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あいだけに  作者: huyukyu
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『同じ』

 湯舟は畳の部屋の中から見える。

 なので、いくら僕がもう少しゆっくりと落ち着いて湯に浸かっていたいと思ったところで、視線を横向ければすぐそこに藍がいるわけである。

 実際、いろんな意味でのぼせかけていたので、身の安全的にもこれ以上浸かっているわけにはいかなかったのだが、それでも、今さっきのあの気持ちを引きずったまま湯上がってしまうのはどうにもためらわれた。

 

 僕は浴槽から体を引き上げ、洗い場のシャワーの温度を限界まで下げ、パイプの中に残っているはずの温度の高い水を軒並み吐き出させたのちに、頭から冷水を被った。


 熱し切った体と頭に、冷えた水は何よりも心地いい。

 芯まで冷え切らない程度に体を冷やして、それから僕はお風呂を上がった。


 先に着替えていた藍と同様、用意されていた浴衣を着る。

 いつもは着ないような衣服を身に着けて肩の辺りがどこか落ち着かない気持ちがした。


「……おかえり」

「た、ただいま」


 湯上りで艶やかな藍と目が合い、そんな言葉をかけられる。何かが間違っている気がしたが、まあ、おかえりと言われてただいまと返す以外に選択肢などないだろう。


「……さっきのことは、わたしも大胆だったと、少し反省しています……」

 火照った体に火照った表情で、藍がとても申し訳なさそうに口にする。

「……いや、それは……うん……」

 反省するようなことじゃないのはたしかだと思うけど、同時に、だからと言って健全な付き合いを目指す上ならば、否定すべきことでもない気もする。


「……変な空気にしちゃって、ごめんね」

「ぼ、僕の方こそ、その、大した勇気もなく、申し訳ございません」

 何がなんだかわからないが、とにかくこういう場面で両方とも謝ってしまうのが僕と藍のいいところなのか悪いところなのか。


「……まあ、間違いが起こるよりはいいんじゃないかな……」

「そ、そうだね……」

 慰めるようにそう言ったが、自分でも何を言っているのかがよくわからない。刺激に満ちた行為と現象がありすぎたせいで、もはや何が正しくて何が間違っているのかが自分でもわからなくなってきた。


「気分転換にでも、外の空気を吸いに、とそれから、体を軽くでも動かしに行かない? ……ほら、ちょっと頭に血が上っちゃてるかもだし……」


 藍のその提案に、僕は一も二もなくうなずいた。




 夏の夜はそれでも静かだ。

 鈴虫が自然豊かなこの季節を謳歌するように鳴く声が聞こえる。遠くで電車の動く音が残響のように夜空にこだましていた。


 旅館そばを流れている小川があった。

 この時間にそれほど遠出するわけにもいかないので、旅館前の道路を歩き、夕方に森の中の遊歩道に入るために通った脇道に逸れ、そして、橋を渡らずに小川のほとりに歩を進める。


 藍がしゃがんで、川の水に手を添えた。

「冷たくて気持ちいい……」

 僕もならって、履いていたサンダルをほっぽりだし、片足を突っ込むと、驚くほど冷たい感触にびくりと全身が震えた。


 足を戻し、小川に手を差し入れる藍を見る。

「……」

 その姿はどこか物語的だった。そうまるで……と何かうまいたとえが浮かびそうな気がしたが、頭の中ではさっきのお風呂での藍の肌の色や感触が渦巻いているだけで、何も詩的な表現は浮かびそうになかった。

 僕はどうにも藍のように、なんて言えばいいか……自分の世界に浸り切る、ということが下手くそのようだった。自分の心に浸り切り、その中から言葉を紡ぎ出すことは僕にはできそうにない。今の藍を表す上手いたとえ一つ、浮かばなかった。


「……きれいだね」

「え?」

「藍」

「……あ、ありがと」

 だから、そんな風にありのままを拙い言葉で伝えるしかない。短い言葉のつながりでも、彼女は僕の言いたいことを理解してくれた。単純で簡素で完全に閉じ切ったようなその気持ちの伝達を、僕は心地よく感じた。

 そう、結局、僕の言いたいと思うことなんて、「藍がきれい」か「藍がかわいい」かの二つしかないのだ。


 そんな自分を心底、凡庸だと思うけれど、凡庸だからこそ届く気持ちもあるのなら、それでいいのだと思えた。


「……星もきれいだね」

「……そう、だね」


 上を見上げれば、この夏の夜に、天上を埋め尽くすほどのさまざまな輝きが揺らめいている。

 それを表す言葉としても、口にできるのはやはり、きれいだという一言のみだ。


「涼は……」


 藍が僕の名を呼んで、けれど、その先をわずかに言い淀む。

 星から目を移して、藍を見ると、彼女はやわらかな微笑みを浮かべていた。


「涼は、きっととても、優しい人だよね」

「……きっと? それは今は優しくないって意味?」

「ううん。そうでもないけど。ただその、わたしに見えているものがすべて涼の真実だとは限らないから……。わたしはそれでも、涼のことを全部わかった気にはならないし、なれないから。だから、きっとって言うしかないの」

「それは、前言ってた突き詰めれば恋人でも他人みたいな話?」

「そうだね。それに近い話かな。人が人を見るのはね。一面だけなんだよ。わたしに見えるのは涼の一面だけ。るりちゃんに見えるのは涼の一面だけ。凛ちゃんに見えるのは涼の一面だけ。全部、その人の中から見た涼で、だから、わたしはわたしに見える涼しか見えないの」

「ふぅん。たしかにそれはそうかもしれないね」

「うん。だから、わたしが変わればきっと涼を見るわたしの見方も変わるの。けど、そのときは変わったわたしは前のわたしと変わってるから、前と同じようには見られない。そのときのわたしでしか見られないから、だから、結局、見えるのは涼の一面だけ」

「ふぅん。なら、僕も僕というフィルターを通して藍を見ているんだね」

「そう。だから、人は自分を通してしか、誰かを見ることができないの」

「それで、きっと?」

「うん。きっと」


 藍は僕から視線を逸らして、星空を見た。

 僕もつられて顔を上げる。


「なら、この星空も、僕が見ているのと、藍が見ているのと、全然違うものなのかな?」

「きっと、そうだね。だけど、同じものでもあると思う」

「……その心は?」

「わたしと涼はきっと、同じものを見たいと思っているから」

「……それだけで、同じになる?」

「うん。なるよ」

「どうしてそう、言い切れるの?」

「そう信じてるから、かな」

「そっか。なら、僕もそう信じておくことにするよ」

「うん。そうして」


 それから、しばらく僕と藍は星を見上げ続けた。




 一緒の布団に入ると、以前、藍が僕の家に泊まりに来たときのことを思い出す。

 あのときも、よくわからないやりとりをして、そして、なぜか僕と藍が一緒の布団に入ることになったのだった。


「……勢いに任せて変なところを触っちゃっても、今だけは咎めないよ?」


 そして、藍がせっかく落ち着いた僕の心を再びかき乱すようなことを言ってくる。


「……反省したんじゃなかったの?」

「したよ。したけど、でも、今はどうしてもそう言いたくなっちゃうんだから、後でまた反省する」

「それ、反省の意味あります?」

 やった失敗を次に生かしてこその反省ではないのだろうか。

「いいの。今を楽しみたいの。わたしは」

「うん、まあ、楽しむのは大事だよね」

 何事も楽しもうとするところから、人生の幸せは始まっていくのだ。バイ、相田涼。


「えいっ」

 だからちょっと僕もこの状況を楽しみますかね。


「ひゃんっ」


 今朝の電車内での過ちを反省した僕は、けれど、再び、自分の意思で藍のお尻を掴む。……自分で言っててなんてはしたない奴だ、僕は。

 だが、許可は出た。問題は何もないのだ。

 しかし、それ以上のわいせつ行為に及ぼうとする前に、


「……わたしもちょっとだけ、いたずらしてもいいかな?」


 と、僕の耳元で囁いた藍が、僕の首筋に唇を寄せる。

 そのまま、鎖骨のラインにかけてひたひたと舌を這わせてきた。


 これには僕も悶絶するしかない。

 ほのかな熱を持った舌先が、絶妙にぞくぞくする力加減でぼくの首元をうごめく。


「ひょう、びくびくひてふ。ふぁわいい」

 

 口を密着させているせいで何を言っているのかわかりにくい藍の言葉だが、男としてそれなりに尊厳を踏みにじられることを言われているのはわかるぞ。


 ならばこちらにも考えがある。


 藍の舌戦に対して、僕も舌戦を挑むのだ。

 藍と首をクロスさせて、僕も彼女の首元に口を持っていく。そして、そのまま吸い付いた。


「ひゃ、ひゃめ。ひゅすぐっふぁい」


 もはや何を言っているかわからない藍の言である。


 夏場に密着しているせいで大分、お互い汗をかいている首筋を舐め合う。舌先に藍の汗が伝って、しょっぱい味がした。

 お互いがお互いの肌を舌で刺激するたびに、全身を反応させて、それでもやめずに舐め合う。

 

 その、くすぐったいけど、明確な快感にはなりえない行為は、僕と藍が罪悪感なく没頭するには十分で。

 

 気づけば、僕は藍の浴衣をはだけさせていたし、藍は僕の浴衣をはだけさせていた。


「「あ……」」


 二人の声が重なった。


 自分の痴態を見下ろして、それでも肌を隠そうとせず、どうしたものかと太ももをすり合わせる藍と。

 ぎこちなく藍の背中に右手を回し、左手を彼女の浴衣の裾にやっている僕。


「……」

「……」


 沈黙の後に交わされる言葉はやっぱり。


「ね、寝よっか?」

「そ、そうだね」


 という違和感バリバリのふぬけたものだった。


 ……ていうか、ここまでやってしないんなら、本番はどうなるんだよ。


 そんな突っ込みを自分で入れつつ、浴衣に乱れを元に戻す。


 布団の中で手を伸ばしてきた藍と自分の手をつなぎ合わせ、それだけで何もせず、襲いもせず、キスもせず、眠りにつく。


 どう考えても、不自然で、いろいろ持て余しているのはたしかだけど、これでいいかな、なんて思ってしまうのが、僕という人間の不甲斐なさであり、藍という人間の内気さなのかもしれなかった。


 この瞬間だけは、僕と藍双方とも、完全に『同じ』ことを考えていると、断言できた。

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