友達
九月一日になり、学校が再開する。
夏休みはその日程をすべて消化し、繰り返される学校の授業という現実に大半の学生が倦怠感を抱く頃合い。
けれど、僕はそれだけには収まらない憂鬱感を抱えて、学校に向かっていた。
あの朝以来、僕は一度も藍の顔を見ていない。夏休みの間中、使命感に駆られてずっと毎日のように九々葉家を訪れてはいたが、そのインターホンを押すことも、藍に連絡を取ることもできず、ただその場に立ち尽くすないしはその場をすぐに立ち去るのが常だった。
会わなければならないことはわかっていても、会うことが怖かった。
会って僕が彼女に何を言うのかも、会って彼女に何を言われるのかもそれらが等しく怖くてならなかった。
だから、僕があの旅館でのこと以来、藍に会うのは今日が初めてということになる。
逃避を繰り返してきた自分自身の情けなさを悔いるとともに、今日こそは何かを言わなければならないという思いを固める。
もう逃げられないのだ。覚悟を決めるしかない。
僕は決意とともに昇降口を通過する。
教室に入って、やや忘れかけていた教室中央ほどにある自分の席へと向かう。
ざっと中を見渡して、そこに藍の姿も、そして栗原の姿もないことに少しの安堵を感じ、腰を下ろした。
「よう。今日は早いな」
後ろから声をかけられて振り返ると、斎藤努が立っていた。
ああ、そう言えばこいつもいたな。
あまりにも心揺さぶられることが続いたせいで、僕は僕の友達であるはずの男の存在を完全に忘れていた。
「なんだ、斎藤か」
「ああ、その斎藤だよ。長らく顔を合わせていなかった友達に対して、ずいぶんな言い草だな」
「別に、深い意味なんかないさ。お前がいるってことが完全に頭から抜け落ちてただけだ」
「……ひでえ奴だな、ほんと」
嘆息するように言う。
それから、何の気なしに斎藤は当然の話題提供としてこう言った。
「旅館の感想とか聞きたかったのに、あれ以来、連絡つかねえしよ。いくらなんでももう少し俺にも気を回すというか」
言われて当然のそんな言葉に、それでも少しどころではなく体が強張ってしまうのは、僕自身の不甲斐なさゆえか。
そんな僕の反応にまるで気づくでもなく、斎藤はぶつぶつと文句を言っている。
僕は呼吸と心拍を整えて、声が震えることのないよう気を引き締め、口を開く。
「悪かったよ。その節はありがとう。これでいいか?」
「投げやりにしか聞こえないんだが」
「細かいこと気にするなよ。はげるぞ」
「うるせえ」
軽口を叩いて、現実に触れることをごまかす。これもまた、自分に嘘をついていることになるのか、などと考えてしまう今の僕は、まず間違いなくあの女に毒されている。
そういえば、とふと思った。
目の前にいるこの斎藤努にとって、百日ダリアはまさしくトラウマと言ってもいいものではないのだろうか、と。
その百日ダリアがこの街に来ていて、あまつさえ僕が昨日会ったと言ったら、こいつはどんな顔をするだろう。
おそらくは言うべきではないのだろうな、と思う。あの女にとってきっと、小学生時代に短期間付き合っていた斎藤努、もとい日比原努のことなどほとんど記憶の片隅にもおいていないだろう。だったら、あの女がこいつと関わろうとする可能性も少ない。関わる確率が少ないのに、取り立ててわざわざ口に出すようなことでもない。
斎藤努のことを考えるのなら、ここは黙っておくべきところだ。
男子高校生らしくだらないやり取りをそこそこに、斎藤はまた別のクラスメイトに話しかけるために、その場を離れていく。
僕はそのまま席に座っていた。
藍が教室に入ってきたのは、本鈴が鳴ると同時だった。
その十分前に入ってきた栗原とは軽い挨拶を交わしたが、どこかぎこちないものとなってしまった。まあ、前日に告白したされた同士なのだから当然と言えば、当然なのだが。
そして、藍を相手にするのは今の僕にとってはまたどうしようもなく難事。
話しかける隙間さえもないという言い訳が成り立ってしまうのをありがたく思う自分に嫌悪感を抱く。
僕はどこまで腑抜けに堕しているのだろう。
教室に入ってきた藍はさして慌てるでもなく、窓際の自分の席に向かっていく。その際、僕の方をちらりと見た。
目が合いそうになる寸前、僕は目線を逸らした。
それ以上、彼女の顔を見ることができない。
だから、その僕の露骨な態度に対して彼女が何を思ったのか、定かではない。
定かではないのだが、左斜め後方から聞こえてきた椅子の足が床に引きずられるような音と甲高い「いたっ」という椅子に足を引っかけて転びでもしたような声が誰のものなのかは、僕には見るまでもないように思われた。
……そんな彼女をどうしようもなくかわいいと、今の僕が思うのはいけないことだろうか。
思う間もなく、ホームルームを始めるために、担任教師が教室に入ってくる。
彼が扉を閉じる際、垣間見えた金色の髪が揺らめく影に、僕は嫌な予感をひしひしと感じた。
というよりも、もはやそれは予感でもなんでもなかった。
単なる嫌な現実だ。
「今日は新学期から一緒にこのクラスで勉強することになる、転入生の紹介をします」
担任教師がそう言って、クラス内がやや沸き立つ。高校生になってまで転入というのも珍しいことだ。そういう反応になっても仕方がない。
「では、入ってきてください」
扉の外に声がかけられ、クラスの扉が開かれる。
クラスメイトたちの中の十数人が息を呑む音が一斉に聞こえた。
一方、僕はため息をつくしかない。自分の置かれた現状を囲い込むすべてが僕を追い詰めるために仕掛けられた罠の類なのではないかとさえ勘繰ってしまう。もっとも、僕を罠に追い込んだところで、何の益もないことはたしかだから、それはありえないのだが。
百日ダリアが僕と藍のクラスに足を踏み入れてくる。
その顔には上品な微笑みさえ刻まれていて、教卓の前に立った彼女は白いチョークをその細い指先で掴み、黒板に自身の名前を書きつけた。
「皆さん、初めまして。百日ダリアと言います。これから半年と少し、皆さんと一緒に過ごさせていただくことになりました。よろしくお願いします」
百日ダリアはぺこりと深く頭を下げた。
ぱちぱちぱちと、まばらな拍手。そして、見入るような視線が百日ダリアに送られる。
彼女はそれを嫌がるでもなく、平然としたまま突っ立っていた。
と、うんざりとしたように彼女を見る僕の視線に気づいたのか、目をわずかに細めて彼女が僕に目をやり、そして、温度のない冷たい微笑をほんの一瞬だけ浮かべた。
それからすぐに穏やかな微笑みへと表情を変化させた彼女が、今度は僕の左斜め後方に目をやる。
その視線の中に宿るものが突然に途方もない熱を持ったように、僕には感じられた。
藍が今どんな顔をしているのか、僕にはわからない。
しかし、もし仮に傷ついたような表情をしていたところで、今の僕には彼女を慰める資格すらないと思い至って、自分の不甲斐なさを再三にわたって噛みしめる。
後ろでガタリと誰かが立ち上がる音がした。
見ると、青ざめた顔で斎藤努が百日ダリアを見つめているのが目に入った。
「……す、すいません。ちょっと、保健室に」
担任教師からの返事をもらうこともなく、斎藤努は足早にクラスの後ろの扉から出て行った。
その露骨な反応に、不審を覚えたクラスメイト数人の目線が百日ダリアに送られる。
彼女は斎藤の出て行った扉をしばらく見つめていたが、下唇を舌で舐めるようにして口元に微笑み以上のはっきりとした笑みを浮かべた。
僕と藍と栗原と百日ダリア。それだけでも十分に重い荷物が積み重なっているのに、さらにめんどうなことになりそうだと、僕は思わずにはいられなかった。
「……」
「……」
「……」
「あはははっ」
四者四様の反応がそこにはある。
気まずさに耐えかねる三人と、そして、ただひたすらに面白がる一人。ああ、いや、これでは四者二様か。
発端は些細なことだった。新学期になったからということで、席替えをすると担任教師が言い出したのだ。
その提案自体は普通のもので、僕も今の教室中央の席はいろいろとめんどうだと思っていたので、それは非常にありがいものだった。
けれど、実際にくじを引いてみて、そして、実際に席を新しいものに変えてみて、僕はその提案を口にした担任教師を呪いたくなった。
僕の席は結局、教室中央の列。ただし位置自体は一番後ろで、前よりは多少ましになったと思える。
けれど、周りの配置が見計らったように恐ろしいものになっていた。
右に藍。左に栗原。そして、前に百日ダリア。
右に仲たがい中の彼女。左に告白を待たせる女友達。そして、前に恋敵に近しい存在。
針のむしろとはこのことではないかと、僕は思う。
どうしてこうも積み重なるほどに積み重なっていくのだろうか。悪い状況というのは。
僕はもう、右にも左にもまともに視線を送ることができない。
藍を見るのも気まずいし、栗原に目を向けるのもはばかられる。
結果的に、僕は前にいる百日ダリアの方を一心に見つめているしかない。
お行儀よくはまったくなく、背もたれを抱きかかえるようにしてこちらを向いている彼女がわざとらしく頬に両手を添えた。
「なぁーに? 相田君ったら、ボクにばっかり熱い視線を送って~。だめだよー? 九々葉藍というものがありながらー、目の前で浮気なんかしちゃー。……でもぉー、そんな風に熱い目で見つめられると、ボクもちょっとその気になっちゃいそう~」
気の抜けた声でそう言う彼女に、両隣の女性がぴくりと眉を震わせたのが、僕の視界に入っていた。
もうやめてくれえ! ていうか、ホームルーム早く終わってくれえ! ていうか、先生は転入初日にあからさまに話を無視して後ろを向いている百日ダリアをどうにかしてくれえ!
懇願のような僕の心の叫びは、十分の後に聞き届けられることになる。
そして、一時限目の数学の授業が始まる前、
「……保健室行ってくる」
と誰にというわけではなくつぶやき、ふらふらと教室を後にした僕の背中に、
「いってらっしゃ~い」
という百日ダリアの底抜けに明るい声が投げかけられた。
保健室に入り、養護教諭の先生に寝不足で体調が悪いと申し出て、ベッドを貸してもらう。
半分ほどカーテンの閉まった隣のベッドには斎藤努が寝ていた。
靴を脱ぎ、ベッドの上に寝転がる。
「……相田もあの女に何かされた口か?」
目を閉じて、意識を浮遊させようとしたところで、隣のベッドから声がかけられる。
そちらに首を傾けるでもなく、天井の模様を見つめながら、口を開いた。
「まあ、そう言えないこともないな。けど、それだけならまだましだったと言える状況だ」
「まじか。あの女に関わるだけでも散々な目に遭うだろうに。どんだけ苦労抱えてるんだよ相田は」
「……ある意味自業自得なところも多分にあるというか。六割方そうだけどな」
「何があったか知らないが、ご愁傷様とだけ言っておくよ」
喧噪のない静かな空気だった。九月一日、夏休み終了後初日から保健室のベッドで半ばサボりを敢行するには惜しい朝だろう。
養護教諭の先生が何かの書類を書いているペンの音がする。
「斎藤は大丈夫か? これから三月まで、あの女と同じ教室で過ごさなきゃいけないことになったけど」
「……正直、大丈夫じゃねえな。あいつの顔を見るだけで、トラウマを抉られて平静心を保てねえよ」
「お前の話は聞いてるからな。気持ちはわかるよ」
実際、自分が小学校時代にクラス中にいじめられる原因になった相手と再会するのは、それを飲み下せていない者からすれば、相当につらいものがあるだろう。
「……でもまあ、結局、あのときの俺が優柔不断だったからっていうのもあるから、あいつに原因を求めるのも筋違いな話なんだろうけどな」
「珍しく殊勝なことを……いや、お前は僕と友達になってからずっとそんな感じか」
「これでも反省はしてるんでね」
そう言う斎藤の声音はどこか喜ばしそうだ。
「相田は何されたんだ? あいつに」
「別に大したことじゃない。人格的欠点を指摘されて、反論することもできずに一方的に論破されただけだ」
「……それを大したことじゃないって言えるあんたがすげえよ」
いやいや、実際そんなことよりも藍と仲たがいをしたあのときの方がよっぽどつらかった。傷が癒えないうちに新たな傷を抉られたという意味では、それなりの精神的ダメージだったが。
「なあ、斎藤」
「なんだよ」
「……お前って恋愛相談受けるのに優れてたりとかしない?」
「藪から棒に……ってわけでもねえか。九々葉となんかあったのか?」
「余計なことは訊くな。まず僕の質問に答えろ」
「相談持ちかけてる側が偉そうにもほどがあるだろ……」
呆れたように嘆息する斎藤は、それに拘泥するでもなく返答する。
「無理だな。俺は小学校時代に好きだった女の子を、無理やり脅迫してデートに付き合わせるような最低の男だぜ? そんな相談に乗れるわけもない」
「平然とそれを口にできるぐらい割り切れてるお前もなかなか肝が据わってるよな」
「ま、何発も顔面を思いっきり殴られたんでね。さすがに俺でも自分をきっちり省みて、心の折り合いはつけてるさ」
「……思い出しただけでなんか腹立ってたきたな。最近の憂さ晴らしも含めて、一発殴っていい?」
「完全に後者が理由だよなそれ!? やめてくれ! 本気で保健室の世話にならなきゃいけねえだろ!」
「……冗談だよ。本気にするな」
「性質の悪い冗談はやめてくれ。相田が言うと本気に聞こえる」
そう非難する斎藤の声音は若干震えている。まったく、冗談の通じない奴だ。
「それで、相談に乗れるかはわからないけど、話くらいは聞くぜ?」
なんだかんだ、それでも力になろうとしてくるあたり、根は悪い奴ではないのだろう。少々、こじらせすぎていただけで。
斎藤の好意に報いるべく、僕は深く息を吸って、そして言う。
「いや、最初からお前に話す気はないよ。ものすごく個人的なことなんでな」
「ええ~?」
気の抜けた反駁の声がカーテン越しに返ってくる。
「だったら、最初から訊くなよ! まじめに取り合った俺が馬鹿みてえじゃねえか!」
語気を荒げ、自分を卑下するような発言をする斎藤。
「え、何? お前、僕からそんな信頼を勝ち得てると思ってたわけ? ないよそんなの。お前とまともに話をしたのなんて、夏休み直前の二日間くらいだし」
「いや、そうだけどさ! もっと、こう、親身になってくれる友達に対して、いろいろあるだろ!」
「さっきからお前叫ぶなよ。うるさいよ。ここ保健室だぞ。静かにしろ」
「……納得できねえ」
渋々と声を潜める斎藤。
カーテンの隙間から覗くと、どうやら養護教諭の先生は用でも足しに行ったらしく、ちょうどいなくなっていた。
「ま、お前に相談することなんて何もないけどさ。こうして本当に何の深い意味もない、あっさい話をしてくれるだけで十分助かってるよ」
「相田……」
実際、藍とは微妙な距離感となり、栗原に告白されて返事を待たせている以上、学校でこうして僕が与太話をすることができるのは斎藤以外にいなくなってしまった。
相談に乗ってもらわなくとも、十分なものをもらっているのだ。僕は友達に重荷を背負わせる気はない。適当に雑談にかまけてもらうだけで何も言うことはないのだ。
「……ありがとな」
「ん?」
言うのをためらうようなしばしの沈黙の後、斎藤がお礼の言葉を口にする。
はて、僕は感謝されることを口にしただろうか。
「だからその、そういうことを臆面もなく言ってもらえるのはすげえ嬉しいよ。そういう風に言われるのって、なかなかないからな。それに、俺がしたことがしたことだったっていうのもある」
斎藤が心底、嬉しそうに口にした。
やはり斎藤の中には以前自分がしでかしたことが未だわだかまってもいるのだろう。心の折り合いはつけられても、すべてがなかったことになるわけではない。罪悪感は消えても、後悔自体は残っているのかもしれない。
「……気にするなよ。当事者は全部、許してるんだ。お前はもう、何も悔やむことはない」
「そう言ってもらえると助かる」
面と向かっていない状態だからこそ口にできるような内容のことで、ここが保健室で、二人ともがベッドに寝転がっていなければ、きっと気恥ずかしくてこんなことは言えなかっただろう。
斎藤もそう感じているのか、やや言葉を口にすることをためらう沈黙があって、それから言った。
「相田もがんばれよ。お前はよくわからない奴だけど、でも、少なくとも本心から悪い人間じゃないのはたしかだ」
口にされた言葉が意図せずとも、僕の現状に対する慰めになっているのは、偶然か必然か。
僕は斎藤のそんな言葉をありがたく思い、だから、軽口を返す。
「お前も十分ひどい奴だよ」
「ははっ。違いないな。なんたって、俺は好きな女の子を脅迫するクズ野郎だからな」
その言葉にどちらからともなく、笑いだす。
ひとしきり笑って、そして、僕の心はほんの少しだけど軽くなった気がした。




