金蒼の悪意
それからの夏休みはまるで消化作業のようだった。
終わっていない宿題をただひたすらにこなし、それが終わると家に引きこもってネットサーフィンその他諸々に勤しんだ。
ある一つの目的以外において外に出ることはほとんどなく、たまにでかけることがあるとすれば、栗原との約束を果たすために彼女の家に向かうことがあるくらいだった。
栗原は僕に何も言わない。僕は努めて、以前と同じ自分で彼女に対して向かおうとしているはずだが、それが上手く行っている自信はない。どうしたって不自然なふるまいというのは出てくるだろうし、どうしたって上の空になることが多くなってしまう。
だから、きっと、栗原るりは気づいているのだろう。僕と藍の間に何かがあったと。それが何かは聞いてはこないし、見計らったように藍の話題を口にもしない。彼女が求める、男を屈服させたい願望とやらも、僕が旅館から帰って次の日に彼女の家に呼び出されて以降、鳴りを潜めている。
今の僕はただ、栗原るりの家に呼び出されて、そして、他愛もない雑談を交わしてお菓子を貪った後に、家に帰っているだけだ。
皮肉にも、以前藍が口にしていた僕と栗原がやっていることの予想というのが現実になった形だ。
夏休みにやるはずだった課題。夏休みにやろうと思っていたこと。夏休みにやりたいと思っていたこと。
それらの内の大半は達成されたし、主要なもの、重要なもの、僕と藍の間にとって大事なことのほとんどは達成されたと言っていいだろう。――それらが今となっては何の意味ももたないものだろうことは脇に置いておくとしても。
けれど、もっとも重要な何かと、もっとも見失ってはならない何かは確実にこの手から取りこぼしてしまった。
滑り止めにはすべて通ったのに、本命は逃した。そんな具合。
中途半端には違いないはずなのに、表面上の体裁だけは取り繕われているのが始末に負えない。
だが結局のところ、僕と藍が仲たがいをし、そして、たしかにあったはずのつながりが今はもう何も感じ取れなくなっている現状、夏休みに恋人らしい行いをしたかどうかという、そんな体裁上のことには何の意味もないのだろう。
誰が悪いのかという話をすれば、僕が悪い。
誰に原因があるのかという話をすれば、すべて僕に原因がある。
誰のせいでこうなったのかという話をすれば、あまねくすべての遠因と近因は僕にある。
つまるところ、僕は僕の身勝手で、僕の側の都合で、僕の側の意思で、藍と距離を取ってしまったに過ぎないのだ。
それでもいい、と藍は言った。
それでもいい、とは、きっとそれでも一緒にいていいということなのかもしれない。もしくは、それでも藍を好きでいていいということなのかもしれない。
けれど、僕は僕の身勝手で、それを拒絶する。
だって、知られてしまったら、もう元には戻らないから。
知られてしまったことを認識してしまったら、もう後戻りはできないから。
僕はもう、藍とどんな顔をして笑い合えばいいのか、わからない。
わからないから、だから、どうすればいいのかもわからない。
ほんとうにもうわからない。
それでも、わからないことばかりがあっても、わかることがないわけじゃない。
それは今のまま放置してはいけないこと。
今のままの状態を野放しにしていていいわけがないこと。
それだけが今の僕が認識できるやるべき事実のすべてだ。
だから、僕はあれから毎日のように、藍の家に通っている。
通って何をしているのかと言えば、決して何をしているというわけでもない。
ただ、何かをしなければならないことがわかっていただけだ。けれど、それが何かということが僕にはわからないだけ。
気持ちばかりが逸っては、現実は一歩も進まない。
八月三十一日の昼過ぎ。
夏休み最終日のその日も、僕はまた、藍の家に一人で向かって、そして、すごすごと帰宅の途についていた。
いや、帰宅というのは正確ではない。
今日は、夏休み初日に栗原と交わした約束が終わりになる日ということで、彼女に呼び出されていた。だから、これから家に帰るわけでもなく、ここから駅に向かい、そこで電車に乗って彼女の家に行くつもりだ。
九々葉家からその最寄り駅までの道のりを自転車で漕ぐ。中途にあったコンビニでしばらく立ち読みを敢行した後にスポーツ飲料を購入し、片手にラッパ飲みしながら。
差し掛かった信号が僕がちょうど横断歩道を通過しようとしたところで、赤に変わる。
そんな小さなことにさえ苛立ちを感じてしまうほどに今の僕には余裕がなく、だから、声をかけられるまで、僕の真後ろに誰かが接近してきているのにさえ気が付かなかった。
「ねえ、お兄さん」
妙に意識に絡みつくようなその少し高い声に、僕は振り返る。
髪の毛がすっぽり隠れるほど目深に被ったボーダー柄のキャスケットに、目元を覆うほど大きなサングラスをして芸能人もかくやという風に顔を隠し、にもかかわらず太ももの付け根付近で切り取られたデニムオーバーオールにその下の薄すぎる生地のシャツという顔と体で露出度が対照的な少女がそこに立っていた。
顔を隠しているために、やや女の子っぽすぎる服装を除けば、少年と見まがいそうにさえなるが、胸元の決して大きくはない膨らみを見れば、彼女が女性であるという事実は間違いようもないことのようだった。
「この近くの駅への行き方がわからないんだけど、教えてくれない?」
「近くって、○○駅か?」
「そう。それ」
「それなら……」
ここから駅までは普通なら交通手段としてバスを選択するところであり、口頭で説明するとしてもかなり面倒くさくなる。それでも、多少複雑な工程になってしまうことは承知の上で、僕は駅への道のりを懇切丁寧に説明した。
「ふぅん。そうなんだ」
「……そうなんだ、って」
「お兄さんって、今からどこ行くの?」
「え、駅だけど……」
「なあんだ。じゃあ、一々口で説明してくれなくても、直接案内してくれればよかったのに」
「案内って……」
今日たまたま通りかかった初対面の相手に対して、幾分かなれなれしいというか、そこまでの親切心を当然のように求められるのはひどく苛立たしいのだが。
繰り返すようだが、今の僕には余裕がない。
少なくとも道を教えてくれというお願いには十分に応えたはずだ。今はあまり人となれ合いたい気分じゃない。
なので、この図々しい少女に分ける親切心はこれ以上存在しない。
「僕はちょっと急いでるんだよ。悪いけど、徒歩の君に付き合ってられるほど余裕がない」
栗原と約束した時間まで、後二時間はある。自転車で駅まで行って電車に乗り換えることを考えても十分すぎるほどに時間の余裕はあった。けれど、精神的な余裕という意味では余裕がないのは本当のことであり、僕は決して嘘を言っているわけではない。
「……その割にはお兄さん、さっき悠々とコンビニで立ち読みしてたよね?」
「……は?」
コンビニで立ち読みしてた? 何で今さっきここを通りかかったはずのこの少女がそれを知っているんだ?
……いや、僕がコンビニにいるときにたまたまそこを通りかかっていて、今ここでも出会ったことで顔が一致しただけのことか。考えすぎだ。
「嘘はよくないなあ、お兄さん。いくら行きずりの見るからにめんどくさそうな女の子が相手だからって、それでも嘘をつくのはよくない」
「……嘘なんかついてねえよ」
「……あれぇ? 急に声のトーン低くなっちゃったね。どうしたの? お兄さん。どこか具合でも悪い?」
「……気のせいだろ」
「ふぅん」
言って、少女は唇の端を歪ませる。口元しか見えないはずなのに、サングラスの奥の目が嫌らしく微笑んでいるのだろうことがなぜか僕には想像できてしまった。
「……ま、いいけどね。関係ないことだし。ねえねえ、それよりお兄さん。急いでないなら駅まで案内してよ。ねえ、いいでしょう」
唐突に唇の傲慢な歪みを無邪気な笑みに変換した少女は、僕の腕にすがりつくようにしてこちらを見上げてくる。
「……サングラスで上目遣いやっても効果ないだろ」
「……えー? なになに? 聞こえなーい。もういいからさー、おにぃさぁーん、一緒に行こーよぉー」
「お前一体いくつなんだよ。少なくとも、その発育状況から見て、中学生以下には見えないぞ」
「女性に年を訊くなんて、失礼だぞー」
「別に訊いてないだろ」
「ねえねえ、お兄さん」
「……はあ。……わかったよ。行けばいいんだろ行けば」
「やったー!」
純粋無垢な少女そのものに、目の前の少女は喜びに両腕を上げた。
サングラスでそれやっても、かえって不気味さが際立つだけなんだがな。
自分でも言っていたが、こんなめんどくさそうな奴に絡まれるなんて、夏休み最終日にして、今日は厄日なのだろうか。
――それとも、何かの罰でも当たったか。
未だ腕にすがりつくままの少女と共に歩き出す。
正直、歩きで行くのならバスを利用したいところだったが、自転車がある以上それもできない。こんなことなら、最初から電車で来るんだったと、軽く後悔をした。
「ねえねえ。ねえねえ」
「なんだよ。っつうか、何でお前はそんな無垢そうな少女の振りなんてしだしたんだよ」
「ええー? だって、この方がかわいいでしょう?」
「だから、どんだけその帽子の下のお前の顔がかわいかろうが、サングラスしてたら意味ないだろ」
「やだー! お兄さんたら、こんないたいけな少女の衣服を脱がせようとするのー? わー、へんたいだー!」
「サングラスは服じゃないだろ」
「あはははっ」
自分の口にした理屈に不備があると見るや、脈絡もなく笑いだす。
なんなんだこいつは。普通じゃない僕以上に、普通じゃないだろ。
ひとしきり笑い声を上げた後、唇の笑みを吊り上げた少女がことさらに無邪気な声を出す。
「ねえねえ。ねえねえ」
「なんだよ」
「――お兄さん、好きな人っている?」
思わず、僕の腕を両腕で抱えている、しかし微妙に空間を空けて決して自分の胸元には触れさせようとはしていない少女の、その顔を見つめてしまう。
「へえ、いるんだ……」
「いたから、何だっていうんだよ」
「別にー。お兄さんみたいな人に想われる女の子ってー、どういう気持ちなのかなー、ってふと思ってさ」
「……どういう意味だよ」
「えー?」
本当にわかっていないのか。
そう言いたげな声音と態度に、僕は沸々と心中に腹立たしさが湧き上がってくるのを抑えられない。
「お兄さんってさー。だって、すごく、すごく嘘と本当の入り混じった匂いがするんだもの」
「……嘘と本当の入り混じった匂い?」
「あはははっ。わかんなーい? そっかー、わかんないかー」
息がかかるほどにこちらに顔を近づけてきた少女のサングラスの奥の瞳が何の感情もなく僕を見つめているのが目に入った。
その凍り付いたような視線に、心臓を鷲掴みにされたような圧力を感じる。
「人間ってさ。嘘をつくんだよ。そして、本当のことを言うんだよ。普通、人はそのどちらかしかしないものなんだよ。けどね。お兄さんはそうじゃない。いつもいつも、しゃべっているすべて、いいや、行動しているすべてに嘘と本当の両方が混ざっている。意図して嘘と本当を混ぜ込む人。無意識に嘘をつくひと。本当のことしか言えない人。いろんな人がいるけれど、お兄さんみたいに自然と嘘と本当を使い分けることが身についている人はあんまり見たことない。だって、そんなの疲れるだけなんだもの。だって、そんなのつらいだけなんだもの。自分に嘘をついて、他人に本当のことを言うのなんて」
鷲掴みにされた心臓に途方もない大きさの氷柱を無理やりねじ込まれた。そんな思いがした。
「お兄さんさー。偽善者って言葉知ってる?」
「……知ってるに決まってるだろ。それがなんだよ」
「そっかー。ううん。なんでもないんだけどね」
「……なんだよ、それ」
少女は近づけた顔をまた遠ざけて、それから、今度はわざと距離を取ってしがみついていたはずの僕の腕をぎゅっと抱きしめる。
腕に感じたやわらかい感触に、こんな少女のものであっても少し動揺を覚える自分にも苛立ちを覚える。
「……お兄さん、今何を思ったか、包み隠さず口にしてみて?」
「……なんでだよ」
「いいからいいから」
「……やわらかくてちょっと興奮した」
「うわーお。へんたいだー! 女の子に面と向かって興奮したとかいうへんたいがいるぞー!」
「……お前……」
「嘘嘘。ごめんごめん。冗談です。何が言いたかったというとね」
少女は僕に押し付けていた胸の膨らみをぱっと離し、僕の耳元に唇を寄せた。
「今、お兄さんは心の中で、自分の好きでもない女に興奮した自分を否定した」
「……っ!!」
ばっと体が反射的に拒否反応を取った。
少女は「あはははっ」とひどくこの状況に不釣り合いな明るい笑い声を上げて、
「馬鹿だよねー。自分に嘘をついている人間の想いなんて、誰だって受け取りたくないってさー。そんなの少し考えればわかるってーの。だって、好きだと口にしたその言葉自体を口にした本人が否定しているんだよー? そんなの、近くにいたいと思うわけ?」
それから、彼女はくるりと自分の体を反転させて、彼女がいるのとは反対の方に押している僕の自転車の後輪を蹴った。
がつんと、僕の掌が掴むハンドルにまでその衝撃が伝わってくる。
「そんなの、独りよがりだっていうのにね。ああ、片思いは勝手さ。誰を好きになろうと、誰を自分のものにしたいと、誰を想って何をしようと、それは自由気ままの自分勝手さ。けど、そんなの対象を求めてやることじゃない」
少女の声は今度こそ、場面に見合うように、言動に見合うように、ひどく冷たい。
冷徹にして冷血にして、けれど、もしかしたらそれは一筋の温かさを孕んでいるのかもしれなかった。
「人が人を好きになるのは、ただ相手のことが好きだから。それ以上に理由はいらないと、昔、友達が言ってた」
少女がそう口にしたときだけ、どこか温度を宿した笑みがその唇に刻まれたように思えた。
けれど、それも一瞬だけ。
その表情はそれ自身の温度が少女の心を沸騰させるよりもすぐに凍り付いた。
「ボクが思うに、それもきっと自分に嘘をついた人間の言い草だと思うのだけど」
少女は凍り付いた表情のまま笑って、そうつぶやく。
「……それで、相田涼くんは、どうして、九々葉藍のことを好きになったの?」
名前を呼ばれて、彼女の名前を不意に出されて、驚愕に目を見開く。でも、心のどこかで、ああ、やっぱりかと思う自分がいたのもたしかだ。それがひどく不思議だったけれど。
それも当然か。
だって、きっと、僕はこの少女に一度も会ったことがなくとも、この少女のことを知っている。
「……自己紹介がまだだったね」
言って、少女は頭の上の帽子と顔の上のサングラスを取り払う。
濁りのない金色の輝きが、終わりの近い夏の太陽の光を浴びて、いっそうその美しさを増す。
無機質な黒の除かれた面には、すぐに目を引くように、蒼海の瞳が鎮座している。
金髪碧眼のその顔は誰がどう見ても、僕の身近にいる人間にはない特徴を備えている。
そうして、少女は微笑んで、凶悪に、鮮烈に、凄絶に、驚愕に、誠実に、微笑んで、その名前を口にした。
「ボクの名前は百日ダリア。ハーフであるとか、帰国子女であるとか、いろんな肩書はあろうけれども、あえてその中からボクの意思でいくつかを選んで言うとするならば」
百日ダリアはその顔に、とても言葉では言い尽くせないほどの感傷を浮かべて、こう言った。
「九々葉藍の元友達で、きっとおそらく、君の敵だ」
僕は、だから、それに何も返す言葉が浮かばなかった。




