反動
「えへへー」
耳元でそんな声がする。
体の片側にはあたたかな体温がふれあっているし、片腕はささやかなふくらみと彼女の両腕によってかき抱かれている。
ほんのりと甘い匂いが香った。
「うー、しあわせー」
いつもはやや低め、トーンも低く、抑揚も少ない彼女の声が今は誰の耳にも明らかなように弾んでいる。聞いているだけでこちらまでつい微笑んでしまいそうになる、そんな声。
本来ならたぶん、彼女はこんな風に思ったことをすぐ口には出さない。
口元を軽く緩めるくらいのことが多いはずで、恥ずかしがる姿はよく目にしたが、それでもやはり、ここまで素の状態を目にするのは初めてだ。
心も体も絆されて、癒されて、頭の先から足の先まで溶けていってしまいそうだ。
彼女が言うように、幸せな時間である。
彼女にとっても幸せな時間であり、僕にとってもそのはずだ。
僕と彼女はもう、深い仲。お互いの気持ちを包み隠す必要性は何もなく、その仲を深めることを邪魔するものはなにもない。
結ばれた仲。
僕もこの幸せに身を委ね、我を忘れて、彼女との時間に熱中すればいいのかもしれない。
事実、世にいる恋人たちは、それぞれのルールで、それぞれのやり方で、それぞれの時間を過ごしていることだろう。けっこうなことだと思うし、僕もそれに憧れを抱いていた。そんな風にイチャつくのもまた、青春の醍醐味、恋愛関係の醍醐味、男女関係の醍醐味だと。
けれど――
「――学校の休み時間にやらなくてもよくないですか!?」
そう。
時と場所を、TPOをわきまえるのなら、恋人たちの逢瀬、イチャつき、痴話げんか、何をしようとかまわない。公衆の面前でそれらを行うのはともかく、見えないところで何をやろうがだれも文句を言いはしない。
けれど。
ここは学校。ここは教室。今は休み時間。
夏休み前最後の登校日。七月二十七日。終業式といくつかの連絡事項が存在しているだけの気楽な日。
気が緩んでも仕方のない日だ。ほかのクラスメイトを見ても、みなどこかしら表情にゆとりがあった。
けれどだ。
「……そろそろ離れませんか? 藍さん?」
「いやー。ぜったいはなさないー」
藍は人目をはばからず僕に抱き着いている。まるで大好きなぬいぐるみを手に入れた幼女のような有り様だ。
ここが学校の教室などではなく、もっと閉ざされた場所ならば、僕もきっと気持ちを持っていかれていたに違いない。僕の腕にすがりつく彼女に夢中になって、冷静さを失っていたかもしれない。
しかし、今は視線が痛い。
さきほどからちらちらと、こちらを見ないようにしつつもどうしても気になるというように一定間隔で送られてくる山ほどの視線が僕の心を蝕んでいく。
孤独耐性は高いはずの僕だが、さすがにこれには少々、動揺せざるをえない。場所が場所だけに。場合が場合だけに。状況が状況なだけに。
栗原は半ば呆れたような半目でこちらを呆然と見ていた。口元が小さく動いている。「ば、か、か」斎藤はやや複雑そうな面構えながら、むかつくニヤケ顔を顔に貼りつけていた。
痛い。痛いよ。この視線。なんでだろう。どうしてだろう。なぜこうなったのだろう。
理由は単純だ。
いろいろあったせいだ。それはもういろいろ。
ほとんどの元凶は今こちらを心の底からむかつく顔で眺めている斎藤のせいであるし、一部、僕が原因でもあるが、藍には多大な負荷をかけてしまった。その心にけっこうなストレスをかけてしまった。そして、そのストレスは先週の金曜日、僕が彼女に告白したことである程度は発散されたはずだ。いや、少なくとも僕はそう思っていた。けれど、藍からしてみればそのストレスの反動というのは思ったより大きかったらしく、土日を挟んで学校に来てみればこんな有り様である。
顔を見るなり抱き着かれて朝は鐘がなるまでずっとひっつかれていたし、休み時間になると寄ってきて当然のように抱き着かれた。
終始戸惑い続けていた僕も、彼女の屈託のない笑顔を見ると、拒むこともできず、こうして抱かれている。
身体的損傷、要するに、僕が藍の顔を傷つけてしまったあの跡はすでに綺麗さっぱり消えている。土日を挟んで完治したらしい。あまり痛々しい姿を見せたくない、僕に罪悪感を持ってほしくないという藍の気持ちを汲んで、土日は会わなかったが、それが余計に彼女の気持ちを暴走させている気がする。
「藍さん、せめて学校終わるまで待てない? あと、ホームルームで終わりだよ?」
「いーや。いま、こうしたいの。それに、藍って呼んでくれなきゃいやー」
もはや彼女はとてもわがままなこどもみたいな状態である。
藍の発言に伴い、クラスの数か所で舌打ちが聞こえた。
ああ、正直、無理もない。僕も同じ立場ならそうしたかもしれない。
夏休み前に見せつけるように教室でイチャつくカップルなど、迷惑以外の何物でもない。はっきり言って目の毒だろう。僕だって見たくない。まさか自分がこちら側になるとは思ってもみなかったが。
特に問題なのは僕の座席の場所だ。
教室のほぼど真ん中。いやでも目に付く。
まだ廊下側か窓側の端っこならやりようもあったさ。外見てたり、廊下見てたりしてればいいのだから。しかし、ここではどうにもできない。いやでも目立つし、いやでも目立っていることを認識しなければいけない。
キンコーンカンコーン。
……やっとチャイムが鳴った。
ここまでチャイムの音に安らぎを感じたのは生まれて初めてだ。
しかし、僕の腕のぬくもりは消えない。どころか、さらに増した。藍が僕の膝の上に乗る。
「……藍さん? 何をしているの?」
「……ここで一緒にほーむるーむうけるー」
「いや、どう考えてもだめだよね!? 夏休み前に二人そろって生徒指導受けることになるよね!?」
「……じょうだんだよー」
幸い、藍はあっさりと引いてくれた。自分の席に戻っていく。
「はあ……」
とても重い溜息が自然と出た。彼女の変化に動揺が隠せない。
すると、急に頬に何かやわらかな感触が触れた。
驚いて振り返ると、自分の席の方に戻ったはずの藍が、にっこりと微笑んで、「一緒に帰ろうね」とささやいた。
彼女にキスされたのだと遅ればせながら気づく。
教室内に盛大な舌打ちと怨嗟の声が巻き起こった。
……居心地が悪いにもほどがある。
藍は涼しい顔で自分の席に戻っていった。
目が合うと、こちらに手を振ってくる。
かわいい。だが、そうじゃない。
薄々わかっていたことだが、どうやら彼女に常識など通用しないらしい。
……頭が痛くなってきた。
担任の教師が教室に入ってきたが、クラスの異様な雰囲気に一瞬ぎくりと動きを止めた。
すみませんね。迷惑をかけまして。
明日から夏休みでよかったと、心から思った。
放課後、僕はようやく夏休みが始まったという感慨に包まれながら、席を立った。
この一週間、とても長かった気がする。いろいろあったとしみじみ思う。傷つけたし、傷つけられたし、殴ったし、殴られた。やってしまったことがあるし、やっておけばよかったと思うこともあった。でも、どうにかできた。どうにかなってほんとうによかったと思う。
「一緒に帰ろう。涼」
何より、この曇りの欠片もない笑顔を見ればこそ、僕のそんな感慨などどこかに消え去って、ただ喜びだけが胸を満たすというものだ。
「わかったけど、藍。ちょっと待って」
この件に関して、僕はまだ一つ、やり残したことがあるだろう。
藍が不思議そうに見上げてくる。腕に抱き着く彼女を伴って、栗原の席に向かう。
「栗原」
栗原るりにかけた迷惑と、彼女にもらった恩のお返しを、僕はまだ全くしていない。
「なに、相田君」
「メールでもSNSでもいいから、何か連絡先を教えてくれ」
「……それはどうして?」
心なしか、栗原の表情は硬い。声音もどこか浮ついている。
「いや、この前言っただろ。恩返しがしたいと。これから夏休みに入るから、連絡先を知らないと、何もできないじゃないか」
栗原は僕の腕をぎゅっと抱きしめている藍を見て、小さく笑った。
「そんなの気にしなくていいよ。藍ちゃんと相田君の仲が元通りになったのなら、わたしはそれでいいから。今は、君は藍ちゃんとどう時間を過ごすかを考えなよ」
「……るりちゃん」
感銘を受けたように藍がつぶやいた。その瞳は潤んでいる。それから言った。
「わたしもるりちゃんにお返しがしたい。涼から聞いたけど、るりちゃんはわたしのためにもいろいろ気を遣ってくれたんだよね?だから、わたしはるりちゃんに恩返しがしたい。……させてほしい、です」
「……そう言われても、わたしは特にしてほしいことがあるわけでもないし」
「じゃあ、作ってください。わたしはどうしてもるりちゃんに恩返しがしたいんです」
「……わたしの意思に関係なく?」
「るりちゃんの意思に関係なく」
栗原は思わず、といったように笑みをこぼした。
「藍ちゃんもわがまま言うようになったんだね。いいよいいよ。その方がかわいい。でも、わがままは相田君だけに言ってくれると助かるんだけどなあ」
「だめです」
「そっかあ。だめかあ」
なんだかやけにはぐらかすようなことばかり言っている印象があるが、栗原はどうかしたのだろうか。
どこか具合でも悪いのか。
「……しょうがないなあ。……はいこれ」
嘆息とともにそう言って、栗原は無造作に紙切れを手渡してきた。
開くと、メールアドレスが書いてある。
「……藍ちゃんと相田君も教えて」
僕と藍もそれぞれのメールアドレスを教える。
「何か要望があればメールするよ。なければ適当にごはんでもおごってください」
栗原はそれで話は終わりだと言わんばかりにひらひらと手を振った。
彼女にしてはぞんざいな態度だが、まあ、栗原もいつもどこでも誰かにやさしいというわけでもないだろうし、それを求めるのもおかしな話だ。やはり今はどこか調子でも悪いのかもしれない。
それ以上時間を取るのも悪いと思ったので、僕と藍はその場を後にする。
「じゃあね。るりちゃん」
「じゃあ、栗原。また」
「はいはい、じゃあね。藍ちゃん。……相田君」
僕への呼びかけはやや鋭い目つきとともに送られた。やけに敵対的というか、意味深長な目線だ。
……僕はあいつに何かをしただろうか。
心当たりは何もない。迷惑はかけたかもしれないが、それについてのことという感じもしない。
前にお願いを聞くと言ったときにも変な流し目を受けたが、今回の態度もよくわからない。
恩義のある栗原のことである。それなりに気になるところでもあった。
しかし、腕に伝わるあたたかな体温がその疑念を形にさせない。
藍の腕にやさしく抱かれて、僕は結局、そんな疑問を心の隅に追いやった。
当然のように、僕は九々葉家に招かれた。
これで来るのは三度目だが、三度が三度とも、まったく違う気分で訪れた。
最初はただ嬉しいだけだったし、二回目は緊張しっぱなしで、三回目はどこかふわふわした心持だ。
藍とそういう関係に至ってから初めてという事情もある。何があるわけでもないが、やはり気持ちは落ち着かない気分だ。緊張とは違うが、浮かれているのとも違う。
すごく、どきどきする。
藍が鍵を開けて「ただいま」を言う。僕がそれに連れ立って「おじゃまします」を言う。
そして、二階から降りてきた楓さんが「おかえり、またはいらっしゃいませ」と言った。
「いたんですか」
「いたんですか、とはご挨拶ね。相田君は藍と完全に二人っきりにでもなりたかった? ざ~んねん、そうはさせません。どうせ今日あたり来るだろうと思ったのよ。藍の怪我も治ったしね」
楓さんはあっかんべーと、舌を出して、そう口にする。
「お姉ちゃん、もうすぐテストじゃなかったの?」
「あらー、藍ちゃんまでそんなこと言ってー。二人してあたしを除け者にしたいのね……」
よよよと、楓さんが泣き崩れるふりをする。
「……そういうことじゃなくって。テスト勉強とかしなくてもいいのかなって」
「いいのよ、別に。テストなんて二日前に勉強すればなんとでもなるから。高校以下は一日前でもなんとかなるし。藍も知ってるでしょう。あたしは天才だから」
彼女は大きなその胸を張る。相変わらず、肩の大きく開いたニットにショートデニムという露出度の高い格好をしている。家の中だからそんなものなのかもしれないが、体勢によっては多少、目のやり場に困る。
「人災の間違いでしょう?」
「何か言った相田君」
「いえ、何も」
憎まれ口を叩きたくなるのは二人きりを邪魔されたからか、彼女の格好に対する照れ隠しか、あるいはその両方かもしれない。
「ま、ゆっくりしていきなよ。じゃまはせんよ。藍も久しぶりにいい顔してるしね。……ただまあ、一線を越える気配を感じたら、隣の部屋からすっ飛んでくるつもりだから、その点よろしくね」
どこか凄みを感じさせる微笑でそう言って、楓さんは階上に引っ込んでいった。
「じゃ、上がって。涼」
「お邪魔します」
もう一度そう言って、僕は九々葉家の中に入った。




