ひとときのお散歩
「わたし、夕方ってきらいなんだ」
木々が青々と繁る並木道を歩みながら、彼女がそうつぶやいた。
今日は風が強い。外を歩くには適さない気象条件かもしれないが、彼女がどうしてもと言うので、僕はそれに付き合っていた。
「どうして?」
反応を求めて発せられた言葉ではない。そう感じたが、それでも自然と訊き返していた。
「だって、空の色も、夕日の色も、遠くで鳴くカラスの声も、これから如何にも一日が終わるって風に感じられて、物悲しくて、寒々しいから」
空を見上げてそう答える、彼女の瞳が夕日に照らされて、黄昏に染まった。
「なら、どうしてそのきらいな時間に外を歩くことにしたの?」
「逆だよ。そんな時間だからこそ、家の中にこもって、鬱々としていたくないから、外に出るの」
なるほどまったく理にかなっている気がした。
きらいな時間に楽しくもないことをしていても、マンネリ化した習慣に身を任せていても、いつもと同じきらいな気分に浸るだけ。きらいな時間をきらいでなくするために、きらいな時間を少しでも楽しい時間や意義のある時間やもっと違う別の何かに変換するために、変化を求めて足を動かすのは決して的外れな思考とは思えない。
「涼はないの? きらいな時間」
藍が訊く。
ゆっくりと、マイペースに歩みを進めながら。それでも、時折僕が彼女にペースを合わせているのに気を遣って、早足になりながら。
「強いて言えば、勉強をしているときかな」
「あははっ。涼は素直だね。わたしに付き合って、もっとそれらしい答えをしてくれてもいいのに」
「僕にそんなの、無理だよ」
詩的な、あるいはそれなりに隔世的な主張に対して、本当に俗物的な答えを返してしまうことにためらいがないわけではないが、それ以上に上手い答えが見つからないのだ。嘘で塗り固められたきれいごとよりも、真実に積み重ねられた泥臭さのほうがまだしもましだと思うから。
「涼のそういうところ、好き」
「そういうところって、どういうところ?」
「変に空気を読んで、だれかに合わせようとしないところ」
「日本現代社会でそれは致命的だと思うけれどね」
実際、空気を読めなければそれだけでいじめの対象となる危険性すらそれははらんでいるだろう。気持ちがなくても、気持ちがあるように振舞わなければいけない。それが心底、気持ち悪い。
別に僕は空気なんかよりやりたいことを優先すればいいと思うんだけれどね。それを受け入れられないのは受け手が狭量なのだと思わずにはいられない。まあ、他人に迷惑をかけない範囲内での話だけど。
「なら、定型句のように、こう口にしようよ」
「なんて?」
「”社会が悪い”って」
なるほどまったく理にかなっている。
自分らしく生きることさえ許容できない社会ならば、自分の欲望を通すことではなく、真に自分に嘘をつかないことさえ許容できない社会ならば、それこそ本当に社会が悪いと言うほかないだろう。
「藍はそう思っているの? 社会が悪いって」
けれど。
自分が不利益を被ったとき、自分の思う通りに物事が進まないとき、そんなとき、社会が悪いと環境のせいにするのは簡単なことだ。けれど、真実それが正しい保証はない。何よりそこに生産性はなく、自分以外のだれかやなにかに理由を求めるよりは、自分にできることを淡々とやっていくほうがよほどいいとは僕は思う。
社会が悪いのか。自分が悪いのか。実のところ、どっちだと言い切ることは難しい。
なら、自由にできる自分のことから変えていくべきだと。
「悪いだなんて思うつもりはないよ」
「それならどうして?」
「わたしは別に今の自分の状況に不満があるわけじゃないの。五体満足で生まれて、毎日きちんとごはんが食べられて、自分のやりたいと思ったことをそれなりにやれて。だから、不満なんてない。今に不満がないのに、何かを悪いだなんて思えない。だから、わたしは社会が悪いなんて思ってない。けど」
「けど?」
「そう言ってみたくなる偏屈さを持っているだけ」
「ああ、いいねそれ」
今僕が感じた心根をすべて言葉にして説明するのは難しいが、あえて挑戦しよう。実がないのに、実があるふりをする。それは僕の好きではない行い。けれど、この場合、口にした言葉は本音を語っていないのに、その言葉を口にしたいという本音はそこに現れている。言葉は嘘なのに、その言葉を口にしたという行動は嘘ではない。それがひどく面白くて、藍らしくて、愛らしい。
あるいはそれは単に藍だから、愛らしいのかもしれなかったが。
「すごく今更だけど、訊いてもいい?」
この機会に、と。
散歩に出かけ、どこか実態のつかめないやりとりを繰り返している今だからこそ、訊いておきたいことがあった。
「藍はなんで僕と一緒にいてくれるの?」
彼女は僕と一緒にいてくれる。僕から話しかけ、僕から近づき、僕から心を告げた。すべて僕から。僕から彼女への一方的かもしれなかった想いだ。
それに応えてくれた、応えてくれているところの由を僕は知らない。
好きだから。恋人だから。気が合うから。
理由はいろいろ挙げられたとしても、明確なところを、実際のところを、真相のところを直接彼女の口から訊いておきたかった。
「なんだ、そんなこと」
つぶやき、何でもないという風に、藍が言う。
「一緒にいたいから」
僕は呆気に取られてしまった。
なんでそうしたいの? と訊かれて、そうしたいから、という答えが返ってくる。禅問答だろうか。
「というのは冗談で」
……冗談なら冗談に聞こえるように言ってほしいものだ。おかげで本心だと信じかけた。
「前にも言ったことがあったと思うけど、涼がわたしに対して本気で接してくれているというのがわかったから、わたしも本気で接さなければいけないと思った、というのが最初のところだよ」
「でも、時間を過ごすうちに、好きになって、もっと一緒にいたいな、って思えるようになった。いろんなことを経験するうちに、いろんなことを考えて、そして、その気持ちは強くなっていくばかり。ずっと強くなっていっているの。だから、一緒にいる。それだけ」
「この答えじゃ不満ですか?」
見上げてくる藍の視線はどこまでも純粋だった。
告げられた言葉に一片の虚実もなく、すべて偽らざる真実であると、その単一の色のみを宿した瞳が言っていた。
なればこそ、僕もまた純粋に応えるのみ。
「いいや。その答えで十分だよ。十分わかった。そんな風に言ってもらえて、僕はとても嬉しいよ」
「よかった」
言って、彼女は笑うのだ。
どこまでも純粋な色合いを帯びた笑みを、浮かべる。
きれいだな、と思う。嘘が汚く、真実がきれいだなんて、言うつもりはないけれど。
だれかを想って浮かぶ笑顔はただそれだけで価値あるものだと僕は思う。
並木道を通り越して、角を曲がった。河川敷が目の前に見えて、川辺に下りる階段に二人で腰を下ろす。
正面に夕焼けがのぞんだ。
暮れる太陽とたゆたう雲、そして、薄ぼんやりと儚げな光を投げかける三日月。
三者三様に空を占有するその姿に、不思議と心が安らいだ。
「もう少しで日も沈むね」
「暗くなったら、帰ろうか」
「そうだね」
近くをジャージを着た大学生らしき男性が走り去っていく。ジョギングをしているのだろう。河川敷をジョギングというのも、人生で一度はやってみたいことのうちの一つ。夏休みにやりたいことのリスト、だけでなく、僕も人生でやりたいことリストを作ろうか。
頬を撫でつける風に藍がそっと髪を手で押さえた。
「散歩ってどこか哲学的な問いを考えるのに適していると、わたしは思うんだよ」
「哲学的問いってたとえば?」
「たとえば、どうして人はやってはいけないことだとわかっていても、それをしてしまうのか、とか」
「それはたとえばっていうか、たとえなのに抽象的に過ぎる気がするんだけど」
「じゃあ、もっと具体的に。人はなぜすでに相手のいる異性であっても時に好意を抱くことがあるのか」
「……藍は散歩をするとき、いつもそんなことを考えているわけ?」
「ううん。ふと今思っただけ。何も考えずにぼーっと景色を眺めている時間の方がずっと多い」
藍が微笑んで、つられて僕も自然と口元が緩む。
どうして大切に思っている人が幸せそうに笑うと自分も幸せな気分になるのか、なんて、哲学的な問いにはなりえないだろうか。
「どうして藍はわざわざ散歩なんて、あのリストの中に入れたの?」
散歩なんて意図して取り上げなくとも自然に行っていることだと思うし、「やりたいこと」と明言するような確かな目的を持ってやる行為でもないだろう。
そう思って、僕は訊いた。
「何事も、やりたいと思ってるだけじゃできないんだよ、涼」
訓示を垂れるかのように、人差し指を一本立てて藍が言う。
「いつかやろういつかやろうと思っていても、次から次へとやってくる状況に場当たり的に対応しているだけじゃ、自分の本当にやりたいと思っていることは何もできないの。やるって明確に口にして、やろうって実際に行動を始めないと、何も実現しないんだよ」
「一理あるね」
「一理どころか、百理あります」
えっへんと、藍が胸を張る。
「じゃあ、藍が今一番、やりたいと思っていることは何?」
藍の目を見て、問いかける。
「……当ててみて?」
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて藍が問い返した。
「……抱きしめたい」
「……それは涼のやりたいと思うことでしょ」
「家に帰りたい?」
「さっき日が沈んだら帰ろうって言ったばかりだよ」
「ごはんが食べたい」
「わたしは食いしん坊キャラじゃありません」
「服を脱ぎたい」
「変態キャラでもないです」
「降参。全然、わからない」
「涼はわたしのこと、なーんにもわからないんだね」
言われて、ぐさりと来る。
的外れな回答を繰り返して当てられなかったのは事実とはいえ、そこまで言われなくてはいけないようなことだろうか。
「冗談だよ。わたしも涼のこと、何にもわからないから、おあいこ」
「恋人なのに?」
「恋人だから、だよ。どんなに仲が良くても、どんなに仲睦まじくても、突き詰めたら他人なんだから、何もわからなくて当然です」
そう言われるとそうなるのか。長年連れ添った熟年夫婦でも、きっと理解できない相手の気持ちなどいくらでもあるのだろうし。
「それで、さっきの質問の答えは?」
「ん? ……ないよ」
「は?」
「やりたいこと、なにもない。今が満たされてるから、特にないの」
「つまり、正解がそもそもないと」
「そうなるね。質問自体が的外れだったのです」
おどけて藍は言った。
「ずるーい」
「ずるくなーい」
言い合って、顔を見合わせて少し笑った。
そこで、まるで公衆の面前でイチャついてんじゃねえとでも突っ込みを入れるように、これまでよりも一際強い風が吹き抜けていった。
藍の身に着けていた紺色のスカートの裾が少しめくれ上がって、白い肌がちらりと覗く。
思わず食い入るように見つめてしまうと、じとりとした視線が返ってきた。
「涼?」
「ご、ごめん」
「いいけど……気になる?」
「な、なにが?」
「わたしの、スカートの中」
「風でスカートがめくれ上がるという事態に遭遇して気にならない男子はいません」
「一般論に逃げないで」
「すみません。気になります」
「よろしい」
藍が裾を指先でつまむようにして持ち上げた。
「見たいのなら……」
「見てもいいの!?」
「ランジェリーショップにでも行ってください」
「……確実に僕が不審者扱いされるよね、それ」
藍がぱっと手を開く。スカートの布地がまた元の位置に戻った。
「こうして他愛のない冗談を交わしている時間が実はとんでもなく貴重だったのだと、その時の彼らはまだ知る由もないのだった……」
わずかな沈黙ののちに、藍が唐突にそう言い出した。
「急にどうしたの」
「つい、言いたくなって。定番だから」
「定番にしても、当事者が口にしてるのは明らかにおかしいよね、それ」
「細かいことは気にしない」
またそうしてひとしきり微笑んだ。
どこか遠くで電車が線路のつなぎ目を通過する音がする。がたんがたん、がたんがたんと。
その音に我に返って、辺りが大分暗くなっていることに気付いた。
夕焼けの色が大分失せて、空が暗闇に染まっていく。強い風のために雲はいつの間にかどこかへ行ってしまって、月が徐々にその勢力を増していた。
それからしばらく二人で空を見て、沈む夕日を見つめ続けた。
太陽が水平線に完全に姿を隠す。その残り灯が消え去る前に口を開いた。
「帰ろっか」
「うん」
立ち上がった僕は藍に手を差し伸べて、彼女がその手を取った。
そのまま手をつないで、歩き出す。
「有意義な散歩だった?」
「ううん。全然」
「……そ、そうなんだ……」
「散歩に意義なんてないよ。あるのは楽しいか、楽しくないか。気分転換になったか、ならないか」
「じゃあ、楽しかった?」
「普通かな」
「そ、そうですか」
どこまでもかみ合わない会話だ。
「でも、充実した時間だったよ」
藍がまた悪戯っぽく笑った。
「もしかして、さっきから僕をからかってる?」
「あ、わかった?」
「……どうりでやけに似ているようで意味の違う言い回しが多いと思った」
「言葉って面白いよね。表現したい気持ちは同じでも、それを実際に表現するときに使う言葉は違ったりするんだから」
「それは人によって、ということ?」
「そう。この散歩を面白いと言うか、楽しいと言うか、有意義だったと言うか、充実していたと言うか。ほとんど似たような意味のはずなのに、言い方を変えるだけで全然違う感じ方をしているような印象を受ける。きっと、感じた思いは同じはずなのにね」
「なら、僕も充実した時間だったと言っておくよ」
「? ……どうして?」
「感じた思いが同じなら、表現する言葉も藍と同じにしておきたい」
「っ……! そ、そっか」
ぎゅっと藍が胸元の前の空間を握りしめるようなしぐさをした。
「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない。行こ」
少し早足になった藍に引かれて散歩は終わりへと近づいていく。




