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あいだけに  作者: huyukyu
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キリョウ

 七月二十日、木曜日。夏休みが始まるまで、今日を含めてあと五日。土日を除けば、あと三日。

 僕は自転車を漕ぎ漕ぎして学校の校門に入った。

 目の前に多数の生徒たちが歩いている。みんな足取りは軽い。夏休みが近いからだろう。気持ちが浮き立つ気持ちもわかる。けれど、今の僕はあまり浮かれてなどいられない。しなければならないことがいくつかある。したいと思うこともある。すべて、夏休み前に終えてしまわなければ、タイミングを逃してしまう。チャンスの女神には前髪しかないのだという。すれちがう一瞬に前髪を掴めなければ、もう二度とチャンスは訪れない。めんどくささや一時のためらいから、好機を逃してはいけない。


 教室に入ったが、今日も藍さんの席にはだれもいない。斎藤の席はどうかと目をやるが、やはりそこにも人の姿はない。

 栗原が寄ってきて、「おはよう」と言ってくる。僕は「おはよう」と返した。

 自分の席に着いて、まず何をするべきか考える。


 藍さんと話をしなければならない。殴ったことを謝らなければならないし、彼女が知られたくないと思っていたことを僕が知ったことを伝えなければならない。そして、僕がそれでも藍さんに対する気持ちを変えていないということもまた彼女に伝えなければならない。その上で、もう斎藤の脅しに屈することはないと、彼女の気持ちを鼓舞しなければならない。

 斎藤とも話をしなければならない。あいつからも小学校時代の話を聞き、真実を確かめる。確かめた上で、あいつを藍さんに謝らせたい。恋愛感情の恨みは恐ろしい。ときに食い物の恨みよりも。だから、その復讐心を持っているであろう斎藤が、そう簡単に僕の話を聞いてくれるとも思えない。それに、直近で自分をぼこぼこに殴った相手とまともに会話をしてくれるとも思えない。けれど、たぶん、そうしなければだめだろう。殴ったことを後悔する気はないが、そのままにしておくのはよくない。とても不愉快な気分を長く心に留め置くことになる。そう思う。

 栗原には恩返しをしなくてはならない。あいつに受けた恩はただの友達、というか、顔見知りにしてもらっていいことの範疇を越えている。彼女にもそれを返さなくてはならない。もっとも、これは急がなくてもいいだろう。あいつにも、これが終わったらと伝えてある。


 斎藤が学校に来ない以上、選択肢は二つある。電話で話すか、直接、家に行くか。

 どちらも気が重い。しかし、やらなければならない。僕はあいつを殴った。後悔する気はないし、謝る気もない。けれど、そこまでした以上、自分の行動に責任を、自分のやったことに責任をもたなくてはならない。 

 その日の授業はあまり身にならなかったが、それでも学校に来ないよりはましだったと思う。

 放課後になって、担任の教師に呼び出された。

 斎藤と九々葉が学校に来ないのはお前にも責任があるのではないか。

 そう言われた。まったくその通りではあったので、僕は何も反論できなかった。

 しかし、こうお節介を焼こうとする先生も今時珍しい気はした。それなりに彼らを心配しているのだろう。仕事だからやっているという感じは、あまりしなかった。

 僕は斎藤に謝りに行きたいと言った。

 確かに自分にも言い分はあるし、あいつが悪いとも思う。けれど、やはり殴ったことは謝るべきだと。

 それはそれほど本心から外れている言葉ではない。けれど、謝るというよりは腹を割って話したい。その気持ちの方が強い。

 先生は自分もついていくと言った。

 お節介だと感じたが、一度殴り合いの喧嘩をやった相手の家に行くと言っているだけに、断るのもおかしい気はする。

 しかし、僕は男同士二人だけで話をしたいのだと言った。

 先生は渋い顔をしていた。それでまた問題を起こされてはたまらないだろう。至極当然の反応だ。

 だから、僕は頭を下げた。どうしてもお願いしますと。

 先生はそれでも何か言おうとしたようだった。ほんとうにお節介焼きの人種の先生らしい。

 けれど結局はそれらしいことは何も言わず、ただ、「今度手を出したら、夏休みに二週間補習を受けてもらう」とだけ言った。

 先生としては苦肉の策だろう。

 その気遣いに感謝した。

 斎藤の家の場所を教えてもらい、「ありがとうございます」と先生にもう一度頭を下げて、職員室をあとにした。




 斎藤の家にやってくる。

 学校の裏門から出て、ニ十分ほど歩いた場所にあった。

 家のインターホンを押すと、あいつの祖母らしい人物が出てきた。

 努君はいますか、と訊いた。あまりそんな言い方をしたくもなかったが、この場合は仕方ない。

 おばあさんは頷いた。「努の友達かい?」

 「まあ、そんなようなものです」適当にごまかして、中に入れてもらう。

 リビングでしばらく待っていると、斎藤努が現れて、僕の姿を目にするなり、腰を抜かした。


「な、なんだよ、お前。また俺を殴りに来たのか……?」


 腰を抜かしたまま、床に尻をつけて、斎藤が言った。やけに怯えるような表情をしている。それも当然か。「ころしてやる」と僕は言ったのだ。そして、あの鬼気迫るほどの殴打。怯えない方がおかしい。元来、それほどこいつは気の強い性質ではないのだろう。


「いや、違う。話をしに来た。お前と話したいことがいろいろあってな。まあ、座れよ」


 自分の家ではないにしろ、座らないと落ち着いて話もできない。僕はそう言った。


「……俺とお前で話すことなんてないだろ……。俺はお前に殴られた。ごめんなさいとでも言いに来たのか?」


 立ち尽くして、斎藤がそう言う。


「別にそう言ってもいいが、僕に申し訳ない気持ちは一切ないぞ。完全に表面的な言葉だけでそう言ってほしいのなら、そう言ってやるが」

「……だったらなんだよ」

 不機嫌そうに斎藤がぼやいた。

「僕はお前が藍さんを脅していたネタを知った。だから、これ以上、脅しは無意味だ」

 斎藤が目を見開く。

「……知ったって、つまり、俺のこともか……?」

「ああ」

「……はっ。さぞ気も晴れたろうな。……そうだよ。俺はあの女に振られたよ。振られて、馬鹿にされて、いじめられて、挙句の果てに登校拒否だ。どおりでお前がずいぶん大人しいと思ったぜ。俺を笑いに来たのか」

 斎藤は自嘲の笑みを滲ませる。

「いんや、違う。僕はきちんと言ったぞ。『話をしに来た』って。お前を笑う気も、見下す気もない。ただ、僕は知りたいんだ。お前の過去にあったことをな」

「……んなもん、知ってどうするんだよ。お前に何の関係もねえ。脅しのネタを知ったのなら、俺があの女にちょっかいかけることももうできねえだろ。なんだってんだ」

 斎藤は訝るような顔をして、こちらを睨む。

「僕が訊いたのはあくまで藍さん側からの事情であって、お前の立場はわからない。そこに嘘や勘違いが入っている可能性も否定できない。僕は事実を知ろうとしたいだけだ。ここまでかかわった以上、そうじゃなきゃすっきりしない。お前を殴ったことだって、あれじゃ、ただ自分が我を忘れて暴走しただけの思い出したくない過去になる。僕はそこに意味を求めたい」

 斎藤はまじめな顔をしていたものの、それでも、理解できないという表情をした。

「わかんねえよ。意味ってなんだよ。お前はただ、俺がお前の女に手を出したからむかつくだけ。違うのか?」

「違うと言えば違う。藍さんは僕の女じゃないし、彼女に手を出したから殴ったというのも違う。僕は藍さんを傷つけようとしたお前が許せなかっただけだ」

「なら、なんでその許せない相手の家にわざわざ来る? 俺はもう正直、学校に行く気は失せた。何もかも嫌になった。お前に殴られて、痛くてな。まだ怪我が痛む。だから、お前が俺のことなんか忘れてこれからあの女と仲良くやってても、もうどうでもいいんだよ。復讐とか、もう萎えた。俺はもういいよ。めんどくせえ。俺のことなんか、放っておいてお前はあいつとよろしくやってろ。もう帰れ」

 突き放すように言葉を投げ放って、斎藤は部屋から出て行こうとした。

「待てよ。話をしに来たのは何も本当にそれだけってわけじゃない。お前にやってほしいことがあるからだ」

「はあ? なんだよそれ。これ以上、なんだってんだ」

「お前には藍さんに謝ってもらわなきゃいけない」

 

 そう言った途端、斎藤の表情が生気の失せたものから、激しい怒りに移り変わる。


「なんで俺が、あの女に謝んなきゃいけねえんだ!!」


 家の外にまで聞こえそうな、とても大きな声だった。

 僕は何となく、何か言うタイミングを見失って口を閉じた。

 すると、斎藤の叫び声を聞きつけたか、さきほど応答してくれたおばあさんが他の部屋からやってきて言った。


「これ、努。友達になんて声だしてんだ」

 ひどく訛りの強い言い方で、斎藤の祖母は元はこの近辺の人ではないことがうかがわれた。

「こんな奴、友達じゃねえよ」

 吐き捨てるように、斎藤が口にする。

「馬鹿言ってんでねえ。あんたを心配してこの子はここまで来てくれたんだろが。友達は大事にせい。粗相があったらいかん」

「だから、違うって」

 必死に否定しようとする斎藤だったがおばあさんには通じないようで、「とにかく、友達に大声なんてあげるもんでねえ。優しくしな」そう言われ、結局斎藤は頷いて、おばあさんはまたリビングから出て行った。


 斎藤は僕の対面に腰を下ろした。


「わかったよ。話せばいいんだろ。話せば」


 斎藤はどこか自棄になったように鼻を鳴らした。




 小学校のとき、俺は九々葉藍が好きだった。

 クラスのどいつもこいつも百日ダリア、百日ダリア言ってたけど、あいつら何にもわかっちゃいなかった。あんな薄っぺらい笑顔浮かべてる女なんかより、その隣でいつも心から幸せそうに笑ってるあいつの笑顔の方が何倍もよかった。俺はあいつが好きだった。ほかの誰よりもあいつだけが。

 だから、俺はある日、勇気を出して告白した。

 放課後、授業が終わって、あいつは百日ダリアと一緒に下校し始めた。

 俺はその後をついて行って、人気のなくなったところで、呼び止めた。

 それで言ったさ。「好きです。付き合ってください」ってな。

 そしたら、どうなったと思う。

 あいつは突然、察したような顔になって、「わたし、先に帰るね」なんて言い放ちやがった。

 クラスのどいつもこいつもダリアがいいダリアがいいって言うから、あいつまで勘違いしたのはわかるけど、せめて、どっちに言ってるのかくらいは、俺がどっちを見てるかくらいはわかってほしかった。

 俺が戸惑ってる間に、九々葉の奴は帰った。

 代わりに残されたのは、百日ダリアと俺だ。

 好きでもない女子に好意を持ってることにされて、二人っきりにされた。

 俺は正直、どうしていいかわからなかった。今すぐ九々葉を追いかけてもう一度告白をすればよかったんだが、すぐに考えつかなかった。軽く頭の中がパニックになってた。

 しばらくしてそれに思い至って、まさにそうしようとしたとき、見計らったようにダリアが言った。

「いいよ、付き合おう」

 俺は絶望した。どうすればいいのか、わからなかった。

 勘違いだと伝えるなんて、当時の俺には無理だった。そうしたらどうなるかがなんとなくわかっていた。きっと恐ろしいことになる。ダリアの顔を見て、俺は幼心にそれを理解した。

 百日ダリアと付き合うことになった。

 翌日にはそれがクラス全員に伝わっていた。

 俺は嫌だった。クラスの連中に誤解されるのも、何より九々葉本人に誤解されるのも。だから、必死に誤解を解こうとした。でも、そのすべてを百日ダリアに邪魔された。

 照れたように、「もうそんなこと言ってぇ」なんてほざくあいつは悪魔か何かに俺は見えた。

 けど、何日か悩んで、結局、俺は百日ダリアに、自分が告白したことは勘違いだったと言った。

 本当に告白したかったのは九々葉の方だと。

 ダリアは無表情に、ただ「へえ……」とだけ言った。おれはそんなあいつが恐ろしかった。これから一体何をされるのか、わからなかった。

 でも、俺は九々葉への気持ちを抑えきれなかった。

 別れてすぐに、なんて、当時の俺でもどうかと思った。

 けど、言いたかった。勘違いされたままは嫌だったんだ。

 だから、手紙を書いた。今度は勘違いされないように、手紙を書いて、きちんとあいつの机の中に入れておいた。

 ……だけど、俺のその手紙はいつの間にか、クラス全員の知るところとなっていた。

 信じられるか? あいつ、俺がどうにか気持ちを込めて必死に書いた手紙を餌にクラス中に俺を晒しあげたんだぜ?

 俺は誰も信じられなくなった。

 九々葉の奴が憎くてしょうがなくなった。

 俺をいじめた主犯の百日ダリアももちろん、許せない。

 けれど、それ以上に勝手に勘違いして、ダリアを俺に押し付け、その上さらに俺を晒しあげたあの女が俺は一番許せない。

 憎くて憎くて、しょうがなかった。

 俺は不登校になった。

 そして、どうにかそれを乗り越えて、高校に入ったと思ったらこれだ。

 まったく、嫌になる。




 よほど印象に残っている出来事だったのだろう。斎藤はほとんど詰まることなく、流暢にしゃべり続けた。

 おばあさんから出された煎茶を飲む。もうそれなりに冷めていて、ぬるい。けれど、それでもけっこう味わい深かった。


「話を聞いている限りだと、手紙を晒しあげたのはその百日ダリアって奴じゃないのか?」


 昨日からたびたび聞かれるようになったその名前。正直、あまりいい印象を持てない奴だ。藍さんよりはむしろそいつがやった可能性の方が高い。というか、楓さんの話でも、藍さんは友達のノリで手紙を広めてしまった、ということではなかったか。友達とは、百日ダリアではないのか。


「俺もそれは考えた。けど、それでもやっぱり許せない。九々葉は拒もうと思えば拒めたはずだ。俺の手紙を見せないようにすることも、できたはずだ。それなのに、俺の気持ちを踏みにじった。俺の気持ちを踏みにじって、笑っていやがった。だから、俺はあいつが許せない」

 そう言って斎藤は拳を握りしめた。


「お前の気持ちはわかった。共感もする。けど、やり方がひどすぎだ。脅してまでやるようなことじゃない。恨みに思っているのなら、そんな陰湿なやり方で復讐するんじゃなく、直接言えよ。自分の気持ちを裏切ったお前が許せないって。その方がよっぽどましだ。脅迫は犯罪だぞ」

「わかってるよ。そんなことは。だが、俺にはな……。俺にはそれぐらいしかできなかったんだよ。……あいつのことが忘れられなくて、高校に入ってあいつがお前と幸せそうにしてるのを見たら、我慢なんてできなかった……!」

 斎藤は俯いて、肩を震わせた。

 泣くほどの、ことか。


 だが、やはり斎藤はまだ藍さんのことが好きだったのか。裏切られてもなお、好きだった。

 だから、あのデートのとき、あんなどっちつかずの態度を取っていたのか。復讐のために僕と藍さんを引き離すと同時に、藍さんの気を引こうとしていた。

 それがようやくわかった。


「……男がそんな簡単に泣くもんじゃねえよ。涙ふけ」

 ハンカチを差し出した。男に貸すもんじゃないが、仕方ない。

 斎藤は黙ってそれを受け取り、鼻をかんだ。

 汚い。復讐のつもりか、それは。


「……傷心中悪いが、そこまで話を聞いた今でも、やっぱり僕はお前が藍さんに謝るべきだと思う。過去のことは確かに藍さんにも非はあるだろう。けど、それはそれ。これはこれだ。お前は藍さんに謝るべきだ。彼女を傷つけ、無理やり連れだして、無理やり唇を奪おうとしたことをな」

 僕は努めて冷静に言った。あまり口にしたくない事柄である。けれど、言わないわけにもいかない。


「……そうか。……そうか」


 斎藤は二度、同じ言葉を繰り返した。


「俺はあいつが許せない。復讐がしたかったし、今でも好きだ。けれど、それは別においておき、それとは関係なく今の自分のしたことを謝れと、お前は言うわけか」

「ああ、過去にどんなひどい目に遭ったとしても、それと今とは別物だ。過去に何をされたとして、今のお前の行いが正当化されるわけじゃない。お前が過去に被害者だったなら、今はお前が加害者になっている。それだけだと僕は思う。お前は今、藍さんに謝るべきだ」

「……」


 斎藤は黙って僕の言葉に耳を傾け、そして、拳を振り上げた。

 そのまま、テーブルにその拳を振り下ろそうとし、途中で止めた。


「……わかった。あの女に、九々葉藍に謝ってやるよ」

「……ああ、そうしてくれると助かる」

「ただし、一つ条件がある」

 斎藤は真剣な瞳で人差し指を一つ、立てた。

「それはなんだ」


「俺と、友達になってくれ。相田」

「……は?」


 ……思わず、こめかみに手を当てる。頭が痛くなってきた。


「……俺には友達がいない」

「……おい、それは嘘だろ? お前がクラスの連中と仲良さげに話してるのを僕は何度も見たぞ」

「そんなのは上辺だけの付き合いだ。お前みたいに、俺の過去の話に言及してきた奴は一人もいない」

「いや、それはそうだろ。そんなもの、まず聞こうとしないし」

「……俺は本当の友達がほしいんだよ。裏切ることのない、な。お前なら、信用できる。話していて、そう思った」


 今まで、僕はこいつを雰囲気イケメンのチャラそうな奴だと思っていた。僕のような陰の側に生きるものではなく、光の当たる場所にいる奴だと。だが、言動を鑑みるに、どうやらこいつは僕の側の人間らしい。


「僕はお前を殴ったぞ」

「俺もお前を殴った」

「お前、自分が何をやったか、わかっているのか?」

「わかってるさ。お前の大切な人間を傷つけた。許されることじゃない。それはわかった」

「それでも、か」

「ああ、拒否するなりなんなり好きにしていい。条件とは言ったが、どっちにしろ九々葉には謝りに行くさ。だから、お前はあまり悩まず答えてくれ。俺と友達になってくれるのかどうか」


 ……そう言われても、反応に困るだけなのだが。

 僕は男友達がいない。正直、それで不都合になることもそんなにないし、いなくても別にいいと思っていた。だから、必要性で言えば、別にいらない。

 それに、こいつのやったことは許せない。一時期、「殺してやる」とまで僕に言わしめた相手だ。藍さんを傷つけ、藍さんを苦しめ、藍さんを悲しませた。とても一朝一夕で許すことはできない。

 けれど、じゃあ、いつまで恨みに思っていればいいか、というと、難しい。

 どうせいつかは忘れるし、いつの間にか許してる。今は許せないだけで。僕はそんなに執念深い人間ではない。

 どんなにひどいことを誰かに自分がされたところで、結局はどこかで折り合いをつけるしかない。どんなにひどいことだとしても、それを忘れずに一生覚えているのはどこか間違っている気がする。何より、それではそんな相手のやったことのために自分の人生を棒に振るようなものだ。ひどくもったいない。

 それで言えば、今許せるのなら、いや、今許せないとしても、いつかは許してしまうのなら、別に友達になってしまうのも悪くはないのかもしれない。

 こいつの本気は目をみればわかるし、そもそも、僕と友達になってくれなどと頼む理由がどう考えても何もない。

 だから、これは気持ちの問題。僕がこいつを許せるか、あるいは許せなくとも、いつかは許すその気持ちを前借りして、友達になるか。


「一つだけ、訊いていいか?」

 そして、僕にはまだ問う必要がある。

「ああ、なんでも訊いてくれ」

「お前は藍さんを諦めるのか」

 裏切られてでも、それでも、好きでいた藍さんを斎藤が諦めるのかどうか。

「……」

 斎藤は一瞬言葉を詰まらせた。けれど、すぐに、

「ああ、諦める。俺がしたことはもうそんな気持ちを後生大事に持っていられるほど軽いものじゃないだろう。謝りはするが、それで自分を許していいとは思わないさ。俺は九々葉の奴のことは諦める。好きな気持ちはあっても、もうだめだからな。あいつとはもう関わらないさ」

 と、どこか達観したような面持で口にした。


 なるほどな。それなら答えは一つだ。


「じゃあ、だめだな。お前とは友達になれない」

 

「……なぜだ」

 どう考えても納得がいかないという顔をしている。

「僕と友達になるのなら、必然的にお前は藍さんの友達だ。藍さんに藍さんと関わる気のない奴を関わらせるわけにはいかない」


 こいつと僕が友達になったのなら、藍さんはこいつと、友達になれるかはわからずとも少なくとも少しは関わろうとするだろう。彼女と斎藤には深いわだかまりがあるが、それはそれとして乗り越えて、それでなくとも関わろうとするだろう。たとえ脅された相手だとしても、藍さんとはそういう人間だ。どれだけ僕が気を遣ったとしても、結局はそうなってしまうと、僕は思う。

 だから、


「お前にこれからも藍さんと関わる気がないのなら、僕はお前と友達にならない。僕と友達になるのなら、藍さんはセットだ。申し訳ないと思うのなら、自分を許せないと思うのなら、近くで償え。藍さんに」


 甘すぎる。

 という気がしなくもない。こいつのやったことは確かに重い。状況が少し違えば、警察沙汰になる。というか、なったけど。ともかく重い。まるでそれを許すかのような扱いをするのは間違っているのかもしれない。でも、それ以上に、僕はなんというか――こいつの意気を買ってやりたい。小さなころのうらみを持った相手に謝ることを決めたこいつの意気を。もし相手に反省する気が少しでもあるのなら、こちらも許す意思を持たなければいけない。絶対に許さないという意思は、間違いを許容できない。人は間違う生き物だから、間違いを許容できない人間は、人と関わるべきではない。

 僕はこいつを許したい、と、そう思った。


 しばらく黙って思い悩んでいた斎藤は、やがてぽつりぽつりと言葉を発していく。

「わかった。……俺はあいつと、九々葉と関わる。……もちろん、あいつが嫌がれば俺はすぐに身を引くし、それでお前と友達関係を解消されても言うことはない。でも、もし九々葉が、あんなことをした俺を、おこがましいが、許さずとも関わってもいいと言ってくれるのなら、俺はそうしようと思う。……それが俺の答えだ」


 斎藤は決意を固めたようだ。

 それでいい、と思う。

 許せない意思はたしかにあり、こいつがやったことは消えはしない。

 けれど、同時にこいつに自身を省みる意思があり、償う意思があるのなら、その意思を汲みたいと思う。

 間違っても許せる関係というのが友達だと思うから。

 人は間違いを犯す。しかし、同時に反省できる。

 許すか許さないかは個人の意思だが、許さないことで逃すものと、許したことで得るものの大きさを考えれば、僕にとってはどちらを取るべきかは明らかだった。

 何よりそれが、藍さんと関わってきた、誠実さを旨とする藍さんと関わってきた僕なりの、友人関係に対する答えだ。


「それじゃあ、よろしくな。斎藤努。友達になったからには、お前に復讐してやる。僕の藍さんをいじめた罪は重い。ありとあらゆる精神的苦痛を味わう準備をしておけ。僕は友達以外には冷たいだけだが、友達、とくに男友達に対しては自分を包み隠すつもりはない。お前にはこの世の地獄を味わってもらう」

「……あ、ああ。よ、よろしく頼む。……って、は? ……え……」

 斎藤は絶句した。

「あ、あのさ、あんた、俺を許してくれるんじゃないのか?」

 ああ? 何言ってんだこいつ? 僕はこのモノローグで、こいつを許すと一言でも言ったか?

 意気を買いたいと言った。意思を汲みたいと言った。許すか許さないか、どちらを取るべきかは明らかだと言った。許したいとは言った。

 けれど、僕は許すとは決して一言も言っていない。


「誰がお前なんぞを許すか。一生許さんわ。僕の藍さんを傷つけた罪は重い。覚悟しろよ。斎藤努。僕と友達になったことを永遠に後悔させてやる」

「……えー」


 斎藤は困惑しているが、知ったことではない。こいつの復讐劇はもうすでに終わりを迎えたのかもしれない。けれど、僕の復讐劇はここから始まるのだ。

 斎藤努よ。僕は貴様を許さない。


「まあ、何はともあれ、よろしくな。相田涼」


 言って、斎藤は握手しろとでも言いたいのか、手を差し出してきた。


「ああ、よろしく。斎藤努」


 僕は思いっきり、斎藤の右手を握りしめた。死ぬほど強く。骨が砕けんばかりに。


「……いってぇ!」


 まずは第一の復讐っと。

器量(器涼)

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