会話
青い海。青い空。薄橙の砂浜と白い波。そして、数多の水着の軍勢。
「……夏に海岸なんてくるもんじゃないなー」
一人。つぶやく。僕。
海の家備え付けの更衣室で一足早く着替え終えた僕は砂浜の人の群れを眺めながらうんざりとしたため息をついた。
人の多いところは苦手である。どうしても避けたいと思うほど生理的嫌悪感が先立つわけでもないが、避けられるなら避けたいと思うぐらいにはとても嫌である。
藍を待っている間に、その辺にいる水着女子でも眺めていればいいのかもしれないが、僕は基本的に興味のないものには本当に一片の関心さえ湧かない。視界に入ったところで、波が寄せるのと人の波が寄せるのと何が違うのってぐらいにしか認識されない。なので、興味のない水着女子に視線を向けたところで、何あいつなんであんな露出度高い水着着てんの、馬鹿なの死ぬの?とかってしか思わない。昨今の若年女性の正気を疑いこそすれ、少しも性的関心など浮かばないのである。
だから、心を無にして待つしかない。人ごみに紛れたときはとにかく、下手なことを考えず、心を無にするよう努めるのが最善なのだ。何を考えたところで苦手なものは苦手なのだから。
「ごめん。遅くなった」
そしてかけられる後ろからの声。
振り返れば、そこに天使がいる。
とは大げさかもしれないが、藍の身に着けるチューブトップの白色フリルに、白色ショーツの上の藍色ショートパンツという格好は、どうしようもなく彼女に似合っていた。
「あー、かわいい」
だから、電車内での出来事のせいで理性のリミッターが数段ぶっ飛んでいる僕の口蓋はまったくもって素直な感想を音にした。
「……あ、ありがと」
やはり真正面から言われると照れるのか、顔を赤くして俯く藍もああ、天使。僕は今、天使と向き合っているのだね。
「は、早く行こ」
自分を見つめる僕の視線があまりにも熱っぽいことに堪えられなくなったのか、藍が僕の腕を強引に引っ張って砂浜に向かっていく。薄桃色のサンダルが砂浜を踏む音がじゃりじゃりと耳に届いた。
「海って何をして遊ぶのが楽しいんだろうね」
「ふつーに考えて泳いだり、砂浜で体を動かしたりするのが、じゃないかな」
僕と藍は持ってきた敷物の上で借りてきたパラソルの下で体育座りで並んで海を眺めている。
二人とも目が死んでいて、茫洋とした視線は焦点を結んでいない。
なぜそんな事態に陥っているのかと言えば、単純に人の多さと夏の日差しの暑さが原因。
当初は普通に海に入って泳いだり、砂浜に城を築くことに熱意を燃やしたりしていたが、一時間もしないうちにうだるような暑さと人の多さに体力を持っていかれて二人とも動くのが嫌になってしまった。
なので、今は日差しを避け、腰を下ろして体力の回復を図っている状態だ。
海に遊びに来たと言っても、二人でやれる遊びなんてたかが知れているのだ。むしろ、こうして何をするわけでもなくとも、いつもと違う環境と衣服で体育座りをするというのもなかなか新鮮でよろしいのではないだろうか。
時刻は午前十一時。真夏の太陽はこれからさらにその強さを増し、気温は上がる一方となる。
今日は雲一つない快晴なので、海で泳ぐにはちょうどいいが、砂浜でけだるんとしているにはいささか適さない天気と言える。
しかし、今の僕らにはもはや泳ぎに出る気力などどこにもなく、暑くとも暑くとも暑くとも、砂浜でのんびりんとしているしかない。
「その水着」
「ん?」
人差し指で砂浜に意味のない無限円を描き続けていた藍が僕の言葉に視線を上げた。
「その水着、ほんとかわいいね」
「そ、そう? 二回も言ってくれるなんて、本当に気に入ってくれたんだね。ありがとう」
ショートパンツの裾を引っ張って藍が照れたようにそう言う。
「なんていうか、定番のビキニじゃなくて、フリル付きとか、ショートパンツ付きだっていうところがちゃんと考えて選んでくれたんだな感が出て、ぐっとくる、かな」
「なにそれ。でも、ちゃんと選んだのはほんとだよ。初めての海、だからね」
言って、藍は僕に見せつけるように、その小さな胸を張った。
それを見て、なんとなくこうしてただ座ってぼうっとしているだけの状況に罪悪感のようなものを感じた僕は、
「……うん。やっぱ泳ごうか。それでなくても何かしようか。せっかく藍がおめかしした水着を着てくれているのに、何もしないじゃもったいない」
と提案した。
「体力はもういいの?」
「藍の方は?」
「わたしは大分、元気になったけど……涼は?」
「藍が元気なら僕はいつだって元気だよ」
「そう。じゃあ、また、遊び出そうか」
「ああ」
言って、手をつないでまた立ち上がった。
その後、一時間ほど遊んで、海の家でごはんを食べて、またちょっと遊んで、それから海岸を後にした。旅館に着いたのは午後二時半ごろ。
「努くんから話は伺っていますよ。あの子のおばあさんの実子さんには昔からとてもお世話になっているの。その孫の努くんたってのお願いとあれば、耳を傾けないわけにはいかないものねえ。時期が時期だから、一番の部屋というわけにはいかないけれど、当旅館で三番目くらいにはいい部屋を用意しているわよ」
との話を女将らしき老婦人から聞かされ、その内容の明け透けさに、それでいいのか接客業、とも思いはしたが、突然泊めてもらうことになったこちらとしても何も言うことはなく、そのまま部屋に通される。
露天風呂付き、和室八畳。仕切りがあってその奥に質のよさそうな木材で囲った露天風呂が見える。
「……お風呂、あるね」
「そのようだね」
との会話を交わした後、目に見えて藍の言動がぎこちなくなっていた。
「……もしかして、やっぱり一緒に入るのは嫌なの?」
見えるところにあるがゆえに、意識を逸らすこともできずにそう尋ねる。やりたいことリストでそれを先に提案したのは藍。と、これを言うのも何度目か。
「……何度も言うような気はするけど、嫌なわけない。ただ、熱に任せて一線を越えてしまわないかが心配、かも……」
「お風呂だけに?」
「……」
お風呂だけに、体も温まるから熱に任せてっていうのにかけてたんだけど。
「実際のところ、涼はどう思ってるの?」
まるで今の僕の言動などなかったのかように、藍が訊く。
「なにが?」
「わたしと、一緒にお風呂に入ること」
「小躍りしたいくらいに胸が高鳴るほどの喜びを得かねない程度の情熱を感じている」
「……日本語で遊ばないでください」
「まじめに言うと、藍の裸が見られるのはうれしいけど、別にどうしてもはばかるようなら実行しなくてもいい、というところかな」
「じゃあ、もし一緒にお風呂に入ったとして、わたしを襲うご予定は?」
「……GWのご予定は?みたいな言い方で、さらっととんでもないこと言うね。そんな予定はない。僕は思うんだけどさ。意外と全裸ってエロくないと思うんだよ」
「……な、何の話をしているの?」
「いや、だからさ。僕はむしろ着衣の方がそういう女性を押し倒したい欲求を感じると思うんだよ。個人的に言えば、前に藍が着ていた肩のところが大幅に露出されているブラウスとか、そういうのを着た藍と一緒にいるほうがそそられる」
「……安心していいのか、不安になっていいのか、まったくわからないんだけど」
「大丈夫。どっちにしろ襲う気はないから」
「……それ以前の与太話はともかく、その言葉だけは信じておくことにするね」
藍は僕の話に付き合うのが疲れたように、腰を下ろしてぴんと背筋を伸ばした姿勢から、ぐでーとテーブルの上に突っ伏した。
しばらくそうして旅館の一室で体を休めた後に、散歩に出かけた。
都道府県単位には知らない土地ではないにしろ、市町村単位では知らない土地なので、その新鮮さを味わうべく、またぞろ散歩に出かけることにした。
平日なので、祭り等はやっていないとのことだったが、この旅館は山沿いに位置しているので、ちょっと小高い山に続く遊歩道などが設置されているらしく、その辺を中心に攻めてみることにする。
旅館の表から出てしばらく道路沿いに進み、脇にそれたところに小川があったので、その上に跨る橋を乗り越え、森林の中に入った。
真夏という時節柄、蝉やら鳥やら、その他の動物昆虫の鳴き声でややうるさいが、まあ、それも夏の風情というところか。
額にやや汗をかき、ていうか、4.お散歩でさえもこの地で消化できたのではないかという今更感に捕らわれながら、森の中を歩く。
周囲には見渡す限り木ばかりの、そこにいるだけでマイナスイオンを一生分ほど吸収できそうな、そんな樹木の迷宮を二人で歩く。
五分ほど蝉の鳴き声と森のさざめきに耳を傾けた後、僕は口を開いた。
「最近、考えるんだけどさ」
「ん?」
「人といることの楽しさって一体何なんだろうな、って」
どこに目を向けるでもなく足元の小石を蹴っていた藍が僕の言葉に小首を傾げる。
「どういう意味?」
「たとえばさ。世の中に雑多娯楽はあふれているけれど、一人で遊ぶのならともかく、大抵は誰かと一緒に遊びに行くのが主だよね?」
「そうだね」
「一人で遊ぶのを楽しめる人間はいるにしても、多くの人は複数人でカラオケなり食事なり、こうして旅行なりすることを楽しむ」
「うん」
「でもさ。娯楽なりなんなりってパターンがある程度決まってる。場所や細部の設定に多少の違いはあっても、数え上げようと思えばできないほどの数があるわけでもない。ましてや自分の気に入る娯楽となればその数はさらに絞られる」
「そう、だね。それで?」
「でも、人はほとんど同じことをしているように思える娯楽でも何度でも繰り返すし、ほとんど同じメンバーが集まっているにも関わらず、同じような遊びを繰り返す」
「全部が全部、まったく同じというわけじゃないと思うけれどね」
「そして、その同じメンバーで遊びに行くということの本質というか、根幹にあるのは何だと思う」
「何って、人とのふれあい?」
「それもあるけど、もっと、細かく言うとするなら、それは会話だと思うんだよ」
「会話?」
「そう。結局、カラオケに行こうが食事に行こうが旅行に出かけようが、それを複数人で行う場合、もっとも多く時間を費やすのはこうして他人と会話をすることだ」
「あー、なるほどね」
「で、毎回毎回違う人間と出かけるわけでもないのなら、同じ人間と同じようなことを繰り返している人が時間をもっとも多く時間を使うのも会話なわけで。なら、する会話は、話す内容は、どんどんどんどん同じようなものに収斂されていくと思うんだよ。そうなったとき果たして、その娯楽は娯楽と言えるほどの楽しさを保っているのかどうなのか。そうやって人と時間を過ごすことを楽しむことができるのかどうなのかって、僕は疑問に思うんだ」
「……うんうん。なるほどなるほど」
セリフとともに何度もうなずき、それから藍は頬に手を当てて考える。
そして、
「忌憚のない意見を言わせてもらうけど、いいかな」
と前置きし、僕が頷くと、こう言った。
「それはひとりぼっちの人の意見だよ」
は、と薄くほとんど熱のない息が喉から口元へと抜けていった。
なんか、がつんと一発、頭を殴られたぐらいの衝撃だ。
「涼はわたしとばっかり一緒にいすぎなのかなあ。だからかもしれないけど、涼の言うように、どれだけ同じ人と一緒に遊び続けたとしても、なんていうか、本当の意味で飽きることはないと思うよ」
うーん、と、頭の中にある考えをうまく表現できないのか、こめかみを人差し指でぐりぐりしながら藍が続ける。
「何十年も一緒にいるような熟年の夫婦でもさ。それは倦怠期っていうのはあるかもしれないけど、それでも家族旅行に出かけたり、それこそ毎日会話をしたりするでしょう?」
「するね」
「それでも、やっぱり涼の言うように、話のタネが尽きること、そして、それによって一緒にいることが楽しくなくなることっていうのは、性格の合う合わない、喧嘩のあるなしは別として、絶対にないと思うんだよ」
「どうして?」
「だってさ・・・」
むー、と藍がかわいらしいうなり声を上げる。
「わたしは口が上手くないから、やっぱり上手く言えないんだけど。たとえば、これからの人生、涼は何の障害や壁にぶつかることなく自分の思い描く通りの生活を送れると思う?」
「それが今の話と関係あるの?」
「ある」
と藍が断言するので、
「全部、思い通りってのはそりゃあ、無理だろうね」
と素直に答える。
「だよね。だったらさ、ずっと一緒にいる人でも、その人はその人なりに思い通りに行くことと行かないこと、いろいろ経験しながら日々を送っているわけで、そして、それはたとえ同じ環境にいる人だとしても、自分とはまったく違う人生になっていると思うんだよ」
だからね、と藍が僕を指さして、そして自分を指さす。
「わたしと涼がずっと一緒にいたとして、わたしとあなたは違う人間だから、違う人生を送っている。たとえ恋人でも、もっと深い何かでも、まったく違う人生を送っている。そんな二人が一緒にいるのなら、決して話のネタが尽きることなんてないんじゃないかな。日々、そのネタのデータベースだって、頭の中で更新されているはずだよ」
自身の頭に指の先を持ってきてくるくると回し、藍はそうまとめた。
納得がいくようでいかないような、そんな気持ち。
それにしても、と藍が言う。
「涼はずいぶん、変わったことで悩んでいるんだね」
「え……いや、僕は別に悩んでいるわけじゃ」
「最近、夏休みだから、ってわたしとずっと一緒にいる時間が長いから、いつか話のタネが尽きたりだとか、一緒にいるのが楽しくなくなるときがくるんじゃないかとか、涼は心配だったんでしょう?」
「……ぜ、全然、そんなことないし」
「涼は嘘が下手だね」
言って、藍は薄く口元だけで笑った。
「そんなこと、心配しなくてもいいのに。わたしはね。とっても、欲の少ない人間なんだよ? 涼と一緒にいるだけで、とても楽しいし、とても満たされてる。だから、そんな心配、無用だよ」
藍は僕の顔を見て、おかしそうに笑みを深くした。
それから、
「いつも言われてるから、仕返し」
と、僕の耳元に口を寄せて、
「そういうちっちゃいことで悩んじゃう涼、”かわいい”ね」
と言った。
「っ……!」
まさかここでそんなセリフを口にされるとは。
男としてかわいいとか言われるのは微妙な気持ちだが、耳元で彼女の声とセリフを聞いたせいで妙に顔が火照ってしまった。
見事に『仕返し』されてしまったわけだ。
「ふふっ」
僕を照れさせたことがそんなにうれしいのか、並んで歩いていた藍が小走りで前に走っていって、僕の前で両手を広げ、くるりと一回転してみせる。
「心配性で不安げなかわいい涼に、じゃあ、こう言っておいてあげるね」
藍は両手を後ろに回して、こちらを覗き込むようにする。
「女の子は恋してる人と一緒にいるだけで、きっととても楽しいと思うよ」
藍は微笑んで、僕はそんな彼女に見惚れてしまう。
「恋の一面は、つらくて苦しくてほろ苦くて儚いものだとしても、ね」
と付け足す藍の表情はどこか大人びていて、僕の知らない彼女がそこにいた。
ああ、なるほど。それなりに長く一緒にいたとしても、こんな風に知らないことというのはいくらでもどこででも出てくる、ということか。
「わかった? 涼」
「ああ、よくわかったよ、藍」
「それはよかった」
そのまま二人で森の中を歩いて行った。




