お風呂
一時間ほど森林の中の遊歩道を歩き回り、夏の自然というとても暑苦しいものを堪能した後に、旅館近くの街並みをぼうっと眺めながら時折店を冷やかしたりし、最終的に旅館に戻ったのは午後六時過ぎだった。
時刻は夕飯時である。
部屋に戻ってしばらくすると、タイミングを見計らったように夕食が運ばれてきた。
「……わお」
と、藍がらしくもなく外国人的な感嘆の声を上げているが、無理もない。
色鮮やかに盛り付けられた刺身やら、固形燃料で熱された魚の切り身やキノコの類が入った小鍋やら、見た目よくカラっと揚げられた天ぷらやら、とにかく一目見ておいしそうと同時に華やかだと感じる一品が一堂に会するように並べられていくのだ。
普通に家で食事してたらこういう光景はあまり見ない。裕福な家庭なら別かもしれないが、僕も藍も至極庶民的な一般家庭だ。
けれど、個人的なことを言えば、旅館の料理ってあまり好きじゃない。なぜかと言ったら理由は単純。僕の食の趣味は大分、ジャンキーだから。味のしっかりとした日本料理とかを食べるよりも、味も見た目も大雑把なファストフードを食している方が性に合っている気がするのだ。有体に言って、刺身食うよりもハンバーガー食ってる方が好き。
運んできてくれた仲居さんにお礼を言って、二人で手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
うむ。おいしい。おいしいが欲を言えばもう少しどぎついくらいに濃い目な味つけの方が僕好みだ。
「そういえば、夏休みに入ってから藍の手料理を食べてない気がするな」
いかの刺身をしょうゆにつけずにちゅるりとすすりながら僕は言う。
「そうだっけ? だったら、今度出かけるときにでも何か作ってくるね。何がいい?」
漬物とご飯を交互に口に運びながら、藍が言った。
「そうだなあ。定番だけど、卵焼きとか、ハンバーグとかかな。前作ってもらったときからどれぐらい上手くなったか、ちょっと比べてみたくもあるし」
「それなりに上達したとは思うから、楽しみにしててね」
「それはもちろん」
冷ややっこを箸で摘み、二つに裂けないような絶妙な力加減で口に運ぶ。口に届くまでに形が崩れたら、そこはかとなく負けた気分になるが、完全な状態で口にすると妙な満足感がある。
「手料理と言えば、この一泊二日が終わっても、まだおそらくは7.新婚さんごっこが残っているわけだけれども、その、本当にやるの?」
「……本当にやる」
「この年になって、恥ずかしくない?」
「高校一年生なんてまだ子供だよ。だから平気」
「いや、心はともかく、体は十分大人だからね」
「……涼は新婚さんごっこで何をするつもりなの?」
やや警戒した声音で藍が問う。
「いや! そういう意味じゃないから! 僕だって四六時中そんなこと考えてるわけじゃないんだって。今朝のは魔が差しただけなんだよ」
「……ふふっ。冗談だよ。本気にしないで。わたしはちゃんとわかってるから。涼はいつもわたしの気持ちをとても大事にしてくれてるって」
一転して微笑を浮かべて藍が言う。
そう何のためらいもなく褒められると、それはそれで照れるんだけど。
「それでさ。今まであえて触れてはこなかったけど、そろそろ十番目のシークレットっていうのが何なのか、教えてはくれないの?」
話題が例の藍が書いたやりたいことリストのことに移ったので、ちょうどいい頃合いかと思い、そう訊いてみる。
「別に教えてもいいよ。教えてもいいけど、涼があんまりそのことを気にしてもいけないと思ったから秘密にしていただけで」
「僕が気にするって、一体、何についての話なの?」
「……わたしの過去」
「……ああ」
なるほど。たしかに少し気にはなる。話の内容もそうだし、何より、藍がそれを自分から僕に話そうとしてくれている、という事実に。
「涼も知っている部分がほとんどだと思うけど、それでも、わたしの口から一度は話しておきたいと思ったから」
「それは、そうだね。その方がいいかもしれない」
「……今、聞きたい?」
「いいや、藍が話そうと思ったタイミングでいいよ。僕はいつでも待ってるから」
「……ありがとう。……涼のそういうところ、ほんと好き」
「……そ、そりゃどうも」
さらっと言われると、胸を鷲掴みにされるくらいくるなこれは。
それに、一見何事もなかったように食事に励んでいるように見えて、風呂に入ったわけでもないのに首筋まで真っ赤に染まっているのがちょっとかわいすぎる。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
二人とも完食した後手を合わせ、口にする。
再び仲居さんに来てもらい、食器を下げてもらった。
藍が鞄から本を出して読書を始めたので、僕はなんとなくその近くによっていって、そして、なんとなくその膝に頭を乗せて寝転がってみた。
藍はちらりと僕に目線を向けたが、何も言わずに文庫本に戻る。
僕は藍の膝の感触を頬に感じながら目を閉じた。
「……くす」
藍が小さく笑う声が聞こえた気がしたが、僕は黙っていた。
そのまま、三十分ほどが経過する。
ぱたんと、藍が本を閉じる音がした。
僕は目を開ける。
藍が顔をうつむけて、こちらを覗き込んでいた。
さかさまの藍と至近距離で目が合う。
「……」
「……」
睡眠には至らないくらいのまどろみの中をさまよっていたので、いまいち目が覚めず、じっと藍の瞳を見つめていると、わずかに彼女が身じろぎをして、それから顔を上げた。
「お風呂、入る?」
「……入る」
オウム返しに返答をして、僕は頭を上げた。
畳の部屋から外に出る。浴槽のある空間は露天式になっていて、柵の向こうに豊かな森林とさらにその奥に小さく海が見えた。僕らが数時間前までいた海水浴場もきっとこの視界のどこかにあるのだろう。
ガラス戸で仕切られた浴槽の前のおそらくは脱衣室だと思われる空間に、二人並んで立つ。
目の前に脱いだ衣服を置いておくための棚があった。
「……」
「……」
僕も藍も口を開くことなく、かといって服を脱ぎだすわけでもなく、ただ黙って突っ立っている。
そうして、五分ほども気まずい沈黙を過ごした後に、藍が言った。
「……水着じゃ、だめ?」
こちらを見上げるその頬はどうしようもなく赤く染まっている。
「だめ。それはだめ」
「ど、どうして?」
「僕が見たいからに決まってる」
「完全に欲望だけなんだね……」
呆れたように藍が言っているが、どうか忘れないでほしい。最初にこの提案をしてきたのは藍であって僕ではない。そのときから藍にもいろいろあって、貞操観念というものをそれなりに持つようになったとしても、それでもやはり、提案したのは藍なのだから、水着という妥協は許されない。――単に僕が見たいだけだけど。というか、散歩前にどうしてもはばかれるなら実行しなくてもいいとか言っていた奴がどの口で言っているのだろう。
「じゃ、じゃあ、せめて、涼が先に入って。ここで一緒に裸になるのは、恥ずかしすぎるし・・・。わたしは、その、少ししてから入るから」
「……わかった」
言って藍はそそくさと畳の部屋に戻っていって、こちらに背を向けた。
と思いきや、やっぱり気になるのか、こちらに向きなおし、文庫本を顔に当ててその上から目だけを出してこちらをじっと見る。
「あのさ、藍」
「な、なに?」
「いくら僕が男でも、そんなじっと見つめられると脱ぐに脱げないんだけど」
「ご、ごめんなさい!」
藍がまた背中を向けた。もうこっちは見ないという証明のつもりなのか、手元の文庫本に目を落としている。
「……はあ」
それ、ここから見ても上下逆なんだけどなー。
思いながらも、僕もまた藍に背を向けて、来ていたTシャツを一息に脱いで、ズボンを脱いで、パンツを脱ぐ。
そのままハンドタオルを引っかけてガラス戸を開けた。
入浴用の空間は、露天風呂ということもあって、開放的に開けている。腰の高さまでしかない申し訳程度の柵があって、そのすぐそばに木材で囲まれた浴槽が設置されている。タイルが敷き詰められた床の上で、その浴槽の周りだけにすのこが置かれていて、湯から出たときに足を滑らさないよう工夫がなされていた。脇の壁際に体を洗う用の洗い場があり、蛇口とシャワーが一つずつ備え付けられている。風呂桶や椅子などが複数その隣に立てかけてあった。
洗い場で体を流し清めた後に、タイルの上に敷かれた板張りに足をかけ、浴槽に浸かった。
少し熱いくらいのお湯の熱量が体中に染み渡って、「あー」という吐息が自然と漏れ出る。
浴槽の内壁に背中を預け、斜め上を見上げると、雨除け用の屋根の奥に夜空が見えた。日没して間もないために、どこか紫色をしていて星は見えないが、こうして露天風呂に浸かって夜空を眺めるという体験は、なかなかに新鮮で得難いものだと思えた。
そのまま、また五分ほどが経過する。
「……ふむ」
僕は今まで見ないようにしていた視線を室内の方へ向けた。
やはり、文庫本で顔を隠した藍と、まともに視線が合った。
びくっと全身を震わせた藍は、僕と目が合うとすぐさま体を回転させて、僕に背中を見せる。
当然のように、その後ろ姿は服を着ていた。
「……まあ、ほんとにいやなら別にいいんだけどね」
独り言のようにつぶやいて、僕はそれ以上、藍を気にするのをやめた。
しばらく湯に浸かったのちに、備え付けのシャンプーで頭を洗い、ハンドソープをタオルに浸し、泡立てて体を洗った。
もう一度湯船にでも浸かるか、と振り向いたところで、色艶のいい肌色が目に飛び込んできた。
巻かれたバスタオルから伸びる細い足がタイルを踏みしめている。
目線を上げると、顔を真っ赤にした藍がいた。
「……背中、流す」
「……え、いや、今洗い終わったところなんだけど……」
「せ、せなか、流すからっ!」
「……う、うん。わかった。お願いします」
焦点は合っているのに目を回している風な目をした藍の剣幕に圧されて、僕はつい頷いていた。
今更かもしれないが、藍同様大事なところにタオルを巻き、後ろに立つ藍から隠した。
「……」
「……」
無言で背中を洗われる。
ごしごしと、一定間隔で泡を立てられたハンドタオルが上下に動かされる。
時折漏れる藍の吐息が首筋にかかってくすぐったく、時折背に触れる藍の太ももがやわらかくてどぎまぎする。
「んぅ……」とか、「……はぁ」とか、力を入れるたびに藍が悩まし気な声を漏らす。
耳元で藍の声がした。
「強くない? 大丈夫?」
「う、うん。そんなもんでいいよ」
「そう」
つぶやいてまた背中を洗う。
「……ん」
……。
「……はぁ」
…………。
「……んぅ」
………………。
「……生殺しかよ」
「何か言った?」
「なんでもない」
後ろで藍が首を傾げているのが気配で伝わってきた。
「じゃあ、今度は僕が背中を流そう」
すでに体は一通り洗ってしまっていたので前は洗う必要もなく、背中にお湯をかけて流してもらった後、僕はそう言った。
「……あ、えと、わ、わたしはじぶんで……」
露骨に目を逸らして藍が消え入るような音量でそう言う。
「いや、僕がやろう」
「……じ、じぶんでやりたいなぁ、なんて……」
「……」
「……」
「……藍」
「……わ、わかりました」
ただ名前を呼んだだけだけど、その言葉に込められた意味を藍は正しく理解したらしく、結局は諦めたように首を縦に振った。
藍が蛇口の前に腰を下ろし、その後ろに僕が座る。
その肩に僕は手をかけた。
「……あの」
「……さあ、早く」
「……えと」
「……どうしたどうした」
「……タオルつけたままじゃダメ……だよね」
「逆にタオルの上から背中を流して何の意味があるんだよ」
「だよね」
一つ、ため息をついて、藍は巻き付けていたタオルをゆっくりとほどきはじめる。
一回転。二回転。
しかし、もう一回転すれば肌が見えるというところで、藍の動きは止まった。
そして、おもむろに丈の余ったバスタオルを胸にかき抱き、口を開く。
「涼は背が高いよね?」
「……175は一応、あるね」
「座高も、高いよね」
「……高いね」
「……このまま取っちゃったら、その……見えちゃわない?」
「……だ、大丈夫だよ。藍の頭がじゃまで全然見えないから」
「……それってつまり、ちょっと横に動いたら全部見えちゃうってことだよね」
「ぜ、ぜんぶじゃないって。少なくとも下は見えない。この角度じゃ」
「上は見えるんだねそうなんだね」
もはややけくそになったように藍が言って、タオルを取った。
自分でも、生唾を飲み込んでしまったのがわかった。
み、みえちゃった……。
「……んうぅ」
顔を両手で抑えて、藍はうつむく。
「……あんなこと、書かなきゃよかった……」
あんなことというのは言わずもがな。例のやりたいことリストのことを言っているのだろう。今更になって後悔するあたり、あのときの藍は大分、斎藤との一件での反動にやられていて正気を見失っていたのかもしれない。だから、あれだけ大胆なことを平気で口にしていたのだ。
「と、とりあえず、洗うよ」
「……うん」
もはやその返事はかすれている。
手のひらにハンドソープの液を出し、泡立てて、そしてそのまま彼女の背中に触れる。
「……ひゃうっ」
思いのほか甲高い声が返ってきた。
「な、なんで、手のひらでするの?」
「え、だって、こっちの方が藍の肌のすべすべ感がわかるから」
「そ、そんなのわからなくてもいいでしょ!」
「……まあまあ、そう言わず。減るもんじゃなし」
「……わたしの神経が磨り減るよ」
そう言って結局、抵抗はしないあたり、藍はかなり寛容な女の子だと思う。
ぺたぺたと泡だらけの手で藍の肌に触れる。
表面は滑らかで押すと弾力がある。ずっと触っていたくなるくらい、触り心地のいい肌だった。
ぺたぺたぺたぺた。ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
「も、もうよくないですか?」
「いいや、まだだね。まだ僕は完全に藍の肌のすべすべ感を味わっちゃいない」
「だから、そんなもの、味あわなくていいってば……」
言いつつも、特に僕の手をどけるとかそういった行動は起こさない藍。
ふむ……。こうなると、どこまでやったら藍が咎めるのか逆に気になってくるな。
試しに背中を泡立てるのをやめて、肩に両手を置いてそれから滑り台でも滑るように、両の手のひらを藍の二の腕に滑らせてみた。
「……っ」
ちょっと体をびくつかせただけで、藍は何も言わない。
そのまま前腕部にかけて手のひらはすべり、手首に至って手のひらに着く。
なんとなく手を握ってみた。
「……?」
藍が顔半分を後ろに向けて僕の意図を測りかねるように不思議がる視線を向けてくる。
まあ、深い意味はない。そこに手のひらがあったから、繋いでみただけだ。
なら今度は、と思い、腰のあたりに手を据える。
お腹を両側から挟み込むようにして脇腹に触れた。
「……あの、涼は何をしているの?」
ことここに至り、ようやく藍から疑問の声が上がった。少しどころじゃなく遅い。
「いや、その、ちょっと確認を……」
「確認って……何の?」
「……ん? んー、脂肪の量的な?」
「……っ!」
びくっと藍が跳ねたように反応して、僕の両手を振り払った。
「じょ、冗談だよ。間に受けなくてもいいって。単に当たり障りのないところを洗ってるだけだから」
「ほ、ほんとうに? わ、わたしそんなに太ってなんかないよね……?」
「それは心配しなくてもいい。むしろちょっと痩せぎすなくらい」
「な、ならいいんだけど……」
つぶやいて、浮かせかけた腰をまた下ろす。
自然な流れで僕はまた、藍のその細身ではあっても若干のくびれがある腰部に手を置いた。
そのままお腹の方へと腕を動かす。
「……って、よく考えたらわたしが自分で洗えばいいじゃないですか……」
ぼーっと後ろからお腹に回された僕の両手を眺めていたらしい藍がふと気づいたようにそう言った。
ちっ。気づきおったか。女の子が気にする体型のことに触れて話題を逸らし、僕が藍の体を洗うことに何の疑問も抱かせない作戦が。
「ま、まあ、もののついでだから」
「どんなついでですか……」
「……もう少しだけでいいから、お願い。触り心地がいいんだよ、すごく。癒されるんだよ、すごく」
我ながらむちゃくちゃなことを言っていると思う。そんな言い訳で女の子の体に触れられたら世話はない。素直に本音を告げただけでそうできるのなら、誰しもみんなそうしている。
そのはずだったが、
「……わ、わかったよぅ」
と、震えた声音ながらも、藍はそう返答するのだった。
いや、あなたね。お願いした僕の言えることではないにしろ、もう少し自分の体を大事にですね……。
……まあ、なんでもいいか。触り心地いいし。
心の中だけでも言い募ろうとして、やめた。僕には藍の気持ちを無視して変なことをする気はない。なら、これくらいいいっか。
と、半ば投げやりに自分に言い訳をして、多少の罪悪感を締め出した。
藍のお腹を撫でまわす。一応、洗っているという体裁を取り繕いながら、時折、ハンドソープを補給してぬるぬるの液体を泡立てて藍の腹部に塗りたくる。――というと、なんかいやらしい行いをしているみたいだけど。いや、事実襲う気はないにしろ、下心あって触っているのだからそれそのものと言っても過言ではないか。
ぷにぷにとした、という表現が当てはまる彼女のお腹の感触を堪能し、僕は手を引いた。
しかし、これで終わりにするかというとそうではない。
人間満たされれば満たされるだけ欲が出てくるもので、もう少し触っていたいという願望に囚われた僕はまだやった。
もう一度脇腹に両手を添えて、体の線に沿って手を上に動かす。
「……やっ、く、くすぐったいよぅ」
などと藍が非難?の声を上げるが、未だ動きは見せないのでそのまま続ける。
身をよじる藍に振り回されながらも、両手を彼女の脇に下に差し入れた。
「っやん……!」
比較的幼い印象のある藍が、彼女らしくない大人びた悲鳴を上げた。くすぐったくてたまらないのか、笑い声を我慢しながら、僕の両手を自分の手で押しのけようとする。
ようやく、抵抗らしい抵抗を藍はしてくれた。
「だ、だめだよ。涼。そんなところ、くすぐったいよう」
けれど、そんなかわいく非難の声を上げられても、僕としてももっといじめたくなっちゃうだけだ。
ということで、
「わかった。藍。手どけるから、万歳して」
「万歳? う、うん」
と、何の因果関係もないお願いを藍は聞いて、僕はがら空きになった脇を思いっきりくすぐった。
「~~~っ!!」
言葉にもならない悲鳴を上げる藍。甲高いその声が他の部屋にまで聞こえていないかと心配になりつつも、彼女をくすぐるのはやめない。
「や、やめてっ……りょ、涼。そこ……だめ、く、くすぐ……あははははっ」
藍が声を出して笑うのは珍しいので、貴重な音声を耳に焼き付けておこうとしばし藍をくすぐりつづけた。
数十秒後。
荒い息を吐いた藍が、濡れたタイルの上で全身を悶えさせていた。
「……はぁっ、……はっ……ふぅ……」
体を隠す余裕もなかったらしく、もはやいろいろなところがつぶさに見えちゃっているけれど、僕は見ない。決して見ない。
水滴が滴り落ちる艶やかな太ももとか、小さな円弧を描くように膨らんでいる胸とか、かわいらしくきゅっとしまっているお尻とか、決して僕は目を向けない。うん。絶対に見てない。あ、もう少しで見えそう……。
「……はっ、はぁ、はぁ……もう、涼ひどい……って、あ……」
今更ながら、僕の眼下で裸で隠すものも隠さず悶えていたという事実に思い至ったらしく、慌てて藍はタイルの上に放り出されていたバスタオルに手を伸ばそうとしたが、
「う……」
風呂場に入ってきたときは清潔だったはずの白いバスタオルは、水と泡と床の黒ずみに浸されてかなり汚れてしまっていた。
これを再び、身に着ける勇気はガサツな僕にもない。
女の子の藍はもはや吟味する必要性すらなく、諦めがついたようだ。
タイルの上に横座りになって、せめてもの抵抗として、両腕を使ってうまく僕の視線を遮って、胸元と股間を隠した。
「……見たよね」
涙目で見上げる藍の表情は鮮烈だ。かわいくて抱きしめたくなってしまう。
「……見たね」
「……はあ」
小さな小さなため息を彼女はついた。
「体流すね」
藍はとぼとぼとシャワーに向かっていく。
しばらく湯舟に浸かって、髪を洗う藍の後ろ姿を眺めていた。バスタオル一つも巻いていないその肌色に満ちた姿を見ているだけで至上の眼福極まりない。
きゅっと蛇口を閉める音が夜に響いて、藍は腰を上げた。
こちらに背中を向けたまま、見返り美人像のように首だけで振り返って、試すような視線を向けてくる。
「……一緒に入ってもいい?」
「もちろん。いいに決まってるよ」
「もう、くすぐったりしない?」
「しない。一回で十分満足した」
「そう。それはよかったね」
渇いた笑みを浮かべてそう言って、藍がこちらに歩み寄ってくる。
一応、ハンドタオルで下は隠してるけど、上は完全に丸見えだ。
どうにも気まずくて、ともすれば固定されてしまいそうな視線を根っこから引っこ抜いて海岸の方へと無理やり移した。
水をかきわける音がして、湯の高さが増す。そして、シャンプーのいい匂いがして、左半身にやわらかい感触を味わった。驚いて顔を横向けると、どこか熱っぽい微笑みをした藍と目が合う。浴槽は広いので、大人の男二人ならともかく、藍一人分なら十分に身を置くスペースはあったはずなのに、彼女は身を寄せてきていた。
その上、視界の隅にちらと移る水面の奥の彼女は間違いなくタオルも何一つつけていない。
「つ、つけなくていいの?」
思いのほか声が裏返っていた。
「なにが?」
「なにがって……た、タオルに決まってる」
「タオルはお湯につけちゃいけないんだよ?」
「そ、それはそうかもしれないけど」
それにしたって、僕の左腕を胸に押しつけるようにしてかき抱くのはどうかと思うんだ。さらに言えば、その腕の先は太ももに挟まれててかなーり危うい位置にあると思うんですがそれはいいんですかね。
「……恥ずかしいけど、当初はこんな風に身を寄せ合ってお風呂に入りたいなって思ってたから、どうせならそれを実行しておこうかなって」
「へ、へえ」
もはやまともな答えを返せる気がしない。藍が隠さなくなったのはいいけど、今度は僕が隠したい。
いや、さっきからそれなりだったけど。これはさすがに。
「……」
無言で藍が僕の体の一部位を見つめていて、僕は目を逸らすしかない。
「……おっきくなってるね」
言わないで! そう包み隠さず言われるとものすごい恥ずかしい気持ちになるから!
「……涼は攻めるのは好きでも、攻められると弱いタイプ?」
決して藍と目を合わせようとしない僕を興味深く思ったように、藍が顔を寄せて訊く。
「な、なんのはなし?」
「わからない?」
「……わ、わからない」
「……そっかぁ」
「……な、なんの……」
「……えっちなはなし、だよ」
耳元で誘うように、甘えるように、ゆっくりとささやかれる。
思わずびくりと体が跳ねてしまった。
「じょうだん」
くすりと藍が笑った。
じょ、じょうだんにしても場面が悪く過ぎるって! いや、ほんとに!
「……」
「……」
それから気まずさに囚われたように、場に沈黙が満ちる。普段言わないような類の冗談を藍が口にしたからかもしれない。
たまらなくなって夜空を見上げると、入浴し始めたときには見えなかった星が今はもうわずかに光を顕わにしていた。いつの間にかかなり時間が経っていたらしい。あっという間に過ぎ去ったが、今だけはとても時間が長く感じる。時計の針が十分の一倍速くらいにまで減速してしまったのかと錯覚するほどだ。
腕にすがりつくような体勢の藍は何も言わず、僕の肩に頭を乗せてきていた。しなだれかかるようなその姿勢にさらに触れる体の箇所が多くなる。もはやどこがどこに触れているのかを考えるのも恐ろしいくらいだ。
それを認識したとき、理性のたがが完全に外れる予感がある。
早鐘のように打ち続ける心臓をどうにか落ち着けようと努めつづけ、僕は必死に夜空だけを見上げていた。
そうして、数十秒か、あるいは数分も経過した後、
「……ふぅ」
と、それとともに気を抜いたというような吐息が耳に届く。
我に返って顔を戻すと、どこか呆れたような藍の表情があった。
「……ほんとに何もしないんだね。涼」
「……え?」
「……いけないことだけど、少しだけ、期待していたというのもほんとうかな」
「……え? ……え?」
「わからないふりじゃ、ないんだよね?それ。混乱してるの?」
「……はい。とても。理性のくびきがはちきれそうで、正直、頭が回んない」
「もう、やっちゃえば?」
「んなわけいかない」
「強情だね。でも、ありがとう」
言って、藍は離れた。
「……そういうの、いつかしようね」
小さく微笑んで、藍は湯舟から出て、ガラス戸に向かっていく。
「……はーーーーーーーっ」
その幼くも大人びた後ろ姿を見送って、僕は大きくため息をついた。
よくやった、僕、と褒めたい気分でもあるし、何やってんだ、僕、と自分を責めたい気持ちでもある。
ていうか、何より。
「この後、添い寝とか、耐えられる気がしない」
一番の問題はそれだった。
二次元におけるヒロインのかわいさって、二種類あると思うんですよね。『性的なかわいさ』と『性格的なかわいさ』。『性的なかわいさ』は基本的にヒロインが女性であるということだけに特化したかわいさで、言うなれば身体目当てのかわいさ。『性格的なかわいさ』はヒロインが女性であるという基本的前提はありつつもそのキャラクターでしかそうならないような展開が盛り込まれているかわいさ。
『性的なかわいさ』は有体に言って女ならだれでもいいみたいなところがありますけど、『性格的なかわいさ』はほかのヒロインじゃ代替が効かなくて、その性格じゃなきゃ成り立たないところがある。
個人的には、後者の方が好ましいと思います。最近になってそういうことを考えるようになったんですけど、それを目指して書いているつもりで、だから、今回の話はそれなりに『性格的なかわいさ』を表現できたんじゃないかと思います。
ただエロければいいとか、イラストがかわいければいいとかいうのは要諦すると、三次元で言えば見た目や身体が自分好みであればいいとかいうところに帰結するんじゃないかと思うわけで、あまりそうなりたくはないなー、と思います。
何が言いたいかというと、たとえフィクションでも性格って重要だよねー、ってことですかね。
意味不明だったらすみません。




