空っぽの人間
お腹の辺りに重い感触がして、僕は目を覚ました。
眼前に木目張りの旅館の天井が広がっている。浴場で持て余した欲情の持って行き場を失い、なかなか寝付けなかった昨日の夜に、人の顔みたいだなと思って見ていた天井の染みが明るいと全然まったくそんな風に見えなくて暗闇の不思議さを実感する今朝この頃。
雀のさえずる声と朝からやかましく騒ぎ立てる蝉たちの叫喚を背景に置く。
僕は体の半分を起こして、眼下に、ちょうどへその辺りに顔を埋め、背中に手を回してしがみついている藍の姿を目にする。
すーすーと寝息が聞こえるのでまだ眠っているのだろう。
よくもまあ、このうだるような暑さの中、こうして人の体温を顔中に感じて眠っていられるものだと思う。
身体に悪いということで空調は昨晩寝る前に切っているし、気温はたぶん、体感で三十度くらいか。
背中は汗だくで、額には汗が滲んでいる。
ましてお腹から下に人の体温。暑くて二度寝などできそうにない。
どうにか藍を振りほどいて壁に設置されたエアコンのスイッチを入れに行きたいところだが。
「……んー」
僕が体を少しよじっただけで、藍はどこか不満そうな声を漏らした。起きてはいないだろうが、すぐそばでもぞもぞやられるとやはり嫌らしい。
ただ乗っかられているだけなら少しずつ体勢をずらして抜け出すこともできるのだが、背中に手を回されている現状、それもできない。
派手な動きをすれば藍を起こしてしまうかもしれない。眠るのは好きだと言っていた藍なので、僕の不快指数以外のことで必要に迫られているわけではない以上、あまり彼女を起こすことはしたくない。
藍が自然に起きるまでこのままでいるしかないようだ。
見れば、彼女の首筋にも一筋汗が流れている。暑いは暑いらしいが、それでも目を覚ますほどではないということか。
なんとなくやってみたくなって、藍の髪に触れる。
指で梳くとさらさらで何のつっかえもなく毛先に流れていく。ややごわごわな感のある自分の髪とは全然まったく別物のように思えた。
頭を撫でると、居心地よさそうに喉を鳴らしてさらに深く僕のお腹に顔を埋めた。
なんか猫みたいだなと思う。いや、猫飼ってるわけじゃないから、知ったかぶりだけど。だが少なくとも、藍が犬か猫どっちに似ているかと言えばきっと猫だろう。本質的にはマイペースで、時々よくわからないことをするけれど、そのマイペースさに癒されたりもする。
「……」
しかし、この体勢。いろいろと持て余すな。昨日は午前中から夜半に至るまで刺激が強い一日だったからな。それで寝ているときまで藍と密着していて、そして、朝これとくれば通常の男児ならばどうにかなってしまいそうな状況だ。
無論、僕は通常の男児の域にとどまらない紳士なので、野性化することなどありえないが。
「……だがしかし」
別にいやらしい目的など一切なく、ただ純粋に自分の彼女のかわいさを愛でたいと思って何が悪いだろうか。いや、悪くはない。
具体的に何かって言ったらばまあ……。
「すんすん」
擬音的にはこうなる。つまりは彼女の頭に鼻先を押し付けて匂いをかぐという。
やっていることは決して直接的じゃなく、まったく以って性的な行いとはかけ離れているはずなのに、どうしてかはたから見ると大変な変態にしか見えない背徳的行為。いや、背徳ではないが。
いい匂いがするな。シャンプーと汗とあと女の子的フェロモンが混ざったような、やや意識に直接ボディーブローを叩きこむようなそんなくらっとする匂い。
あ、やば。
自分の指先が無意識に藍の胸元に向かおうとしているのを認識して、慌てて手を引っ込めた。
……危ない。危うく理性が飛びかけて、自分の彼女とはいえ寝込みを襲うという最低の行いに及ぶところだった。
それで藍を傷つけることは僕の本意ではない。
まかり間違っても間違いを犯すことがないほどに本意ではないのだが、悠々とは受け流せない男の子的情動が心の隅に吹き溜まっているのもまた事実。
ゆえに、僕の両腕は統制された僕の意思の下に動いて、せめてもの慰めと言わんばかりに藍の背中に手を回して、力強く抱きしめた。
「んやー……」
またぞろ藍が不満の声を漏らしたが、このぐらいは許してほしい。藍の肌には決して触れないから、だからこのくらいは本当に勘弁してほしい。
でないと、自分でもどうにかなってしまうくらいに、藍を求めすぎてしまう気がするから。
彼女が目を覚ましたのはそれから三十分ほど後だった。時計を見ると、午前八時半。
早いとは言えないが、早起きする必要に迫られていない休みの日には遅いとも言い切れないそんな時刻。
僕の腕の中でもぞもぞと身をよじり、首筋を汗で濡らして、浴衣二枚越しにも伝わってくるくらいに汗だくの彼女は、髪の毛が数房飛び跳ねた上に寝ぼけた表情で僕を見上げる。
「……りょう、おはよ」
「おはよう、藍」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、しばらく僕の顔をしげしげと見つめていた藍は、徐々に意識を覚醒させていくように表情を面に浮かばせていった。
僕は相変わらず、彼女の背中に腕を回して抱きしめる姿勢。
藍はちょっと意外そうにそれを見て、そして、何も言わずに僕に身を任せた。
「あのさ、寝起きの藍にこんなことを頼むのも非常に自分勝手なことなのは理解しているんだけど、それでも言っていい?」
「? ……なに?」
しんと静まり返った波紋に、一滴の水粒が落ちるように、彼女の顔に疑念の色が浮かんでいく。
そんな藍を見て、僕は言った。
「キスしてもいい?」
「……えっと……」
僕の意図を掴みかねるといった表情の藍に、しかし、僕は返事を求めることなくそのまま唇を寄せた。
「……んっ」
胸の内から零れ落ちるように、戸惑いと甘美がない交ぜになったような藍の声を聞く。
そのまま今まではじれったく思いつつも、抑えるばかりだった自分を少しだけ解き放って、思うがままに彼女を求める。
「……ん……はぁっ……あ……」
僕の所業に驚いたように目を見開いて、それでも受け入れるように彼女は再び目を閉じた。
「んぅ……はっ……ぁん」
意識に溶け込むような声を耳に、粘膜と粘膜が触れ合う淫靡な音がいやらしく室内にこだまする。
ただキスをしているだけなのに、唇と唇を触れ合わせたとき以上に満ち足りた気持ちと、同時にそれ以上を求めようとする深い欲望が僕の胸中に渦巻き合っていた。
「……したい」
「……え?」
「もう、最後まで」
「……」
絡みつく舌を乱暴に振りほどいて、たまらず僕はそう口にしていた。
抑えていた何もかもが、こらえていた何もかもが、今この瞬間にもはちきれんばかりに叫びを上げそうだった。
もはや自分の内で騒ぎ立てるその熱量がほんとうに自身のものなのかどうなのかさえ疑わしくなってくるくらいに、自分の思っていることがほんとうに自分の思っていることなのかがわからなくなるくらいに、それは僕の心の中で踊り狂っていた。
熱に浮かされているであろう瞳が、気持ちが盛り上がっているためか端に涙を浮かべ、情熱的な色に染まっている藍の瞳とぶつかる。
彼女の耳元に唇を寄せて、もう一度ささやいた。
「……藍と、したい」
僕の言にくすぐったそうに顔をよじり、息も荒げに身体全体を上下させる藍。
彼女は迷うように僕を見て、それから強く自分の肩を掴んでいる僕の両手に目をやり、最後に、羞恥の情を堪えきれないというように口元を袖で覆って、けれど、僕から目を逸らさず、上気した頬を動かした。
「……いい、よ」
僕の頭の中で、自分を戒めていたタガがすべて勢いよく吹き飛ぶ音がした。
暴力的な衝動に身を任せ、彼女の肢体に指を這わせた。
僕が自分を取り戻したのは、眼下に息も絶え絶えになって身を投げ出している藍の姿を目にしたときだった。
状況を理解して――いや、理解は最初からしていたか――、頭を冷やして、頭から血の気が引いて、そして、自分の為したことに唖然とする。
寝起きの藍を無理やりって僕は……何を考えているんだ……。
だが、今更ことを後悔したところで遅きに過ぎる。
裸の藍が目の前で呆然としているという事実は厳然としてそこにあり、僕がそれを行ったという事実も決して消えはしない。
僕はとうとうやってしまったのだ。
「……はぁっ……はぁっ……」
藍が荒い息を吐き、その様子に僕はびくりとする。
枕に頬を埋めて、髪で顔が隠れている彼女の表情は読み取れない。ただ、その唇はきつく引き絞られている。
それに少しの艶めかしさと、再度の交わりを求める自分の欲望を感じて、ほとほと自分が嫌になる。
彼女の気持ちも考えず、彼女の心根も思いやらず、彼女の体も慮ることなく、僕は一体、何をした。
それでどの口で僕は彼氏だ、などとほざく気だ。
一体、僕は何様のつもりなんだ……。
考えるまでもなく、思い上がっていたのだと自分を殴りたくなる衝動に駆られる。
いや、事実殴った。こめかみを一発。
だが、こんなものでは全然足りないと思う。自分が犯した過ちに比べれば、こんなものはおためごかしに過ぎないと。こんな程度で自分を許していいはずがない。
僕は二度三度と、自分を殴った。
そして、四度目を殴ろうとしたところで、その拳が止められた。
藍の両手が僕の右拳を包み込んでいた。
「……やめて」
髪で目が隠れた藍の表情は相変わらず読めない。
自分の肌をもう隠そうとはせずに、僕の前に膝立ちになった彼女から僕は目を逸らした。
「……いいから」
罪悪感にいたたまれなくなった僕の顔を、藍が両の掌で包んで無理やり自分の方に向かせる。
少し頭を振って髪を払った藍とまともに目が合う。再び逸らそうとしたが、
「ちゃんと目を見て」
毅然として口を開く藍の声に、僕はそれに逆らうことができなかった。
僕を見る藍の表情は、嬉しそうではないにしろ、決して悲しみに満ちているようにも思われなかった。
「……ごめん」
そして、聞かされた言葉は信じられないものだった。
「な、なんで、藍が謝る……っ!? 悪いのは自分を抑え切れなかった僕なのに……っ!!」
「ううん。涼は悪くない。そんな風に無理して抑えなきゃいけないくらいに涼を追い詰めてたわたしのせい」
「ど、どうしてそんなことになるんだよっ……!? 僕のさっきの様子見ただろうっ!! 藍の意思なんかまるっきり無視してほんとうに自分の欲望のままに好きなように貪ってただけじゃないか……。それでどうして君が……」
「……ううん。いいの。それは。だって、そんな風に優しい涼が優しくなれないくらいにいろいろなものを溜め込ませちゃったわたしのせいだから……」
藍はそう言って、ひどく寂しそうに顔を俯かせた。
「……それに、もしわたしがきちんと涼のことを拒めていたら、あなたもそんなに傷つかなくて済んだでしょう?」
「そんな話をしてるんじゃない。僕のことなんてどうでもいい! 今は藍が……」
「どうでもよくなんてない!!」
いつにない藍の剣幕に僕は開きかけた口を閉じざるを得なかった。
目に涙を浮かべた藍が、常にない声を出した反動か、肩で息をしていた。
「……涼はいつもそうだよね。自分のことなんてどうでもいい風に振舞って、わたしがよければいいってまるで他人事みたいに言ってるの」
「そんなことっ……は……!」
「ないって言えるほんとうに」
「……違う。他人事なんかじゃない。僕はほんとうに藍のことを考えて……藍さえよければいいって僕は……」
「わたしさえよければいいっていうのなら、どうしてあなたはそんなにつらそうな顔をしているの……」
「……え?」
言われて僕は自分の顔がどうしようもなく泣きそうに歪んでいるのを自覚する。
けれど、それがなんだ。藍が今悲しんでいるのだから、僕がつらそうな顔をして何が……。
「わたし、悲しんでなんかないよ」
「……え?」
今度こそ、ほんとうに何も言葉を返すことができずに沈黙するしかない。
「……涼と彼氏と彼女になって、初めて夜を共にした。それで何も起こらないだなんて楽観できるほど、わたしは子供じゃない。けど、昨日の夜何もなくて、朝になって涼がさっきみたいになっちゃって。それでわたしは少しびっくりしただけだよ。相手が涼で、嫌なことなんて何もないし、少し倫理的には問題あるかもしれないけど、だからって、それだけでわたしが落ち込むことなんてない」
「なら……」
「でも、涼は自分を殴ったよね」
「……っ!!」
図星を指されて、胸の奥で息が詰まった。
「わたしは何も悲しんでいないし、何も嫌がってなんかないし、たしかにさっきの涼は強引でわたしのことをあんまり気にしてくれてないな、とは思ったけど、それでもそれがそれほど嫌だったわけでもない」
藍は僕の目の奥を覗き込んだ。真意を見透かすようなその瞳に、僕は目を逸らす。
「わたしは何も言ってないよ。何も言ってないし、少しだけ自分を見失っていただけ。なのに、涼は自分を殴った。それはどうして?」
愕然とする。呆然とする。藍が何かを言おうとしている。どんな言葉だろうと、僕が彼女の意思を聞き取ろうしないことなどこれまで一度たりともなかった。
――けれど、今だけはその声を聞きたくないとさえ思った。
「ずっと、疑問だったんだ」
藍が言う。それでも、僕の心は聞くことを拒んで、それでも僕の体は聞くことを許容していた。
「何で、涼はわたしに対してそこまで強い想いを抱いてくれるのかな、って」
一つ一つの表情に、一つ一つの言葉にどうしようもない何かが零れ落ちていく実感がある。これまで大切に大切に、どうしようもないほど大事に扱ってきたそのすべてが途方もないほどの速度で崩れ落ちていく予感がある。
「わたしって、そんなに魅力的かな? わたしって、そんなにかわいいかな? わたしって、そんな風に愛してもらえるほど、涼に何かしたかな?」
彼女の言葉には色がない。感情もない。心もない。ただ、努めて事実だけを述べようとする意思だけがそこにはあった。
「……わたしは涼を好きだよ。わたしに話しかけてくれて、わたしに優しくしてくれて、不器用なわたしでも信じられないくらい真正面から向き合えるほど、どうしようもなく誠実でいてくれた」
僕の顔は今、どうなっているだろう。僕の表情は今、どうなっているだろう。彼女の顔に浮かぶ色合いよりも、そればかりが今、気になって仕方がない。
「それを疑っていたわけじゃない。それを望んでいたわけじゃない。けれど、そんなのありえないってずっと思ってた」
九々葉藍という彼女の紡ぎ出す言葉は淀みなく、だからこそ、そこに決定的な何かが含まれていないことに、僕は当惑とともに戦慄を覚える。
――どうして、そんなに、君は僕を慈しむように接せられるんだ。
「わたしが望んでいたままの姿があまりにも涼には反映されすぎているような気がしてた。わたしが思い描いていたような姿ばかりが涼には映っている気がしてた。でも、違ってたんだね」
藍が言葉を口にする。決定的にも至らない、けれど、どうしようもなく、何かを損なうその言葉を。
「……涼は本当にわたしが好きだったのかな? それとも――自分にとって何よりも大事だと思える誰かが、欲しかっただけ?」
たった今、この場所にもし、人の心の姿をありのままに映す魔法の鏡があったのなら、きっとそこに映っているものはひどく――途方もなくひどく醜いものだろう。
人にも劣る。悪魔にも劣る。
きっととても醜い何かだろう。
世界の命運に関わるでもなく、人の生き死に関わるでもなく、何か人の身では計り知れない思惑の下に振り回されるでもなく、ただそこにあるのは。
ただそこにいるのは、とても小さな、小さな、悪だろう。
傷つけたのは一人だけ。嘘をついたのも一人だけ。そして、たぶん、守りたいと思ったものも一つしかない。
だって、僕は――。
僕はただ。
「――涼はただ、自分の心を守りたかっただけ、なのかな……」
僕はただとても大好きな女の子が欲しかっただけの、自分のすべてをかけてでも守りたいと思える誰かを欲していただけの、ただの空っぽなガラス細工の人形だったのだから。
藍の透明な瞳が見つめている。
彼女に見つめられている僕の心は、きっと、最初からずっと空っぽだった。




