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あいだけに  作者: huyukyu
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倒錯

 旅館を後にして、僕らは家に帰った。

 そこに言葉はなく、感傷もなく、つながりもなく、心さえも、あるいは何一つとして存在しなかった。


 電車を降りたそのときにたった一言だけ聞こえてきたその言葉だけが、そのとき存在したただ一つの心情だった。


「……わたしはね。それでもいいと、そう思うよ……」


 耳にした声に、振り返るでもなく、僕は歩く。

 何も見えず、何も聞こえず、見通せない闇の中を歩いているような、そんな気さえした。


 それでもいいわけがない。

 だって、僕は、僕は嘘をついた。

 もっともついてはいけない嘘を。


「……」


 思えば、僕はやりすぎだった。


 いくら好きだからといって、いくら愛しているからといって、他の男にキスされそうになったぐらいで、その男を殺したいとまで思うのは、いくらなんでもやりすぎだった。


 どうして、気づかなかったのだろう。どうして、僕はそれを当たり前のように思っていたのだろう。

 そんなものは『普通』じゃない。

 僕は普通じゃなくて、そして、それを藍はわかっていた。わかっていて、それを受け入れてくれていた。

 僕という薄っぺらな人間を受け入れて、僕という薄っぺらな人間の薄っぺらな皮をめくっても、それをそれでいいとまで言ってくれた。


 ああ、なんて優しいことだろうね。なんて、美しいことだろうね。なんて、藍らしいことだろうね。


 僕はだから彼女に『した』のだろう。だから僕は藍に『決めた』のだろう。

 僕が命をかけるべき相手はこの子でしかありえないと。


「……ははははっ」


 渇いた笑いが自然とこぼれた。


 突然笑い始めたこの僕に、すれちがった小学生らしき女の子がひどく怪訝な顔をする。

 そして、その子は少しだけ首を傾げて、こちらに向かって走ってきたように、また、あちらに向かって走っていった。


 僕が何かを求めたとき。僕がそれを求めたとき。

 そのときはたしか小学校の頃だったな、と思い出す。


 あのときも僕はこんな空虚な心象に支配されていた。

 空っぽな心をより空っぽにする心象に囚われて、とてもとても耐えきれないほど心が抉れて。


 だから、僕はそんな風に思ったのだった。

 こんな風になりたくなったのだった。


「……自分の命をかけられるぐらいに真剣になれる相手がほしい」


 そう。僕はそう思った。

 小学生ながらにして、異常な心根で、小学生ながらにして、ひどく不釣り合いな心根で、小学生ながらにして、ひどく夢見がちな心根だった。


 人は人の代替品だと、僕は常日頃よく思う。


 誰かが誰かに求めるのはその誰かではない別の誰か。誰かが誰かを好きになるのは、その誰かではない誰かを見ているから。そこにほんとうの個人を見つめる目はないと思う。

 もし仮に、顔も見た目も雰囲気も、何もかもが見通せない自分の大事な人と会話したとき、その大事な人がほんとうに自分の大事な人だと断言できる人間はいるだろうか。


 そんな奴はいない。


 人は誰かの代替品でしかない。誰かが何かを望んだから、その望みに応えるために、誰かを演じる。自分にとって大切な誰かがそんな風な自分を望むから、ただそんな風であるだけ。

 そこに唯一たる個性はなく、そこに他に存在しないという意義はない。


 人は人と関わっていく。

 人は人と交わっていく。

 その中で、人は他の人の何かを取り込み、そして、人は他の人に何かを取り込まれる。複製に複製を繰り返し、簒奪に簒奪を繰り返し、集積に集積を繰り返す。


 誰かのコピーと誰かの上書きと誰かの切り貼りを繰り返して出来上がるのが、人間というただそれだけの生き物。


 僕が僕であったとして、藍が藍であったとして、それでも、それ以外がそこにないわけがない。

 人の中には人がいて、その人の中にいる人の中にも誰かがいる。

 堂々巡りの、堂々巡り。

 入れ子の中の入れ子構造。

 それが人。


 だから、僕は大切な何かがほしかった。

 コピーと仮初に塗れた人の中でも、たとえそれに塗れていても、それでもそれは自分だと思える何かがほしかった。

 矛盾していると、そう思う。

 すべてはコピーだと思うのなら、自分の中にその何かを大切にする想いが生まれたとして、それでもやはりそれはコピーでしかないのに。

 世の中に雑多溢れる、善性という名の代替品。善性という名のコピー。その中にだって、そんな何かを愛するという想いはあったはずなのに。

 自分の中に生じたその想いが誰かの生き写しの想いでないとどうして断言できる。

 それが嘘でないと、どうして断言できる。

 この嘘だらけの自分の中にそれがあったとして、どうしてその愛が本物だと証明できる。


 ……ほんとうに矛盾していると、そう思う。


 けれど、その点に関してだけ言えば、理屈じゃなかった。理論じゃないのだ。頭の中でどれだけ考えを重ねたところで、どうしても、僕はそれを偽りだとは、誰かから写し取った何かだとは思えなかった。


 だから、僕は誰かを愛したかった。途方もなく、際限なく、限りなく、自分を尽くせるほどの愛を誰かに覚えたかった。


 そうしたかったんだ……っ!!。


 けれど――。


 僕は誰かを愛したかったし、事実誰かを愛したけれど、でも、愛していたのは誰でもなかった。


 ……。


 藍が好きだとそう言った。


 藍が大好きだとそう言った。


 ほんとうに藍が好きなのか、と言われた。


 わからなくなった。


 僕は何を以ってして藍を好きで、何を以ってして藍を愛しているのだろうか。


 わからなくなった。


 誰かを愛したかったから、藍を愛したのか。藍が好きだから、藍を愛したのか。


 それがほんとうはどちらなのか、そして、どちらだったとして、何が問題なのか。


 もう、わからない。


 僕はもう、何もわからない。




「どちらでもいいじゃない。好きな方を選んだら?」




 ああ、そうか。じゃあ、僕はもう傷つきたくないから、僕には人を愛する心などないと、そう思うことにするよ。




「へえ。そう。じゃあ、あの子はボクがもらっていくね」




 百日ダリアはそう言った。



 百日ダリアはそう言った。



 百日ダリアはそう言った。

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