栗原るりの秘めたる願望
夏休み初日。
だらだらと昼頃までベッドの中で多量の寝汗をかきながらぐーたらしていた僕は、一件の電話によって暑苦しくとも包容力のある布団からは抜け出さなければいけなかった。
たぶん、かけてきたのは藍だろうという予想の下に画面を見たところ、表示されていたのは全然違う名前で、僕は意外感に包まれた。
まさか、向こうから電話をかけてくるとは思わなかった。
あの様子だとてっきり僕の方から話を持ち出さない限り、お礼など受け入れるつもりはないように見えたのに。
「……はい、もしもし」
覚醒しない頭と覚醒していないよろけた声で通話を開始する。
「相田君?」
栗原るりの声は淀みなく清浄だった。
「おはようございます。栗原さん」
「……もう昼だけど」
「そういえばそうだった」
「大丈夫? 寝ぼけてる?」
「寝ぼけてるか寝ぼけていないかで言えば、寝ぼけてるね」
「また後でかけなおそうか」
「いいよめんどくさい。それで用事は?」
「……昨日は相田君の方から言ってきたのに、それってひどくない?」
「お礼のことか?」
「それ以外に今、わたしが君に連絡を取る理由はないよね」
栗原に多分にお世話になった代わりに、可能な限りのお返しをさせていただくという話。何をするかも不明確に、ただただ何かをしたいとだけ伝えていたその話。
「わからないぞ。突然顔を見たくなったとか、あるかもしれないじゃないか」
「君はわたしの何なのさ」
「顔見知り」
「……せめて友達にしておいてよ」
寂しそうな声で栗原はそう主張した。
一泊置き、切り替えるように栗原は声のトーンを上げる。
「夏休み初日だけど、今日は暇?」
「暇だよ。予定はない。何を求められても対応できる」
「ずいぶんな言い方だね」
「それぐらい、恩義を感じているということだよ」
「……そう。その言葉に一片の偽りもない?」
たしかにやや大げさな言い回しだったが、少なくとも自分にできる限りのことはさせてもらうつもりだ。
そう言うと、
「ふーん」
また、意味深な感嘆が栗原からは返ってきた。
「藍ちゃんはいいの?」
「早いうちに宿題をすべて片付けてしまいたいらしいから、今日は会う予定はないよ」
「そう」
さして興味もなさそうに、栗原は簡単な相槌だけを打った。
「じゃあ、今日の午後三時に駅に来てくれる?」
「駅って、どこの駅?」
「この間話した、わたしの家の最寄り駅」
斎藤と藍の脅迫デート、それを栗原とつけていたときに話題に上がっていたことを言っているのだろう。
栗原はその駅の名前を告げた。
「家の最寄り駅に待ち合わせるってことは栗原の家に行くってことか?」
「そうなるね。藍ちゃんがいる都合上、それはできない?」
「いや、それくらいは別にいいだろう。僕は藍以外の人間に興味なんてこれっぽちもない。お前の家に行ったところで何の間違いも起こらない」
「……そう言われるとわたしもけっこう傷つくんですけど」
「じゃあ、栗原に興味津々だ。一日の九割は栗原のことを考えている。会うたびに隙あらば襲おうと思っている、とか言えばいいのか」
「それはそれで恐ろしいだけだからやめて」
わがままな奴だ。
「とにかく、三時に駅だから、よろしくね」
そう言って電話は切れた。
午後二時四十六分。
駅に着く。
夏休みとは言っても周囲に人の姿はまばらだ。平日ということを考えればこんなものか。それとも、この駅があまり栄えている感じではないというのが理由か。
真夏の日差しが熱い。頭頂部がじりじりと炙られている感じがする。
本来なら、こんな気温がもっとも高くなるような時間帯に出歩きたくなかったのだが、恩人への恩返しの機会ともなればそうはいかない。返せる恩は早めに返しておくべきだ。でないと、いつか恩知らずにも恩を受けたことさえ忘れてしまうかもしれない。
栗原はまだ来ていない。
まあ、時間まで少し間がある。そのうち来るだろう。こちらがお礼をする側なのだから、待って当然なのだ。
その辺のベンチに座る。
最近の若者らしく、携帯でもいじっていようかと思ったが、別にいじるような用事もなかったのでやめた。
ぼうっとあたりを眺める。その辺を歩いている人の数は少ないが、この時間帯に外を出歩くような人だけあって、ずいぶんと活動的な顔つきをしている。勝手な印象だが、毎朝、ジョギングとかしてそうだ。
夏休みにも入ったことだし運動不足にならないよう、体動かさなきゃなー、となんとなく思っていると、小走りにこちらに向かってきている少女の姿が目に入った。
そういえば、こいつは何部なのだろう、とふと思った。
「相田君」
栗原は呼吸を落ち着けるように少し深呼吸をして僕の名を呼んだ。
「待った?」
「いや、今来たところ」
定型句だが、事実でもある。
「まるでデートみたいだね」
栗原が少しこちらを見上げるようにして言ってくる。
「デート、ねえ、デートなら僕ももう少しまともな格好をしてくるよ」
僕は今、部屋の中に適当に放ってあったTシャツに袖を通し、同じく適当に放ってあったカーゴパンツを履いているだけの姿だ。男のおしゃれなどよくわからないが、一秒も考えていないので少なくともまともではないだろう。
「……つれないねー。もう少しノリよく受け答えしてくれてもいいんじゃない?」
そう言う栗原は白シャツにショートデニムというかっこいい系女子っぽいファッションをしている。
「だから、僕は藍以外に興味がないんだよ」
何度も繰り返してそう言う。本音であり、大して考えるでもなく口をついて出る言葉。それでいいと思ってるし、それ以外はいらない。
「……はあ」
栗原は一つ、ため息をついた。
「じゃあ、こっち。ついてきて」
どこか煤けた背中を追いかけ、僕は歩き出す。
特に横に並ぶとかはしない。
五分ほど歩いて栗原がとあるアパートの前で足を止めた。
木造二階建てのやや古めなアパート。
外壁には『Sincere Thanks』と書いてある。意味は……たぶん、心からの感謝とか、そんな感じ。今の僕にはぴったりの言葉かもしれない。
「ここ?」
「ここ」
指さして確認する僕に、栗原が頷いた。
「もしかして、一人暮らしだったりするのか?」
外側から判断する限りにおいて、あまり部屋の中は広そうには見えない。外装も古めで、建ててからいくらか年月が経過していることがわかる。せいぜい、暮らせて一人か二人といったところじゃないだろうか。
「ううん。二人暮らしだよ。お母さんと」
淡々と栗原が答える。
「悪いことを訊いたか?」
「気にしなくていいよ。物心ついたときから、母子家庭だから」
そう言って栗原は小さく微笑んだ。
「さ、行こ」
さっさと歩いていく栗原の背を追いかける。
階段を上って二階に上がり、202号室と書かれている部屋の前で立ち止まる。
「入って入って」
鍵を開けて、栗原が中に入った。
「お邪魔します」
おざなりに告げて扉をくぐる。手狭な玄関には所狭しと靴が並んでいた。
「ごめんね。足の踏み場もなくて」
「いや、別に」
靴を無理やり脇に寄せて、栗原がスペースを作ってくれる。少し申し訳ない気はしたが、入らないわけにもいかないので、そこに靴を脱いで廊下に上がった。
リビングらしき一部屋に通される。室内は驚くほど狭い。リビングというか単なる小部屋だ。――いや、それはまあ、一軒家暮らしの感覚からすれば、ということだが。
絨毯の上に背の低いテーブルが置いてあって、それを囲むように座布団が二つ。小さなテレビが一つ。
一応、まだもう二部屋ほどあるみたいだが、それでもやはりこのアパートの狭さは際立つ。
言っちゃ悪いが、よっぽど生活が苦しいのか。
「お前の部屋はあるのか?」
あまりよろしい質問とは言えないかもしれなかったが、栗原の表情にそれほど悲壮感が滲んでいないのを読み取った僕は、あまり気を遣うこともなくそう訊いた。
「一応、あるよ。お母さんが思春期の女子には必要だろうって」
栗原は今入ってきた扉の方を指し示す。
「玄関から入って左の部屋が私の部屋。右の部屋が物置」
「物置?」
「物置というと語弊があるかもね。タンスとか、洋服掛けとかそんなものが置いてあるよ」
「お前も、いろいろ大変なんだな」
「まあね。もう慣れたけど」
栗原が一応、付属のキッチンからお茶を二杯入れて持ってくる。
礼を言って唇を湿らせる程度に軽く口をつけた。真夏の日中に外を歩いたので汗をかきはしたが、喉がからからというほど渇いているわけでもない。
「それで、お礼の件だけど……」
向こうから呼ばれてやってきたとはいえ、本来こちらから話を振るのが筋だろうと思って口を開く。
「僕は一体、何をすればいいんだ?」
「……」
栗原は黙っている。少しだけ考える仕草をして、僕の目を見た。
意図が読めない行為だが、特に何も考えずに目を合わせる。彼女の瞳にはどんな色も浮かんでいないように感じた。
「ええとね。わたしが今からお願いすることはとても常識外のことで、お礼として要求するとしても、普通の人間ならまったく受け入れるそぶりさえ見せてくれないことだと思うんだけど。相田君はそれでもいい?」
要領を得ないひどく曖昧なことを言っている。
「それでもいいも何もそれが何かわからない以上、イエスともノーとも答えられないだろ」
「うん……。それはその通りだよね」
栗原はテーブルの上のお茶を手に取って、ずずずと一口すすった。
「言いにくいことなのか?」
「言いにくいというか、言いたくないというか、そもそもお願いしたくない、というか」
「なんだそれは」
「……だから、ほんとうは何も要求するつもりなんてなかったんだけど」
「だけど?」
「ちょっと、思うところがありまして……」
そこでまたぼやかすのか。
「……一体、何を要求するつもりなのかは知らないが、無理なら無理で僕は断るぞ。藍と別れて自分と付き合えとかって言われたところで無理なものは無理だからな」
機先を制するわけでもないが、至極ありえない仮定としてそんな風に釘を刺すふりをしておく。
即座に否定の声が返ってくるものだと思っていた。
しかし、
「……あ、あはは」
栗原から返ってきたのはそんな曖昧な笑い声だった。
「……まじで?」
思わず自然に口にした。
まるっきり冗談で言った言葉だったのだが、まさか本当に事実を射抜いていたとでもいうのか。
「い、いや、違うよ。べ、べつに、わたしが相田君のこと好きになったとか、そういうことじゃないんだよ」
焦ったように否定する栗原の態度。そこに照れたような色合いはなく、純粋な焦りの気配だけがある。表情は色恋に関するそれというよりかはやはりどこか困ったようなもの。
どうやら、そういうことでもないらしい。
「なら、なんなんだ?」
結局、直接言葉に出して言ってもらうしか、正答を得る手段はない。
「うー……」
半ばうなるようにして渋っていた栗原だが、やがて観念したようにため息をついて、そしてどこか投げやりに前置きする。
「たぶん、相田君は引かないだろうけど。先に言っておくと、ドン引きするような内容だと思うよ」
「だから、それはなんだよ」
「はあ……」
再びのため息。
というか、そこまで言い渋るような類のものなら、そもそもお礼として求めなければいいだけの話ではないのか。それとも、そのためらいを乗り越えてでも何かを求めたいという強い願望が栗原にはあるのだろうか。
栗原はすー、と大きく息を吸って、それからふー、と大きく息を吐き、それを三回繰り返したのちにようやく、それを口にした。
「相田君」
「はい」
「わたしの下僕になってくれない?」
「はい?」
ひどく真面目な表情で、ひどく狂ったようなことを言う栗原るり。
一拍置いて僕は純粋に思った。
こいつは頭がおかしいのだろうか。




