちらもへたくそで、でもだからこそむき出しの気持ちを交換しているようでとても楽しかった。
けれど、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。
あるとき僕が油断して、そのノートを机の中から落としてしまったのだ。
友達がそれを拾い、そしてすべてが露見した。
僕はクラス中のからかいの的になった。
彼女もまた、クラス中のからかいの的になった。
彼女はそれから少しして、学校に来なくなった。
僕は彼女の代わりと言わんばかりに、クラスで孤立して、友達はそれを平然と受け入れた。
僕はそれ以来、友達を作るのが嫌になった。
そして、好きだったその子一人守れなかった自分に嫌気が差した。
だからこそ、僕はもう二度とそんな思いはしないと誓った。
どんなことをしてでも、好きな子一人の心だけは守りたい、とそう思った。
そのはずだった。
今にして思うのはそのときの僕はひどく幼く、ひどく未熟で、そしてひどく馬鹿だったということ。
幼いから彼女に面と向かって話しかけられなかったし、未熟だから交換日記は露見して、そして馬鹿だから――僕はその子の名前さえ覚えていないのだろう。
その子は家庭の事情で転校をしたと風の噂に聞いた。だから、卒業アルバムを見たところで、その子の名前は載っていない。転校をしたことを聞いたはずなのに、やはり名前を覚えていないのは僕が馬鹿だからということ以外にどんな理由もありはしないだろう。
思えば独りよがりは昔からで、変えると思った自分さえもあるいはまったく変えられていなかったのかもしれない。
だから今度も傷つけて、今度もそれを失うのか。
いいや、違う。
今度こそ守らなければいけない。
きっと、小学校のあれ以来、僕は無意識のうちに自分が傷つくのを恐れていたのだろう。傷つくのを恐れて、藍の前で仮初の自分を演じ、彼女を守る自分というのを強く意識していた。
けれど、それはまやかしだった。幻だった。僕のただの幻想だった。
だって、藍はそんな僕を求めていたわけじゃ、きっとなかったのだろうから。
僕は自分の思いの下に好きな人を守る男という理想に酔っていただけだ。結局、現実を見ていなかった。藍を見ていなかった。だから、彼女にあんなことを言わせてしまったのだ。
僕が自分で気づくべきだった。
僕が自分で省みるべきだった。
今となってはその後悔は遅く、けれど、まだ手遅れではない。
藍がまだ僕を見限ってくれていないのなら、僕はまだ取り戻せる。
何を?
それはたぶん、信頼を。
自分に都合のいい嘘という幻想で自己を取り繕ってそれで満足するのはもうやめにしなければいけない。
いい加減、僕も成長しよう。
藍がずっと、変わり続けているのと同じように。




