栗原るりは微笑する
「へー、それで藍ちゃんと仲良くデートしてきたってわけだ。それはよかったね」
言って、栗原は僕の背を踏みつけた。
靴下の上からぐりぐりと足を動かし、軽く体重をかけてくる。痛いというよりくすぐったいぐらいの強さ。背中の肌に直接触れる布地の感触に、それを通して伝わってくる体温と、彼女の肌の感触。彼女が足を引いたり押したりするたびに、踏まれるのがだんだんと気持ちよく感じられてくるぐらいの絶妙な力加減だ。
「ああ、それはそれは楽しかったさ。夏休みに至っても、こうして男を組み伏せて踏むことにしか快楽を得られないお前のような変態と違って、僕は真っ当な青春の楽しみというものを満喫しているからな」
僕は現在、上半身裸で栗原のベッドの上にうつぶせに寝転がっている。
夏休み初日に、栗原から条件付き下僕となってくれと頼まれたことに起因する、彼女の憂さ晴らしに付き合っているがゆえの現状だ。まだ二回目だが、二回目にしてかなりきわどいことを要求されていると自覚する。なんで家に入った瞬間に、「上だけ脱いでベッドにうつぶせになって」などと言われなくてはいけないのだろう。
そんな理不尽さに対する反発もあって、少々とげのある言い回しで返答してしまった。
「はいはい。わたしは変態ですよーだ。恋人のいる相田君と違って、こうして男を踏みつけることでしかストレスを発散できない変態ですー」
もはや割り切ったようにそう言う栗原である。
「その恋人のいる男を踏みつけていることにいくらか疑問を持ってほしいよ」
「わたしが頼んで相田君が受け入れてくれたんだから、何も疑問の余地はないよね」
まあ、実際のところはそうなんだけど。
「それより相田君。藍ちゃんにはまだばれてない、っていうか、話してないよね、このこと」
このこととは当然、僕が栗原の歪んだ欲求(本人談)を晴らすお手伝いをしているということだ。
「ああ、隠し事をしていることはもうばれちゃったけど、内容は訊かないでくれるってさ」
「さすが藍ちゃん優しいねー。っていうより、相田君への信頼かな?とにかくうらやましい限りだよ。そういう風に絆の深い関係が持てるの」
「……お前だって、容姿、性格ともに大分まともなんだから、やりようによってはすぐに同じようになれると思うけどな。……性癖さえ隠せば」
「……な、なに言ってくれちゃってるの相田君!? わ、わわたしなんてそんな大したもんじゃないんだから。顔もふ、普通だし……性格も普通だし……どんなにがんばっても無理だって、もう……!」
台詞とともに踏みつける力が五割増しになった。っていうか、頭を踏まれた。顔の半分がシーツに埋まる。鼻が折れそうだ。さすがにこれは痛い。
「うー!!ううーーーー!!」
まともに声も出せずにばんばんばんとシーツを叩いた。
びっくりしたように栗原が足を震わせて、慌てて飛びのいた。
「ご、ごめん! 踏む力、強かったよね。ほんとうにごめんなさい」
申し訳なさそうに、栗原が謝ってくる。いや、踏む力ってか、場所。
「いや、別にいいけど。……お前、本気で相手が嫌がることはしないんだな」
「なにそれ。当たり前でしょ。君はわたしをどんなにひどい人間だと思ってるの」
「いや、男を屈服させたいなんて言うから、てっきり僕がどう感じてるかなんてお構いなしに、お前のやりたいことを押し付けてもっとぐいぐいくるもんだと思ってたんだよ。それが蓋を開けてみたら、かなり僕の方の気持ちも考慮してもらってるみたいで……ちょっと驚いた」
「それはそうだよ。お礼なんて言ったって、こんなこと、相田君に求めるのは完全にわたしのわがままなんだから。君の気持ちを思いやるのは当然のことだし」
やはりどう考えても優しい栗原なのだが、反面、そんな相手に文字通り足蹴にされているというギャップがすごい。
「とりあえず、少し休憩させてくれ」
かれこれ三十分近く上半身裸のまま踏まれていたので、いいタイミングだと思い、そう提案した。
「うん。そうしよっか。スイカあるけど、食べる? 近所のおばさんが田舎から食べきれないほど送られてきたからっておすそ分けしてくれたの」
栗原の部屋で、栗原と一緒に、踏んでもらっている……間違えた、踏ませてあげている時間の休憩として、スイカを食べる。
こうして表現してみると、なんて非日常的体験の中の日常的体験なのだと思う。
「なんかさ」
「ん?」
「踏まれるの気持ちよくなってきたような……」
「ぶっ!」
栗原が危うくスイカの種を吹き出しかけたが、乙女の矜持としてか、すんでのところで口を抑えた。
ひとしきり口の中のスイカを咀嚼して飲み下したのちに、栗原が訊いてくる。
「な、なに……? 相田君そっちの気あり?」
若干、引いた目で栗原が見ていた。
いや、踏みたいと言って踏んでいるお前自身が引くのもおかしいだろ。
「そんなつもりはあまりなかったんだけど。お前の足加減、絶妙なんだよ」
我ながらなんてセリフだ。足加減が絶妙などという言葉を人生で一度でも口にするとは思わなかった。
「そ、そう……。わたしはけっこう踏みたいように踏ませてもらっているだけだけど」
「強くもなく、弱くもなく、的確にツボをついている感じというか……」
「ツボってそれ……ただ腰が凝ってるっていうだけなんじゃないの?」
「ああ、なるほど。そうかもしれない」
姿勢の悪さゆえか日常的に肩が凝っている僕なので、腰にも張りや凝りが発生していたとしても不思議はない。
「……栗原さ、一つ訊いていい?」
「なに?」
「お前、踏むのが気持ちいいの?」
「……女の子に向かって、平然とそういうこと訊かないでくれない?」
「それは僕だって、普通の女子には訊かないさ」
「まるでわたしが普通の女子じゃないみたいな言い草ね」
「違うのか?」
「違いますぅ! わたしはただちょっと男の子を従わせるのが好きなだけですぅ!」
それを普通じゃないって言ってるんだけどね。
「つまり、男を屈服させることによって、お前は性的な満足感を得ているのかという話なんだけど」
「より生々しい表現をしないでくれる?」
「それでどうなんだよ」
「……わからない。こないだ相田君に足を舐められたとき、さっきまで相田君を踏みつけていたとき、とても楽しかったのは事実だけど、性的な満足感とか言われてもちょっと……」
「そうか」
もしこれで性的な満足感を得ているのだとしたら、将来的にこいつはちょっとまずい人物に成長しそうだと思ったから、少し心配になってそう訊いたのだが、本人もわからないときたか。
性的嗜好なのか、単なるストレスのはけ口なのか、曖昧模糊な感じだ。
「一応、訊いとくけど、他の奴にやってないよな?」
「や、やるわけないでしょ!? 相田君はわたしをなんだと思ってるの!?」
顔を真っ赤に言い募ってくる栗原。その様子だと嘘ではないようだ。よかったよかった。僕以外に犠牲者はいないようだ。これからも出ないことを祈りたい。
「もちろん優しい女子の皮を被った変態」
「ぐぬぬ……」
そんな死ぬほど悔しそうな顔をされても、実際事実だから他に言いようがないんだよな。
「あ、相田君だって、そういう人に言えない性癖の一つや二つ、あるでしょ?」
「そもそも性癖なんて人に言いふらすものじゃないし」
逆に人に言える性癖ってなんなのかを教えてほしい。
「……なんか、わたしだけ秘密を握られてるみたいでとっても不満なんだけど……」
ふくれっ面で言ってくる栗原。
「お前が自分から暴露しておいて、そう言われてもな……」
お礼として何でもするとは言ったかもしれないが、その限度を超えたことを平然と要求してきた彼女自身の責任だろう、それは。
「相田君もないの? なんか秘密」
もはややけくそになったように、胡乱な目つきで栗原が訊く。
普段優し気な雰囲気の人間にそういう視線を送られると、ちょっと落ち着かない気分になる。いや、まあ、その普段優し気な雰囲気の人間に今の今まで足蹴にされ、踏みつけられていたわけだけけれど。
「秘密と言ってもなあ……」
一高校生の身分で、そんな大それな秘密など持っているわけがない。性癖にしろ、僕は割と普通である。言動は普通ではないかも知らないが、そういう分野についてはそうアブノーマルな趣向を持っているわけでもない。
「昨日藍ちゃんとデートしたんでしょ? その時にこう、なにかに目覚めたとか、唐突にこんなこと思っちゃったとかないわけ?」
「昨日って……」
どちらかというと、藍の方に人にあまり言いふらされたくない秘密があった気がするが、例え栗原でもそれを口にするわけにはいかないし、そもそもそれは僕の秘密じゃない。
「せいぜい浴衣の藍を脱がしたくなったとか、それで全身舐めまわしたくなったとか、その程度だな」
「うわあ……」
栗原がマジに引いた顔をしている。露骨に僕から距離を取られた。
自分から訊いておいてそこまで引くか。
言ったことを後悔したが、別に嘘でもないので前言を撤回はしない。
「……自分を省みてから態度を示せよ、お前」
ただ言いたいことは言わせてもらう。
「……ご、ごめんなさい」
もともと性格にはあまり尖ったところのない栗原である。僕の口調が少々怒気をはらんだものであることを感じ取ったか、すぐに謝罪の言葉が告げられる。
「あ、いや、僕もちょっと考えてから口にするべきだったな、すまん」
そして、たとえ先に怒ったのが自分であったとしても、謝られると逆に自分の方が小さい人間のように思えて、こちらからも謝ってしまうのが僕という人間。
「……」
「……」
「……やめよっか。この話題。お互いの傷を増やすだけよね、これ」
スイカを食べ終えるとともに、少し傷ついた表情の栗原が言った。
「だな」
僕も同意する。優しい栗原とはもっと温厚な話題で盛り上がりたい。
「えっと、相田君、今日はもういいよ。わたしのせいで不愉快な気持ちにさせてしまったみたいだし、これ以上、ここに引き留めておくわけにもいかないから」
今は午後三時五十分。栗原家に来たのが三時だったので、およそ五十分しか滞在していないのだが、ごまかすように笑った栗原からそんな風に言われる。
しかし、その顔はどこか物足りなさそう。
「……本当にか?」
「……ど、どういう意味?」
「僕を踏んだだけのことでお前の中の男を屈服させたい願望とやらは本当に満たされたのか、という意味だよ」
以前、人をいきなり踏んだ挙句に足を舐めさせまでした人間が、これくらいで満足するとは思えない。もっとハードなプレイがあってしかるべきである。
「で、でも、相田君をこれ以上拘束するのも迷惑だよね?」
「迷惑なら、そもそもお前にあんなことを頼まれた時点で断ってるって。僕は栗原るりという人間をそれなりに好ましく思っているから、お前といるのは別に苦でもなんでもないんだよ。たとえそれが下僕でもな」
今思えば、同じクラスの人間の中で初めて僕に話しかけてきてくれたのは、藍を例外とすればこの栗原なのだ。僕はそんな彼女を決して憎らしく思っていない。藍とそれなりに話も合うようだし、僕のことも馬鹿にすることも見下すこともなく、自然体で付き合ってくれる。
栗原はとてもいい奴で、ならば、僕はそんな彼女が普通に好きだ。
「……いいの? わたしにそんなこと言っちゃって。藍ちゃんというものがありながら」
ほんのりと頬を染め、こちらを窺うような上目遣いで彼女は言う。
「口説いてるつもりなんて毛頭ないからな。僕は本音を言っているだけだ。いい友達だと思ってるんだよ、お前のことは」
そう。友達として、僕は彼女が普通に好きだ。
「そっか……。なら、下僕としてじゃなく、友達として、もう少し一緒にいてくれる?」
栗原がそう微笑みかけてくる。なぜかその微笑がひどく儚げなものに思えて、一瞬、僕は戸惑ったけれど、それでも、きちんと笑い返した。
「もちろん。そうさせてもらうさ」
お前が今何を考えているのかは知らないけれど、お前が今何を求めているのかだけはなんとなくわかる気がするから。
「ありがと」
お礼の言葉は優しく心に届く。
栗原るりのその声はどこまでも本当に優しい。優しすぎて、世界の温度に溶けて消え去ってしまいそうなほどに。
時折詩的表現を混ぜこみたくなる病気。




