栗原るりの下僕指令
しばらくまともに口を開くことができなかった。
栗原はなんて言っただろう。
「下僕?」
そう。たしかそんなような言葉を口にしたはずだ。
「下僕」
栗原の表情に冗談の色はない。至極真っ当に正直に素直に気持ちを告げているようにしか見えず、伊達や酔狂の類の下による発言であるとは到底思われなかった。
だからこそ、少しどころではない疑念が僕の心中に渦を巻いてかき乱していった。
「下僕ってつまり、言いなり、奴隷のことだよな?」
とりあえず、詳しい事情を訊かないことには何も始まらない。たとえどれだけ突拍子もないお願いをされたところで、お礼という建前上、一応は栗原の求めるところを正確に知らなければいけないだろう。
そう思っての問いだった。
「奴隷というほどのことを求めるつもりもないけど……」
やや言いにくいそうに語る栗原の表情は、しかし、大して曇ってもいない。
「下僕と奴隷に大した違いもないだろう」
「それはそうなんだけど。言葉の響きというか、ニュアンスというか、奴隷の方が悪い感じを受けるから」
「いや、まあ、それはわかるけど。じゃなくて、説明がほしいんだが」
「説明?」
そんな何もわかっていないような顔で小首を傾げられても困るだけなのだが。
「下僕って具体的に何をしろっていうんだよ。端的にそれだけ言われたところで、いくらなんでもその文脈を読むことは不可能だぞ。っていうか、なんで下僕だよ」
「そうだね……。まあ、そんな反応をするだろうとは思っていたよ」
なら、初めから僕にわかるようにきちんと順序立てて話してほしかった。
「わたしには男を屈服させたい願望があります」
脈絡など無視したように、いきなり栗原がそう言った。
「はあ」
急にそんなカミングアウトを聞かされても一体、どう反応しろというのか。
「わたしには男親がいませんでした」
「はあ」
「幼い頃から母子家庭」
「ははあ」
「あまり男という存在と関わることなく生きてきて」
「うん」
「中学辺りでようやく男を意識しました」
「うん」
「で、思いました」
「何を?」
「男ってなんであんな偉そうなんだろうって」
「それで?」
「そんな男を一度屈服させてやりたいな、という願望を抱くようになりました」
「はっきり言っていい?」
「どうぞ」
「意味が分からん」
母子家庭で育ったから、父親を知らず、あまり男という存在と関わらずに生きてきたからこそ、男を屈服させたいと思う?
正直、何を言っているのか、さっぱりわからない。
「はあ……」
倦怠感ばりばりのため息をつく栗原。
「こうなると思ったから言いたくなかったんだよ」
「そう思うなら、初めから口にしないでほしかったよ」
それは偽らざる本音だった。
よくわからない話を聞かされているせいか、やけに喉が渇いてきた。
出されたお茶を一息で飲み干す。ちょっと苦かったが、喉の渇きは大分癒えた。
「わたしだって……そのつもりだったよ。そのつもりだったんだけど、ね」
「何か心変わりする出来事でも?」
「君と藍ちゃんが人目も憚らずにイチャイチャし始めるからさ……」
「それが何か関係あるのか?」
「……ちょっと、わたしも影響されちゃって……恋したいな、って思っちゃって」
「思っちゃって?」
「男を屈服させたいなって」
「いや、おかしいだろ」
恋がしたくなったのなら、普通に恋をすればいいだろうに。見てくれも性格もいいこいつのことだ。少しがんばれば彼氏の一人や二人、余裕で作れるだろう。
だというのに、なぜそれが男を屈服させたいなどという願望につながるのだ。それがわからない。
「要するに、お前は真性の隠れドSだったということか?」
「人をまるでものすごい変態みたいな言い方をしないでくれないかな」
「いや、事実そうだろう。お礼として、男に下僕になってくれと堂々と頼むお前の神経が僕は信じられないよ」
「だって、我慢できないんだもん」
どこか拗ねたように、あるいは吹っ切れたように口にする栗原。
かわいく言っても言っている内容が下僕になれというのではまったく萌えやしない。
「もちろんさ。わたしもちゃんと、今の相田君には藍ちゃんがいるということは理解しているよ。理解しているからこそ、ためらったんだよ」
「実際、それでも口にしてりゃ、世話がないけどな」
「だからさ、条件付き下僕になってくれない?」
条件付き下僕とかいうパワーワード。
「具体的には?」
「夏休み中だけでいいから。もちろん、藍ちゃんとの用事があるときはそっちを優先していいし。他にも大事な用事があればそっちに行ってくれていい。でも、空いた時間はわたしの歪んだ願望を満たす手伝いをしてくれないかな」
歪んだ願望って自分で言っちゃうんだな。
「それで、下僕っていうのは何をするんだ? お前にずっと踏まれてればいいのか?」
「まあ、それもだけど」
それもなんだ。
「もっとこう、わたしが征服感を得られるようなことをしたいというか……」
「……お前、それ自分で言ってて恥ずかしくないのか?というか、よくそんな性癖みたいなことを堂々と口にできるな」
「相田君相手だとね」
僕は栗原の中でどういう立ち位置の人間になっているんだよ。
「どっちかっていうと、征服感云々は男が女に求めるものな気はするけどな」
「男女差別いくないよ」
「男女差別なのか、これは」
「どちらかという偏見かもね」
ずずず、と栗原がもう一度、お茶をすすった。
人通りや車通りの多い立地条件ではないからか、外の音もあまり聞こえてこない静かな室内に、栗原がお茶をすする音が響く。
そして、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出して来た栗原は、自分のコップと僕のコップに茶を注ぎ直す。
「それで、相田君はわたしのお願いを聞いてくれる気はあるの?」
自分の性的嗜好を知られたことに対する羞恥もためらいもなく、そう訊いてくる栗原の精神性を僕は素直に尊敬した。
「……別に聞いてもいいとは思ってる」
「ほんとに!?」
身を乗り出して反応する栗原に若干引き気味になりつつも、
「まあ、下僕というか、つまりは男を征服したような気持ちになれればそれでいいんだろう? お前に感謝の気持ちを持っているのは本当だし、お返しをしたいと思っているのも本当だ。その気持ちの上で言えば、別に多少のわがままくらいは聞くさ。まあ、程度によるけど」
一応そう答える。
「ありがとう」
手を合わせて栗原はお礼を言う。
「もちろん、この件、口外しない方がいいんだよな?」
女が男に下僕になれと頼む。そんな事実をもし噂話でも聞いたとしたら、誰でもドン引く。僕でもドン引く。たぶん、藍でも。いや、藍なら「そうなんだ」とでも軽く流せるか。いや、流せないだろう。
「したいならしてもいいけど、わたしはそれ以降、相田君に対する認識を改めるよ」
「どんな風に?」
「女の子の秘密を暴露して喜ぶ変態だって」
男の子を下僕にして悦ぶ変態には言われたくない。
「冗談だよ」
少しも冗談にも思えない真面目な表情で栗原は言った。
「藍には話してもいいのか?」
「場合による」
「というと?」
「もしわたしと君が浮気をしているとかいう勘違いをされそうになった場合には言ってもいいよ。あくまで緊急避難的最終手段として。……でも、少なくともそういう火急の事態に及ばない限りは、できる限り口外しないでほしい。たとえそれが藍ちゃん相手であっても」
まあ、積極的に暴露したいと思える話でもないし、藍にとっても友達が変態だと知れることはそうそうプラス要素にもなりえないからそれはそれでいいだろう。そんな話を暴露したところで、僕には何のメリットもないことでもあるし。
「なるほど。話はわかったよ。お前の趣味嗜好も理解したし、ちゃんと僕の側の事情を考慮した配慮もしてくれていることも把握した。それで言うなら、お前の条件付き下僕? とやらになることもやぶさかではない」
僕にはその辺のことに対する執着もないことでもあるし。その、男の尊厳とかプライドとかを踏みにじられることに対する執着が。
こんなお願いをしてくるような変態系女子だとは露知らなかったが、少なくとも本来的な性格としては栗原は悪い奴ではないだろうし、何より助けられたという恩に報いなければいけないという気持ちには変わりはない。ドン引きしているとはいえ、別に何が何でも拒みたいと思うほどいやというわけでもない。まあ、実際下僕になるというのが具体的に想像できないという理由もあるが。
「ありがとね」
やわらかく微笑んでお礼を言う栗原はぱっと見癒し系美少女に見えなくもないのだが、お礼を述べた案件が条件付き下僕になったくれたこと、というのだから、素直に自分の受けた彼女に対する印象を肯定する気にもなれない。
「それで、下僕っていうのは今からなのか。それとも、日を改める感じですか?」
僕自身の気持ちとしては、下僕になってほしいと言われたその日にそれらしい所業に及ぶというのは心の準備期間的にあまり望ましくない展開だ。
「……今、この家に誰もいないのはなぜだと思う?」
母子家庭の二人暮らしということだったが、確かに母親の姿は見ていない。夏休みとはいえ、平日の昼過ぎなのだから、働きに出ていて当然だろうと思っていたのだが、それはそういう理由でもあるのか。
「……はいはい。今から何かしろというわけか」
「理解が早くて助かるよ」
言って、栗原は立ち上がる。
「とりあえず私の部屋に移動」
その後ろをついていく。
廊下に出て、扉をくぐって、栗原の部屋へ。
リビングと同じくらいの小部屋に入る。
机とベッド、それに本棚が一つあるだけで部屋のスペースの四割くらいが埋められている。そこに二人で入れば、それなりに手狭な印象を受ける。
「……言っておくけど、わたしは別に相田君のことが嫌いじゃないんだよ? 全然、嫌いじゃないし、藍ちゃんのために一生懸命動いていた姿にはどこか心惹かれるところがあったのは確かだし……。だから、別に、今からすることは決してわたしの君に対する気持ちの表れではないことは理解してください」
「はあ」
そんな前置きをされると、一体どんなひどいことをされるのかと気が気ではないのだが。
「ただ、その……相田君はわたしがこれまで見てきた男子の中でも、屈服させがいがあるというか、けっこう孤高、みたいな印象を受けるから、そんな人をわたしの支配下に置いたら萌えそうだとか、そんな感じを受けただけでね」
……。
いや、受けただけでねって。もはやそれは「だけ」だとか、どこにでも存在するありふれた思いのように表現されることではないと思うのだけど。
「……じゃあ、まず、わたしのことはるり様と呼んでくださ……呼びなさい」
いきなり始まった。
「いや、待て、栗原。もう少し、心の準備を」
「はあ? 栗原? 誰が呼び捨てでいいと言いましたか?」
あの……目が明らかにイっちゃってるんですが、黒瞳の黒色が深淵よりも黒いんですが。
「いや、だから……」
さらに言い連ねようとすると、足を払われた。バランスを崩して絨毯の上に無様に転がる。
そして、頭を足で踏まれた。
靴下を履いているということもなく、完全素足である。
「だから、誰が口答えしてもいいって言いました?」
こいつ、ノリノリじゃないか。
「ご、ごめんなさい。る、るり様」
これ以上、反駁しても無駄だと思ったので、素直に従う。
その様子に何を思ったのか、栗原、改め、るり様は口元をにぃと吊り上げ、
「ごめんなさい? あらあら。まるでそれじゃあ、わたしがあなたをいじめているみたいじゃないですか? あなたはわたしの下僕で、わたしはあなたのご主人様。謝罪なんて介在する関係じゃないの」
今まで抑圧されていた反動か知らないが、るり様の表情は満面の笑み。ご機嫌である。
「さあて、それじゃあまずはわたしの足を舐めるところから始めてもらえますか?」
「はあ?」
思わず、不満の声が漏れた。
瞬間、鋭い視線が飛んでくる。
と、すぐに表情をにっこりとお日様のような微笑みに変えて、
「うふふ。しょうがないですね。わたしのようなどこからどう見ても神々しく麗しい、超美少女の足を舐めるなんて、あなたのような下賤の輩には恐れ多いという気持ちはわかります。けれどね。このわたしがしてほしいって言ってるのよ? 下僕のあなたはあなたの心根なんて省みず、素直に舐めればいいの」
るり様は唖然とする僕の様子には頓着しないように、ベッドに腰を下ろして、すぐに舐めろと言わんばかりに、右足を差し出してくる。
「じょ、冗談だろう?」
「……」
るり様はもう何も言わない。ただ黙って、足を差し出している。
黙って舐めろと、そう言いたげだ。
…………。
軽はずみに下僕になるなどと言うんじゃなかったと後悔したが、もう遅い。
こちらを見るるり様の表情には一片のためらいもなく……って今ちょっと心配そうな顔したな。
本当に嫌ならやらなくてもいいよ、とその表情は言っている気がした。
はあ……。
あまり乗り気ではないのだがなあ。
感謝しているのは本当の本当だし。
お礼だから、仕方ないか。
僕は自分にそう言い訳をして、るり様の足下に跪いた。
途端、るり様の表情が期待に満ち溢れたものへと変わる。
唇を彼女の足の甲に近づけようとして、ちょっとためらい。
なんか、普段地面と接しているようなところの近くを舐めるのは抵抗あるな。衛生的に問題ありそう。
ということで、ふくらはぎにした。
ぺろりと。
「……ひゃうっ」
舌をふくらはぎに触れさせた途端、るり様の全身がびくりと跳ねた。
そして、ぞくぞくしたとでも言うように、全身をびくびくと震わせる。
動かないように手を添えて、ふくらはぎから膝下あたりにかけて舌を這わせる。
「……あうっ。あ、ああ、ひゃうんっ……」
るり様の表情はどこか恍惚としたものに変わっていて、こちらを見る目線もどこかとろんとしている。
構わず舌を這わせた。膝から太もも、その上へと。
「……んんぅ。……ひゃ、ひゃあ……だ、だめ!!」
それ以上、続けようとすると、るり様、ではなく、たぶん、栗原から静止の声がかかった。
言うだけでなく、両手で僕の頭を太ももから遠ざけた。
「ちょ、ちょっと……相田君、やりすぎ……」
自分の太ももをかき抱くようにして、ジト目で栗原が責めるような視線を送ってくる。
「いや、お前がやれって言ったんだろ……」
さすがに呆れる。やれって言っておいてなんで僕が悪いみたいな言い方をされないといけないのか。
「だ、だって……いきなり太ももなんて舐めるんだもん……。足って言ったでしょ」
「太ももも足だろ」
「太ももは脚。足は足。ふくらはぎだっておかしいんだからね」
「そんな細かいニュアンスが伝わるか! 大体、なんだよ、お前のさっきの態度は。偉そうなんてもんじゃないぞ。どこの女王様だよ」
「しょ、しょうがないでしょ。ああでもしないと相田君を下僕みたいに扱えないんだから……」
「もうちょっと、普通にやれよ」
「普通に下僕扱いなんてできるわけないでしょ」
たしかに、それはごもっともな意見だ。
「相田君さ。藍ちゃんてものがありながら、他の女の子の太ももなんて舐めて、罪悪感てものがないわけ?」
さらにとがめるような視線を向けてくる。
「だから、お前がやれって言ったんだろ」
「お願いされて素直にやるようじゃ、浮気してるって思われても仕方がないと思うんだよね」
「だとしても、お願いした本人に言われることじゃない」
「いいのかなあ。言っちゃうよ。藍ちゃんに」
栗原は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「なにを」
「相田君がわたしの家に入り込んで、無理やりわたしの太ももを舐めたって」
「完全な言いがかりじゃないか」
「さてさて、藍ちゃんはどっちを信用しますかね」
なんて奴だ。栗原るり。これがこいつの本性か。
「僕にどうしろと?」
「別に。とりあえず、今日はもういいけど。これからもわたしの下僕であってくれるなら、何も言わないでおいてあげるよ」
「……もともとそのつもりだよ」
「なら、何も問題ないよね」
笑いかけてくるその顔がなんとも憎らしい。
「とりあえず、これから一か月と少し、下僕としてよろしくね」
栗原は心底、楽しそうに言う。
僕は深く考えることなく、彼女のお願いを受け入れた事実を少しだけ後悔した。
だがまあ、実のところ、そんなに嫌じゃないのはたしかにそうなのだが。
どこか釈然としない思いがあるのもまたたしかなのだ。
僕はそのまま追い出されるようにして、栗原のアパートを後にした。




