ジュンアイ
七月二十一日金曜日。今日を含めて夏休みまであと四日。土日を除けば、あと二日。
今の、今日の僕のやるべきこととは、ただ、藍さんに向かうことだけである。彼女に真摯に向き合い、僕が彼女に暴力を振るってしまったこと、僕が彼女の過去を知ったことを謝り、そして、斎藤が改心したことを伝える。
決して、難しいことではない。
しかし、僕自身、ここ数日、藍さんにはまともに会っていない。まともに話もしていない。うまく話せるかどうかは不安である。
自分が殴った気まずさもある。ためらいも、藍さんを慮る気持ちも、自己嫌悪も、自己保身もある。
けれど、ここで動かねば僕は男ではない。ここで動かなければ、僕はその辺の路傍の花よりも下等な存在になり果てる。そうはなりたくはない。自分はまだ自分らしくありたい。
自分らしくあった僕で、藍さんと仲良く日々を送っていきたい。
教室に入ると、自分の席に座って周囲を窺っていた斎藤が、こちらに近寄ってきた。
「お、おはよう」
「おはよう」
斎藤努と挨拶を交わす。数日前までは想像さえできなかった光景だ。
「今日、九々葉に謝りに行くよ」
斎藤は覚悟を決めた表情でそう言った。
「そうか。なら僕も行く。お前一人で藍さんに会わせるのは彼女の心情的にも問題があるかもしれないし」
自分を脅迫し、意思を無視してデートに連れ出したあげく、無理やり抱きしめてキスしようとした相手が突然家に来たら、誰だって驚くし、怖がる。藍さんに無用の不安を与えるわけにはいかない。
「……それはわかってる。わかってるんだが、一人で行かせてくれねーか」
パン、と音を立てて手を合わせ、斎藤は深々と頭を下げた。
「……理由は?」
「甘えたくない。俺が俺自身で、ののしられるならののしられるで、一人で受け止めなければいけないことだから」
気持ちは理解できないでもない。自分の罪は自分だけで背負いたいという覚悟だろう。斎藤が深く反省しているというのは十分に伝わってくる。
しかし。
「そういうことじゃないんだよ」
殊勝になるのもけっこうなことだが、こいつは藍さんの気持ちを考えていない。謝罪の意思があるのなら、まず相手の気持ちを考えるべきだ。
「一人で会ってどうする?藍さんに頭を下げて、許しを乞うて、それでどうする?
ののしられる、とお前は言ったな。なぜそれが前提になってる? なぜ藍さんがそんなことをすると考える? お前がどう思ってるかは知らないが、藍さんは簡単に相手をののしるなんてしない人だ。今回のことで彼女の心にどれだけの負荷を与えてしまったのか、僕は知らない。けれど、それで彼女がためらいもなくお前をののしるなんて光景は想像できない。
お前だってそうじゃないのか?
お前はただひとりで藍さんに会うことで彼女から拒絶され、彼女からひどい言葉をかけられることで、自分を罰しようとしているだけだろう。そうされることで、自身の罪悪感から逃れようとしているだけだろう。
甘えたくない、と言ったな。それは違う。甘えたくないというその考えこそが甘えだ。本当に甘えたくないのなら、早々に楽になろうとすんじゃねえ。自分の罪を受け止めろ」
斎藤は面食らったように目を見開き、その後神妙に僕の話に耳を傾けていたが、やがて一言、「わりい」と漏らした。
「逸りすぎてたみたいだ。お前の言う通りだよ。あいつから罵倒されれば少しは気が楽になるかも、なんて思っちまってた。俺はダメだな。どうしても楽に流れちまう」
「別にいいがな。僕はお前が楽になろうとしたら、逃げ道を塞いで徹底的に痛めつけてやるから。どっちにしろ変わらん」
「……ほんとうに容赦ねえのな」
「お前に容赦する必要性が皆無だからな」
だがまあ、一応、斎藤がきちんと謝る意思を持っていたこと自体はたしかだろう。ポーズではなく、自分の考えで行動しようとした。そこは評価したい。
「……じゃあ、こういうのはどうだ。二人で藍さんの家には行く。しかし、藍さんと会うのは一人ずつだ。お前が話してる間は、僕はばれないように電柱にでも隠れておく。で、お前の用件が済んだら、僕に交代だ」
藍さんの気持ち的には、きっと負担をかけてしまうに違いない提案だ。結局、斎藤と一対一にさせてしまうのだから。ほんとうはこれ以上彼女に負担をかけたくない。これまでのことでも十分彼女の心に大きなプレッシャーを与えてしまっているだろう。その重しを増すようで、あまり気は進まない。
けれど、斎藤と藍さんには少なからず因縁がある。遺恨がある。込み入った事情がある。きちんと話をしなければ、その関係に決着をつけられないだろう。
「……ありがとう、相田。俺はお前への恩を忘れない」
斎藤は再び、深く頭を垂れた。
ああ、僕はお前への復讐心を忘れない。お前が僕の友人である限りな。
放課後、斎藤と連れ立って、九々葉家に向かう。
事前に楓さんに電話して、藍さんが自宅にいるかどうか確認した。
答えはイエス。部屋からほとんど出てこないそうだ。両親も呆れているとか。
……胸がすごく痛いが、それで目を逸らすわけにもいかない。ここで逃げるのは男じゃない。
家の門前に着く。
「じゃあ、僕はその辺に隠れてるから……」
「あ、ああ」
斎藤にそう告げて、僕は曲がり角の陰に隠れた。
斎藤は一人立ち尽くし、深呼吸。すー、はー、すー、はー。五メートルくらい離れたこちらまで聞こえてくる音量だ。
やがて、インターホンが押された。
すぐには誰も出てこない。家の中でばたばたと人の動く気配があり、扉が開かれる。
出てきたのは、妙齢の女性。藍さんのお母さんだろうか。
斎藤が何事か告げて、頭をぺこぺこ下げている。
そして、藍さんママに連れられて中に入っていった。
ニ十分後。
斎藤が藍さんママに送り出され、九々葉家から出てくる。電柱の陰で、藍さんと話したときのシュミレーションをしていた僕は、斎藤の顔を見て察した。
ああ、こいつ、ちゃんと謝れたんだな、と。
奴の目はどこか吹っ切れたように澄んでいたし、顔の表情も緊張が解けたからか、大分緩んでいた。
「許してもらえたか?」
「ああ、済んだことだから、もういいって。九々葉からも謝られた。あのとき、傷つけてしまってほんとうにごめんなさい、って。……よかった。俺、よかったよ」
涙ぐんでいる斎藤を見ていると、こちらまでうれしくなってくる。僕もがんばったかいがあるというものだ。
しかし、藍さんは寛容にもほどがあるな。許すにしてもニ十分以内とか、どんな聖人だよ。
「……ありがとうな、相田。お前のおかげで、俺の長年の悩みが吹っ飛んだ。心から感謝する」
「どういたしまして。まったく、さわやかな顔しやがって。いつもその顔してりゃ、すぐに彼女の一人や二人できるさ」
「……いや、二人はできちゃまずいだろ」
的確に突っ込む冷静さは保っているようだった。
「じゃあ、今度は相田の番だな。俺は帰るよ。お邪魔虫は早々に退散させてもらう。がんばってくれ、相田」
そう言い残して、斎藤は九々葉家から去っていった。
電柱の陰から僕が出ようとすると、ちょうど九々葉家の門が開いた。びっくりして固まると、出てきたのは藍さんママであり、彼女は駐車場に停車してあった車に乗って、僕とは別方向に走り去っていった。
……え、もしかして、今藍さん一人なのだろうか。
なんとなく、藍さんママに取り次いでもらった方が気が楽だったのだが。
まあ、欲を言っても仕方ない。
僕は斎藤のように深呼吸をした。すーー、はーー、すーー、はーー。
よし。
ガチャ。
……え。
扉の開く音がした。
僕がインターホンを押すまでもなく、中から扉が開かれて、ちょうど藍さんが出てくるところだった。
そして、玄関から半分体を出した藍さんと、ばっちりと目が合う。
藍さんの左頬には大きめのガーゼが貼られていた。見るだけで痛々しい。ずきりと、胸が痛む。
場が固まった。
「……」
「……」
突然のことに、目を合わせたまま、僕は何も言えずにいた。
藍さんの怪我が痛々しくて、軽はずみに口を開けない。
藍さんも僕を見て驚いた顔をして、扉を半開きにした状態で、動きが止まってしまっている。
数十秒もそうしていたろうか。
きんこーんかんこーん。
どこか近くの小学校から聞こえてきた鐘の音に、僕と藍さんは同時に再起動する。
「え、ええと」
「あ、あのっ」
二人の声が重なった。
そして、それっきりでまた黙ってしまう。
だ、だめだ。緊張してまともにしゃべれる気がしない。普段ならこんなの容易いことなのに、藍さんの頬に貼られたガーゼと先日の件、そして、彼女に今からしようとしていることのすべてに苛まれてどう行動すればいいかがわからない。
僕の頭が真っ白になった、その時。
「おーい。相田ー。俺を殴ったときの勢いはどうしたー? お前の九々葉への愛はそんなもんかよー! 男ならー、根性見せろよー!」
帰っていったはずの斎藤が五十メートルほど向こうから、口に両手を当てて叫んでいる。
驚いた藍さんの目がそちらに向く。
……はあ、まったくその通り。あんな奴に言われるなんて、僕もまだまだだ。
「ああ、そうだな」
僕はつぶやき、そして、言った。
「藍さん、君に謝りたい。だから、中に入れてくれないか?」
斎藤から目を戻した藍さんが僕の声に反応してこちらを見る。
その目を一心に受け止めて、僕は視線を送り返した。
藍さんは一つ、頷いた。
「どうぞ」
僕は九々葉家に足を踏み入れた。
実質的には二度目だが、感覚的には初めて入るみたいなものだ。
藍さんの部屋に上がらせてもらう。
相変わらず、ぬいぐるみが所狭しとおかれている。
藍さんはそのうちのピンクの豚のぬいぐるみを手に取って抱きしめた。
僕と藍さんは小さなテーブルを介して向かい合い、座布団に腰を下ろしている。
まず、僕は半歩後ろに下がり、額を絨毯にこすりつけた。
「本っ当に! すみませんでした!」
見えないが、戸惑う藍さんの様子が雰囲気で伝わってくる。
「そ、そんな……。そこまで謝らなくても……」
「いや、女の子の肌に傷をつけた。それも顔だ。僕は本当にやってはいけないことをした。謝っても謝り切れないくらいのことだ。本当にごめん。藍さん。ごめんなさい。言い訳のしようもないよ」
藍さんが僕の肩に手をかけ、僕の顔を上げさせる。
透明な瞳の色をした藍さんと、至近で目が合う。頬のガーゼなんて視界に入らなくなるくらい、その瞳は澄んでいた。
「……わたしは……ただ……したいことをしただけ。……これはわたしがしたくてしたことの代償、だから。涼君が気にすることじゃない。……わたしは涼君にそんなこと、気にしてほしくない。
あの時、涼君が日比原君に殴りかかっていったとき、わたしは少しうれしかったの。わたしのことで、涼君があそこまで本気で怒ってくれるんだって知って、うれしかった。……でも、でもね。同時に少し怖かったの。日比原君に向き合えば向き合うほど、涼君が涼君じゃなくなってしまいそうで、わたしの知る涼君じゃなくなってしまいそうで、怖かった。だから、わたしはああしたの。日比原君のためじゃなくて、涼君のために。殴られるのは、とても怖かったけど、でも、あなたのためなら、わたしは命も惜しくない、から」
「藍さん……」
正直に言って、彼女にそう言ってもらえるほどの価値を、僕は有していない。自分の価値はそれなりに知っているつもりだし、命を懸けてもらえるほどの何かを僕は持っていない。
けれど、そんな風に言われてしまえば、僕はもうそれ以上、謝るわけにはいかなかった。
藍さんの本気の誠意に大して、僕の本気の謝罪はあまりにも薄っぺらい。
これ以上、述べられる言葉など見つかっりこない。
けれど、僕にはまだ言わなければいけない、彼女に伝えなければいけないことがあった。
藍さんの目を見て、視線を合わせて、息を吸う。
言葉を紡いだ。
「僕はまだ、藍さんに謝らなければいけないことがあるんだ」
「……謝らなければいけないこと?」
「……うん」
藍さんは小首を傾げて、見ている。
僕を見ている。
僕は口を開いた。
「君の過去を知った」
「っ!」
瞬間、藍さんの瞳に動揺が奔る。瞳はこれ以上ないくらい見開かれた。
僕はそんな彼女の視線をまっすぐに受け止めながら、ゆっくりと語る。
「君が小学校のとき、百日ダリアという女の子と親友だったこと。その子と藍さんはとても懇意にしていて、でも、ある時仲たがいしたこと。それは、小学生のころの斎藤が君に告白したからで、斎藤がクラスで晒し者にされたこと。それを藍さんがとても悔やんでいること。……全部、知った」
僕が言葉を発するたび、彼女の瞳が恐怖に染まっていく。怯えに染まっていく。
「……なん、で……」
それだけの言葉が彼女の口から零れ落ちた。
「七月二十一日の朝、君が斎藤に何かをささやかれて態度が急変したのを見た。僕は君が脅迫されたんじゃないかと思った。そして、栗原に君と同じ小学校の子を探してもらって、栗原がその子から聞いた話を教えてもらった。君に暴力を振るってしまったことで楓さんに殴られて、その後小学生時代のことを教えてもらった」
淡々と、僕は語っていく。
藍さんの表情が変化していく。恐怖、怯え、そして、絶望へと。
「……あ、ああ……」
言葉にならない嘆きの声が空気を震わせる。
「藍さん」
「……わたし……わたしは……」
「藍さん」
「……ち、ちがう。わたしはただ……」
「藍さん」
「……そんなつもりじゃ……」
「藍さん」
「……涼君に……嫌われるっ……」
「藍さん」
「……き、嫌われっ……」
「藍さん、好きだよ」
僕は藍さんの唇を奪った。
限界まで見開かれていたはずの彼女の瞳が、再び、驚愕に震える。
唇を離した。
「藍さん、まだ怖い?」
「……あ、う……え?」
何が起こったかわからないというように、藍さんの目が泳ぐ。
僕はキスをした。
「っ!!!」
声にもならない声を発し、藍さんの全身が硬直する。
「藍さん、どう? まだ不安?」
「……そ、その、あの、涼君……こ、これ」
僕はキスをした。
「……っ!!」
彼女の体を抱きしめると、未だ震えが伝わってくる。
「藍さん、今どんな気持ち?」
「……あぅう。……あの、ええと」
僕はキスをした。
「……あ……」
藍さんは僕に身を任せるように、力を抜いた。
「藍さん、まだ不安ですか?」
「……う、ううん……も、もうだいじょ……んんっ!!」
もはやそれ以上を聞くまでもなく、僕は彼女と唇を合わせる。
「……だ、だめっ……」
さすがにやりすぎたか、藍さんが小さく僕の胸を押して僕の体を遠ざけるようにする。
「藍さ……」
「わ、わかったからっ……だ、だいじょうぶだから……だからその……もう、キスしなくていい、です……」
よかった。僕の気持ちは理解してもらえたみたいだ。
「それで、藍さん。僕の話はわかった?」
「う、うん。わたしの小学校のころの話、聞いたんだよね。わかったよ。でも、本当に……」
僕はキスを……。
「だ、だいじょうぶ!! だいじょうぶだから!! もう、涼君を疑ったりしないから……あ、だめっ」
僕はキスをした。
「……も、もう」
至近で僕の目を見つめた藍さんは頬を膨らませた。
「だいじょうぶだって言ってるのに……」
「藍さんが僕の気持ちを疑う限り、何度でもするつもりだよ」
「……わ、わかったよ。……その……わたしのことが……」
「好きだよ」
「っ! ……う、うん。その、ありがとう」
「……それで?」
好きだよと言ってありがとうと返ってくる。それは僕の告白に対する答えではないだろう。
「……い、言わなきゃダメですか?」
「うん」
「……わたしも……その……です」
「声が小さくて聞こえないよ」
「……ぅう」
藍さんは逃げるように僕から視線を逸らす。首元まで真っ赤だ。瞳には涙が滲んでいるし。
「藍さんは、面と向かって告白をされて返事をしないような、不誠実な女の子ですか?」
僕がそう言うと、藍さんはどうにか目線をこちらに向けて、でも、僕と目が合うとまた逸らす。
「……ひ、ひきょうだよ、こんなの」
絞り出すように藍さんが口にする。
「……そうだよ。僕は悪い男だから、卑怯なことも平気でするんだよ」
「……ぅうう」
藍さんの耳元に唇を寄せる。
「さあ、藍さん。返事は?」
僕の言葉に全身をびくりと震わせた藍さんは、ぎぎぎと機械仕掛けの人形のように、顔を動かして、僕と目を合わせる。
「わ、わたしもっ! 涼君のことが……好きでっ……ひゃっ」
僕はキスをした。
唇を離すと、少し呆れたような顔をして藍さんが僕を見ていた。
「……ずいぶん慣れているみたいだけど……こういうこと、誰にでもするの?」
「まさか。藍さんだけに……藍だけに……だよ」
「……も、もう」
もはや藍の顔は真っ赤すぎて、染まってないところを探すのが難しいぐらいだ。
そんな彼女を僕は、とてもかわいいと思う。
さて、何事にもけじめというのは必要で、きちんと言葉にしておかないといけないことというのは存在する。
「改めて言わせてもらうよ。藍、君が好きです。僕と恋人になってもらえませんか?」
抱き合って、至近距離で、顔を突き合わせ、藍の目を見て、大事に大事に一つ一つ、言葉を紡ぐ。
「はい。もちろんよろこんで。涼、わたしもあなたが大好きですっ!」
藍は僕にキスをした。
「……お返し」
彼女はささやいた。
純愛(純藍)
連続投稿終わりっ!
『ヒアイ』の投稿日までの一週間ぐらいずぅっと、朝から晩までこの一連の話のことを考えていました。寝てるときもアイディアを考えていたので、夜中に起き出してはメモとったりしてました。空いた時間は書くか小説を読むか、そのどちらかしかやらなくて準缶詰みたいなことをしてみてとても楽しかったです。
小説家になるためのレベリングのつもりでずっと書いていますが、少しはレベル上がったかなと思えました。もしここまで読んでくれた方がいれば、感謝を捧げます。ありがとうございました。
次は三日後くらいです。シリアスをやりすぎてとても疲れました。しばらくは適当に日常を流していく、かもしれないです。




