相田涼はキスをした
九々葉家のリビングで出された麦茶をすすって待っていると、階上から浴衣姿の藍が降りてきた。
「どう……かな?」
やや自信なさな風に、しかし、見せつけるようにくるりとその場で一回転してみせる藍。
藍色を基調とした布地のところどころに真っ白な芍薬の花が描かれていて、薄水色の直線的なラインが肩口から腹部にかけて斜めに、また腹部から足元にかけてまっすぐに走っている。
うん。やはり藍には名前の通り、藍色が一番似合う。着物の柄も決して過度でなく、控えめでありつつもきちんと女性らしい可愛らしさを主張している。
「よく似合ってるよ」
「よかった……」
そう言った藍はどこか落ち着かないように、もぞもぞと太ももの辺りを動かした。
なんだろう。帯がきつかったりするのだろうか。
「当たり前じゃん。このあたしが、藍に完璧に似合うように誠心誠意選んだんだからさ」
たしかに選んだのは彼女なのだろうだが、自分で着ているわけでもないのにやたら偉そうに楓さんが胸を張ってくる。
そんな彼女も燃えるような赤銅色の浴衣に身を包み、お出かけする準備は万端といった様子だ。
と、急にいたずらを思いついたような顔で楓さんが僕の耳元に顔を寄せてきて、
「相田君。ぱっと見わかんないかもしれないけど、実は藍さ……」
と何かをささやこうとしたが、あわてたように藍が割り込んできた。
「お、お姉ちゃんっ……!!!」
「なあーに、藍ちゃん。そんなかわいい顔してかわいい声して、そんな怒ったような態度とっても全然怖くないよ~?」
「お姉ちゃんは余計なことしないでください!」
「お姉ちゃんは、ってことは自分で言う意思はあるってこと?」
「……っ! そ、そんなことありません! ……元はと言えばお姉ちゃんのせいなのに、どうしてわたしが……」
「選んだのは藍ちゃんさー」
澄ました顔で楓さんが受け流している。
僕には何の話かさっぱりなのだが、何か姉妹間で共有している秘密でもあるのだろうか。
「も、もう行こう、涼。お姉ちゃんなんてほっといて」
「え、う、うん」
「あ~ん。藍ちゃんってば冷たい~」
ふざけたことを言いつつも、僕に向かってウィンクしたのちにぐっと親指を立ててきた楓さんの姿が妙に印象的だった。
花火大会が行われるのは九々葉家からはそれなりに離れた川沿いなので、楓さんが送ってくれたりしない以上、バスで移動する必要がある。
高校近くのバス停から会場近くを通るバスに乗り込むと、車内にはたくさんの人が詰め込まれていた。
若干、うんざりした気分になりつつも、運よく僕らが乗り込んだところで席を立った人がいたので二人で並んで腰を下ろす。車内には藍だけでなく、ほかにも数人浴衣姿の女人の姿が目に留まった。
目的への所要時間は大体三十分といったところか。今が六時半だから、花火まで三十分ほどぶらつける。
隣に腰を下ろした藍は、なぜかお尻のあたりを気にしていて、何度も腰を上げて座りなおしたりしていた。
「どうしたの? さっきもちょっと変だったけど、浴衣どこかきつかったりするの?」
「う、ううん。そ、そういうのじゃないんだけど。……ちょっと落ち着かなくて」
困ったように眉を寄せて藍は首を振った。
「ああ。普段浴衣なんて着ないもんね」
和服自体、現代ではそうそう袖を通すことのない代物だろう。七五三とか、成人式とか、ある分にはあると思うが。
「そ、そうそう。だから、その、落ち着かないの」
そう言う藍の目はひどく泳いでいた。
「本当に大丈夫? 調子が悪いのなら、別に家に戻っても……」
「だ、大丈夫! 体調は問題ないの! 体調はね……」
うつろな瞳をしているが、本当に平気だろうか。
バスを降りて少し歩くと、街道を埋め尽くすほどの屋台の列と人の群れがうごめいていた。
うわあ、あそこに混ざりたくねえ。
本心はそれだったが、デートという手前、行かないわけにもいかない。
あ、そうだ。
「藍」
「な、なに?」
「はぐれないように、手をつなぎませんか?」
「え、あ、うん」
言って、手を差し出してくる。
触れた藍の指先と手の平の感触は滑らかで、わずかに熱を持っている。人込みに混ざることの不幸感を幸せ感が完全に上回った。
「少し、照れちゃうね」
肩先が接するほど近くを歩いている藍が、視線を前から逸らさずに言ってくる。触れる指先が僕のそれと深く絡み合った。
言っていることとやっていることが全然逆ですねー。だがいいぞ、もっとやってくれ。
そうだね、と返し、
「さて、どこから行きますか」
人ごみに混ざる覚悟を決めるため、そう自分にも言い聞かせる。
屋台の種類は多大だ。とても全部を回り切れるものでもないし、そんな資金もない。
「お腹すいたから、食べ物がいい」
「さっきアイス食べなかったっけ?」
「……そ、それは別なので……」
甘いものは別腹ってやつですね。でも、それって普通、食事らしい食事を取った後にデザートを食べるときに言う言葉じゃないだろうか。甘い物が先に来るのは珍しい。
とりあえず、定番として、焼きそばとたこ焼きを買った。
食べながら歩くという行儀の悪いことはせず、というか、焼きそばなんて歩きながら食べられるものなのか知らないが、その辺にあった適当な芝生に腰を下ろして二人でたこ焼きと焼きそばをつつく。藍は浴衣を汚さないよう、薄い布をお尻の下に敷いた。
来て早々着座である。まあ、僕としてはこの方が楽でいい。
「……あーん?」
何の前置きもなく藍がたこ焼きをつまようじで刺し、もう一方の手を下に添えながらそう言ってこちらに差し出して来た。なんでちょっと疑問に思ってる感じなんですかね。
「あーん」
ぱくりと口を閉じようとしたところ、たこ焼きがすっと引かれた。
藍がそれをもぐもぐと咀嚼する。
「……」
「……」
「……やってみたかっただけです」
「……うん。知ってた」
焼きそばをがっついて喉が詰まりかけたところで、飲み物を買っていなかったことに気づいたので、ちょっと遠くにあった飲み物を売っている屋台でお茶を買って戻ってくると、藍のそばに見覚えのない幼い女の子がいた。藍があげたのであろうたこ焼きを食べている。
「どうしたの? その子」
「……お母さんとはぐれたらしいよ」
なんとまあ、この数分でよくそんなエンカウント率の低そうな幼女をゲットできますことね。
「……どこではぐれたかわかる?」
見た目四、五歳くらいってところだろうか。幼子と話すときは目線を合わせるのが大事だという話を思い出して、しゃがんでできるだけ優しそうな声で話しかける。
だが、たこ焼きから顔を上げた幼女は、
「ひっ……うええーん!」
と僕の顔を見て泣き出し、そばにいる藍に抱きついた。
「よしよし。怖かったね。大丈夫だよー。このお兄さんは顔は少し怖いけど、根はとっても優しい人だからねー」
藍が幼女の頭を撫でてあげている。
「……その子名前はなんていうの?」
深く傷ついたことなどおくびにも出さずに平然と言い連ねる僕はきっと超かっこいい。
「う、うえええーん!」
「……涼、ちょっとしゃべらないで」
「はい」
もう、何も言えねえ。心の傷も何も癒えねえ。
藍に抱きしめられ、頭を撫でられるといううらやましい状況に数分置かれたのち、幼女はやっと泣き止んだ。
「……鬼灯愛乃」
ぽつりと幼女がつぶやいた。おそらく彼女の名前だろう。一応、さっきの僕の質問には答えてくれたのか。
「愛乃ちゃんって言うのかー。わたしはね、九々葉藍っていうんだー。この怖いお兄ちゃんは相田涼だよー。顔は怖いけど、根は優しいから、怖がらなくても大丈夫だよー」
うん。顔が怖いのはわかったから藍は二回も言わなくても大丈夫だよー。
「それでね。愛乃ちゃんはどこでお母さんとはぐれちゃったのかなー」
「……トイレ」
「トイレ?」
「……うんとね。愛乃がトイレに入ってね。出てきたらね。お母さんがいなかったの」
内容が断片的過ぎて状況がつかめない。それだけの情報じゃあ、なんではぐれたのかがよくわからない。
「えっと……、愛乃ちゃんがトイレに行ったのはどれくらい前かわかるかな?」
それは藍も同じらしく、少しずつ情報を引き出すつもりのようだ。
「……さんじゅっぷん」
「三十分前だね……。じゃあ、そのとき、お母さんは一緒にいた?」
「……ええとね。うんとね。いなかった……」
「トイレに行ったときにいなかったんだね。じゃあ、愛乃ちゃんはちゃんとお母さんにトイレに行くって言ったかな?」
「……言ってない」
「そっかー。何も言わずに行っちゃったんだねー」
「……ごめんなさい」
「ううん。愛乃ちゃんは悪くないよ。でもねー。今度からはちゃんと、お母さんに言ってからトイレ行くようにしよっかー」
「……うん」
藍、子供の扱い慣れてるのかな。優しくするところは優しくして、ちゃんと注意するところは注意していて、危なげがない。でも、あんまりそんな話を聞いたこともないから、即興でやっているのだろうか。
だとしたら、やはり女子というのは子供に優しい生き物なのだろう。いずれ母になる存在だしな。子供に冷たい女の子というのもそんなには見ないし。
「愛乃ちゃんはトイレに行く前お母さんと一緒にどこにいたか覚えてる?」
「……ええとね。……わかんない」
「……んー、じゃあ、最後に屋台……どのお店に行ったかはわかるかな?」
「……型抜き……」
「……ん?」
「型抜きした……」
この年でしかも女の子で型抜きとはなかなか渋い趣味をしてらっしゃるな。今日日、そんなに見る屋台でもないだろうに。
「そっかー。じゃあ、とりあえず、そこまで行ってみよっか。場所は覚えてる?」
「……たぶんわかる」
「うん。じゃ、行こ。大丈夫だよ。お母さんも今頃はきっと愛乃ちゃんのこと心配して、探してくれてるから」
「……うん」
幼女は心なしか笑顔で頷いた。
何度か迷ってはどうにか愛乃ちゃんに記憶を掘り起こしてもらい、十分かけて型抜き屋に着くと、そこの店主に幼女を見せて、この子のお母さんが探しに来ていないかを尋ねた。
「う~ん? ああ、そういや十五分くらい前に来たね。たしかその子と一緒にいた人だったと思うけど……」
「その人、どこに行ったかわかります?」
「いやあ、ちょっとそれは……。でも、見かけたら連絡くださいってんで、電話番号を……」
「本当ですか」
「ああ、これだよ」
言って、店主が小さいメモ用紙を差し出してくる。
お礼を言って受け取ると、すぐに携帯で電話をかけた。
幸い、すぐにつながって、ひどく焦ったような声音の女の人が電話に出た。事情を告げると、すぐに行くからそこで待っていてください、との返事が来た。
「お母さん、すぐに来るってさ。よかったね。愛乃ちゃん」
笑いかけてもどうせまた怖がられるのだろうと思ったが、意外にも愛乃ちゃんは僕の顔をじっと見つめたのちに、
「うん! ありがとう! 涼お兄さん!」
と、とびっきりの笑顔で言った。
おお。びっくりした。まさかそんな反応が返ってくるとは。
正直、この年頃の子供なんて生意気なだけでかわいくもなんともないと思っていたのだが、ちょっと子供好きになりそう。
「よかったね。涼お兄さん」
藍が生暖かい目でこちらを見ている。
おお、藍にお兄さんと言われると、妙な背徳感が・・・。
「涼お兄さんの顔、気持ち悪ーい!」
愛乃ちゃんがそんな僕の顔を指差して、けらけらと笑い出した。
やっぱないわ。子供嫌いなままでいい。かわいくもなんともない。
けれど、ほんと何事もなくてよかったな、愛乃ちゃん。
デート中の出来事だったけど、悪くはないよ。この気持ち。
やってきたお母さんが何度も頭を下げるのに合わせて、とんでもないとこちらも頭を下げ返すのを繰り返しつつ、どうにかその場を抜け出して、藍とまた歩き出した。
「藍は子供好きなの?」
さきほどの愛乃ちゃんに対する態度がとても自然だったので訊いてみた。
「好きだよ。純粋で、かわいくて、きれいだよね」
「う、うん。そうだね……」
正直、それには同意できかねるのだが、まあ、そういうことにしておこう。
「涼は好き? 子供」
「……す、好きだよ」
子供を好きだと言う人間の手前、本音を口にするわけにもいかず、僕は頷くしかなかった。
返答した僕の顔をじっと見つめていた藍は、
「涼、ちょっとストップ」
と言って、足を止める。
それから、屋台が並ぶ本道から脇道に小走りで進んでいって、僕にも来いと、手招きをしてくる。
意図がわからずともついていくと、やや人気の少ない木陰で藍は止まった。
「しゃがんで」
言われるがまま、腰を落とす。
すると、ふわりと清涼な柑橘系の匂いが香って。
僕は藍に頭をかき抱かれていた。
そのまま、頭を撫でられる。
「えらいえらい」
突然の行動に何も反応できずにいると、
「子供が好きでもないのに、ああいうの、なかなかできないよ。だから、涼はえらい」
藍が僕の耳元でささやいてくる。
「い、いや、別に普通のことをしただけで」
「じゃあ、普通にできた涼はえらい」
そう言われてしまうと、反論のしがいもない。
「がんばった涼にご褒美が必要です」
だから、頭を撫でてくれるのか。なんだそれ、藍のそういうところ好きすぎるんですけど。
しばらく頭を撫でられていると、頭上で大きな音がした。
びっくりして見上げると、すでに花火が上がっていた。
「ああ、始まっちゃったね」
「いいよ。ここでも空は見えるから」
二人で近くのベンチに移動した。みんな、花火の上がる川の方へ移動してしまって、さっきよりも人通りは少なくなっていた。
藍と手をつないで空を見上げる。
「わたし、涼と出会えてよかった」
「僕も」
そんな風に自然と言える関係になれて、本当によかったと思う。
「いろいろとわたしのためにやってくれて、ありがとうございました」
藍が深く頭を下げてくる。
「いえいえ。僕の方こそ、いろいろありがとう」
「わたしがあなたに返せるものは少なくて、もらうばっかりで、そして、とても自己中になってしまうわたしだけれど、今しばらくあなたの近くに置いていただければ幸いです」
「しばらくと言わず、ずっといてくれていいんだけどね」
空をつんざく大きな花が咲く音がする。
とても近くで小さくも儚い、それでも力強さを持ったきれいな花が咲く音がする。
「わたしはあなたが好きです」
藍が至近で僕と目を合わせて、しっかりとした声音でそう言った。
「僕も君が好きだよ」
震える唇に目が離せなくて。
空を覆う光の花も。
周囲を歩く人の目線も。
この世界に満ちるありとあらゆる景色も音も声も姿もどうでもよくて。
僕はただ彼女だけを見ていた。
「だいすき」
舌っ足らずな声でつむがれるその言葉は、夜空に上がるどんな大きな花火の音よりも、僕の心に大きく響いた。
目に映る景色は君だけで、聞こえる音は君の息遣い、君の声だけが僕のすべてで、君の姿だけが僕を見つめる。
愛してる。
僕はその言葉を行為によって実践した。




