不誠実
次の日の朝、僕は自転車を漕いで学校に着く。
通学に自転車を使っている僕だが、その道のりは険しく、およそ片道一時間の道のりを毎日走破していた。
家から学校が遠いのにバスや電車を使わないのは、父の言いつけによるところが大きい。
毎日それくらいは体を動かせという脳筋な父なのだった。
入学から二か月近くその習慣をつづけているわけで、そろそろ誰か褒めてくれてもいいんじゃないかと思う次第だが、生憎そんな相手は一人としていない。
家族は僕に暑苦しいか、冷たいか、意味わからないかの三択で、とてもそんな殊勝な心掛けをもった奴などいやしないし。
教室に入ると、一番に九々葉さんの後ろ姿が目に入る。
廊下側一番後ろの席だから当然だが、僕が登校するような時間に彼女がすでにいるのは珍しかった。
一時限目が体育の場合など特別な場合でなければ、彼女は朝はぎりぎりにやってくることが多いのだ。
「…………あの」
僕が席について、またぞろいつものごとくぼーっとして、始業時間を待とうかとしていると、後ろから声がかけられる。
まさか、と思って振り向くと、九々葉さんだった。
なんだろう。昨日のことだろうか。
一旦家に持ち帰って考えてみた結果、やはり許せなくなってしまって、僕をセクハラで訴えたいということだろうか。
いかにも現代社会にありそうなことに思えた。
昨今はそういう問題多いからなあ。
などと他人事気味に考えていると、彼女が口を開く。
「……き、きのうは……」
「昨日は?」
「あ……」
「あ?」
「あり……」
「アリストテレスの本でも読んだ?」
「ち、ちがう!」
あ、顔真っ赤にして怒った。冗談なのに。
「き、きのうは、ありがとうございました!」
深々と僕に向かって頭を下げて、彼女が言った。
一瞬何を言われたのかわからなくて、真顔になる。
すぐに内容を理解して、けれど、何と返すべきか困った。
お礼を言われるようなことをしたとも思っていない。
僕は人として当然のことをしただけで、何か見返りがほしかったわけじゃない。
けれど、今返すべき言葉は一つしかないだろうな、と思った。
「……どういたしまして」
言うと、九々葉さんはちょっとだけ嬉しそうに、唇の端に笑みを滲ませた。
「そういう顔もできるんだね」
「……え?」
「なんでもない」
僕は答え、それから疑問を連ねた。
「どうして、お礼を言おうと思ったの?」
二か月間ずっと沈黙を貫いてきた九々葉さん。
誰に何を言われてもまともな返答を返さず、彼女に付きまとうものすべてを拒んだ。
なのに、少しばかり親切にされたくらいで、その沈黙を破り、お礼を言う。
それも最初、彼女は保健室に行くことを拒んでいたのだ。あれは僕が無理やり連れて行ったに等しい。教師に見つかれば、否応なく連れて行かれただろうが、それでもあれは僕の自己満足だった。
それなのにどうしてだろう、と純粋に疑問に思った。
そう言うと、彼女は僕と目を合わせ、それから、だって、と子どものように口にする。
「だって、人に親切にされてお礼を言わないなんて、そんなの不誠実だから……」
言われて、なぜだかひどく虚を突かれたような気持ちになった。
……そっか。不誠実か……、そっかそっか。
「ぷっ」
「え……?」
「あっはははは」
「な、なんでわらうの……?」
「はははははは!」
「あ、あのっ……」
咎めるように彼女が言う。
けれど、僕は笑みをこらえきれなかった。
一人大声で笑っている僕にクラス中から奇妙なものを見る視線が流れてきていたが、そんなものはかまいやしない。かまったところで、どうせ僕が一人なのは変わらないのだ。
ひとしきり腹を抱えて笑った後、僕は九々葉さんに向き直る。
彼女は若干呆れたような表情をしつつも、クラスメイトたちとは違い、決して僕を白い目では見ていなかった。
それだけのことがどうしようもなく嬉しいと、僕は思ってしまう。
たったそれだけがどうしようもなく尊いものに感じられてしまう。
だから、僕は言った。
「あのさ、九々葉さん」
「……な、なに?」
九々葉さんはちょっと戸惑った顔で、けれど、無視することもなく、僕の言葉に応えてくれた。
今の僕の奇行を機に、今まで通りの沈黙を貫くこともできただろうに、それが彼女にとっての不誠実に当たるからか、彼女はそうしなかった。
そんな彼女に好感を覚える。
クラスで浮いた人間であることなどおかまいなしに。
なぜなら僕も浮いているから。
「僕と友達になってくれない?」
そう言うと、九々葉さんは驚いたように目を見開いて、それからじっと僕の顔を見つめる。
十秒間ほどもそうしていた彼女は、何がわかったのか、しっかりと一つ頷いて、小さくつぶやくようにして言った。
「……うん」
そうして、僕と彼女は友達になった。