チョウアイ
楓さんに呼び出されたのは、学校近くの市民体育館。
こじんまりとしたつくりで、すぐ近くにどでかい県立の体育館があるため、利用頻度は少ない。
平日の夕方。それも夏休み前。そんな時期に利用者など他に一人もいなかった。
小学校の体育館よりも狭そうなその空間に足を踏み入れると、なぜか分厚いマットだけが真ん中にぽつんと置いてあった。高跳びなどをした際にクッションに使われるような代物だ。使い古され、外側のゴム的な部分がところどころ破けて中のスポンジ的なサムシングが飛び出ている。
なぜ、こんなものが置いてあるのだろう。
高跳びの練習をして片付け忘れたのだろうか。それにしてはマットだけあるのはひどく奇妙である。
よく見ると、マットのそばには立て看板が置いてあった。何か文字が書いてある。
近づいて内容を読んでみる。
『マットの前に立ち、入り口の方を向いて待て。』
よくわからないが、これはもしかして楓さんが用意したものなのだろうか。
だとしたら、彼女は何のためにそんなことをしたのだろう。
僕が首を傾げて考えていると、ぎぎぎと嫌な音がして、入り口の金属扉が開かれた。
振り向くと、楓さんが立っている。
「こんに……」
「……動くな。しゃべるな。歯を食いしばれ」
僕が挨拶をしようとすると、ストップと言わんばかりに楓さんが手の平をこちらに向け、言った。
疑問を持つ暇もなく、楓さんが全力疾走を始める。どう見ても、僕の方に向かって。
二十メートルの距離をすぐに詰めた彼女は、左拳を思いっきり後ろに引き絞った。
そして、腹も喉もはちきれんばかりの大声で、叫ぶ。
「うちの、妹のッ――! かっわいい~~~~~顔をーーーーーーーーーッ! なぐってんじゃねええええええええええええええええええええええええええ!」
全体重を乗せた楓さんの拳が僕の右頬にストレートヒットした。
僕の体は、まるでキャップ部分をデコピンしたペットボトルのように、すっこんと清々しいくらいの速度で地面に倒れた。
後ろに分厚いマットがあったおかげで、頭を床に打ち付けることなく、僕の全身がマットに埋まった。
やけに低い体育館の天井が視界の全面に移る。
が、すぐに僕の視界は楓さんの顔のドアップに占められることになった。
彼女は僕の腹の上に馬乗りになっていた。
「何か言い残すことはあるかい?」
「……殺す気満々ですか」
「遺言はそれだけね。わかった」
肩が外れるんじゃないかというぐらい背面に引き絞られた彼女の左拳が、僕の顔面に向けて振り下ろされる。
ぼすん。
と、軽い音がした。
彼女の拳は僕の耳のすぐ横にあった。マットに深く打ち込まれている。
「……ちったあ、怖がれよ。張り合いねえなー」
「いやあ、もう一発もらう覚悟はしてたんで」
あっさりと僕の上から腰を上げた楓さんが僕の腕を引っ張り上げながら言った。
「楓さんは藍さんからどういう話を聞いたんですか? 僕が藍さんを……殴ったと?」
楓さんが分厚いマットの上に胡坐をかいて座り、僕が硬い床の上に正座をして座る。膝から下がひどく痛むが、今回ばかりは仕方がない。この責め苦を甘んじて受け入れるのみ。
「ま、そう言えなくもないかな。最初はうちの母親から藍が喧嘩に巻き込まれたっていう話を聞いただけだったけど、気になって顔にでっかいガーゼを貼った藍を問いただしてみたら、『これは喧嘩とは関係ない。ただわたしが転んだだけ』なんて下手な言い訳が返ってくる。それでピンときたわけよ。今の藍がかばう相手なんてあんたしかいない。ああ、相田君が殴ったんだって」
言いながら楓さんは僕の鼻先に人差し指を突きつけた。
「あたしがでしゃばることじゃないのはわかってるけどね。でも、あたしにはそれを理解するだけの理性はあっても、それで自分を抑えるだけの自制心はない。藍を殴った相手がいるなら、誰であろうとあたしがこの手で殴ってやらないと気が済まない。 たとえ、相手が相田君でもね」
「……はい。すみません。それに関して、僕には言い訳の余地もありません。ただただ申し訳ないと思うのみです」
僕はできるだけ真摯に頭を下げ、床に額をこすりつける。
しばらく、そんな僕の様子を観察していた楓さんは、
「……ま、いいよ。殴ったら気も晴れたし。もっとも、それで今後一切、藍とは関わりませんとかふざけたことを抜かすようなら、あと何発かはイってたろうけどね」
と僕を許すようなことを言ってくれる。
「どうも、ありがとうございます」
一応、感謝の言葉は述べておくが、自分で言っててお礼を言う相手が違う気がしてくる。
「あたしに言うことじゃないよね」
楓さんにも言われた。
「それで、なんとなーく、予想はしてるんだけど、相田君はあたしに訊きたいことがあったりするー?」
そして、楓さんは僕が話題を振るまでもなく、その件について触れてくる。
そう。僕の藍さんの秘密についての当てとは楓さんのこと。藍さんの実の姉であり、彼女を愛する楓さんなら、藍さんに関して大抵のことなら知っているだろうと推測してのことだ。
「はい。藍さんの過去について」
僕がそう口にした途端、楓さんが一瞬で顔をしかめた。
「正直、藍がいないところで、こんな大事なことを話したくないんだよね。あの子にとって、これは今のあの子を形成したと言っても過言ではない出来事だから」
「それは僕としてもわかっているつもりですが」
僕の言葉を聞き、楓さんが訝しげな顔をする。
「ほ~んと~うに~? あんたに知られて、藍がどれだけ傷つくか、不安に思うか、心配するか、本当にわかってる?」
「わかってます。それでも、それを知ったことを僕は隠す気もありませんし、それで藍さんを不安にさせる気もありません。藍さんに対して愚直なまでに正直にいきます。それに、藍さんを不安にさせないための方法も一応、考えてありますし」
楓さんが「ほう」と興味津々といった表情をする。
「ちなみに、その方法ってのは?」
ここには僕らのほかには誰もいない。けれど、おおっぴらに口にすることはためらわれることであったので、楓さんに耳打ちで伝えた。
不思議そうな顔をして耳を傾けていた楓さんが、すぐに肩を震わせ始める。
「あはははははっ!!! はははははっ!!! ば……っばかだ!!! あはははははは!!!!」
何をはばかることなく腹を抱えて大笑いする楓さん。
いくらなんでも笑いすぎじゃないだろうか。僕は割とまじなんだが。
「あははははっ!!! そりゃあいい!! 最高だね!!! さっすが相田君、やるときはやる男」
大笑いされた挙句、褒められてしまった。そんな反応をされるのもどこかむず痒い。
「あははははは!!!! ほんとうにおもしろっ!!! あははははは!!!!」
ていうか、いつまでも笑っているつもりなのか。
放っておいたらいつまでも笑い続けていそうなので、催促しておく。
「あの、そろそろ本題にですね」
「あはははは!!! ……はあ、笑い死ぬかと思った。……で、藍の過去ね」
「そうです。お願いします」
未だにどこかにやついた顔をしている藍さんだが、僕の言葉に表情を引き締めた。
「わかった。そこまで言うならいいでしょう。相田君に藍の秘密を教えてあげるよ。気分のいい話にはならないけど、その点はご容赦。それでは、黙って、聞いてね」
そして、そう前置きして、楓さんは語り始めた。
藍の小学時代のもろもろを聞かせてあげてもいいけど、今は手っ取り早く、余計なところは省いていくね。
ことは藍が小学校三年のとき。
当時、藍には親友がいてね。
名前を百日ダリア。
日本とフランスのハーフの子。
卒業アルバムの写真を見たけど、ほんとうに見た目の綺麗な子だったね。お人形さんみたいだった。もちろん、あたしに言わせれば、藍の方がかわいいんだけど。その子に関しては、日本人だけじゃどうやったって無理な美しさを持っていたからね。藍にゾッコンラブなあたしでも、そう評する。それくらい、容姿端麗な子だった。
当時、その子はクラスの中心にいたそうで、何かイベントごとをやる際にはその子がいつも中心にいたそうよ。とても活発な子だったって。
藍自身もなんでこんな自分と仲良くしてくれるのかわからないくらい、元気で快活でそこぬけに明るい子だったって言ってたわ。
でもね。あるとき、ちょっとした事件が起きた。
藍のクラスの男子が一人、その百日ダリアに告白したそうよ。名前はたしか、日比原。
そのダリアって子を好きな男子はほかにもいっぱいいて、以前にも告白した子はいたそうなんだけど。
その男子の場合は状況が違った。
それ以外の男子は断っていた百日ダリアがその子の告白を受け入れたの。
受け入れたってことは好きだったのかしらね。わからないけれど。
で、ここまではまあ、いいんだけど。
問題はその先。
その二人が付き合ってから一週間もしないうちに別れたらしいの。理由は藍にはわからないって。ただどうしてかそんな短期間で別れてしまったということ。
別れただけならよかったんだけど、その後すぐに別れたその男子が藍に告白をした。
小学生にして浮気性もはなはだしいことよね。
で、当然そんな告白を藍が受け入れるはずもなく、断った。
でも、そのときの告白っていうのがラブレターを用いて行われたらしいの。
まあ、別れてすぐ、公然と告白なんてできなかったんだろうけど。
結果から言えば、そのラブレターはクラスの全員に回し読みされた。
藍には悪気はないわよ?藍にはその男子の気持ちを踏みにじるつもりはなかったって。
けど、そのときの藍はまだ男だ女だ恋愛だっていう価値観は薄かったらしいし、友達の会話やその場のノリを優先してしまったらしい。
とにかく、ラブレターはクラス中に広まってしまった。
そうなってしまえばもう、どうなるかわかるわよね。
その男の子はいじめられるようになったって。ラブレターの回し読みから自然といじめに移行した。
クラスの中心の女の子を振り、そして、すぐに違う女の子に告白した浮気男。
いい的よね。
その子は不登校になったんだって。二度と学校に出てこられなくなった。
もっとも、そんな騒動の渦中にいた人物がいなくなっても、一度起こってしまった出来事は変えられない。
百日ダリアと藍は親友じゃなくなった。
当然かもね。自分の付き合っていた男が親友に告白する。百日ダリアの気持ちは察するべきところよ。ほんとうに好きだったのなら、だけど。
その後、いじめの対象は藍に切り替わったらしいわ。
子供の悪意って恐ろしいわね。一度、味を占めるとどこまでも突き進もうとする。正直、反吐が出るけど。
それでも、藍は学校に行き続けたわ。卒業までね。
百日ダリアは卒業と同時に海外に行き、藍はその小学校の子たちの多くが行くのとは別の進学校に入学した。
ま、簡単に言うとこんなところね。
話はわかった? 相田君。
「ほとんど、わかりました」
短くそう答えた。
簡単に話したと楓さんは言ったが、では詳しく話してもらったら一体どういう話になるのか、それも聞きたい気はしたが、今はそうするべきではないだろう。もっと他にするべきことはある。
僕は考えた。
日比原が藍さんに復讐しようとする理由はわからなくもない。ラブレターの回し読み。ほんとうに相手のことが好きだったのならそれはとても傷つく行為だろう。実際、自分がやられたときのことを考えると、あまり冷静でいられそうもない。
たしかにそれは同情に値する。
けれど、そのすぐ前に別の女子に告白し、別れているのが気に食わない。何か理由があったのかもしれないが、そうでないなら、浮気性の結果、ひどい目に遭ったとしても同情はできない。完全な自業自得だろう。それで復讐とか言い出すのはどう考えてもいい迷惑だ。
そして、わかったことと言えば、もう一つ。
藍さんが友達に対して、本気で、誠実であろうとするその理由。それはこの出来事に端を発しているということだ。
自身の軽率な行動、自身の思慮不足が原因で、一人の男子生徒をいじめに追いやり、不登校にさせてしまったという事実。自分がきちんとその想いに向き合っていればあんなことにならなかったのではないかという呵責。その負い目がきっと彼女をあそこまでさせたのだろう。
人を傷つけたという罪悪感が彼女をあの孤独に置いたのだろう。
そして、だからこそ、藍さんは僕の彼女と仲良くなりたいという思いに応えてくれたのかもしれない。
僕が本気だという風に感じたから、それを断り、傷つけたとき、何が起こるかわからなかったから、だから、あんなふうに応えてくれたのかも、しれない。
だから、ある意味では僕が藍さんと仲良くなれたのは斎藤のおかげ、と言えなくもないのだ。
あいつのおかげで藍さんがああなって、あいつのおかげで藍さんとこうなれた。
そう考えれば、あいつに対して感謝も・・・さすがに湧いてこない。
けれど、やはり、話す必要性は感じた。あいつとは腹を割って話したいところだ。
殴ったことを謝るつもりは一切ないが。
「それで、相田君。君はどうするの?」
僕の考えがまとまったと同時に、タイミングを見計らったかのように、楓さんが訊いてくる。
「僕はただ、やりたいようにやるだけですよ。話をしたい奴と話をしに行きます」
「そう。じゃあ、そうしなさい。藍には相田君に話したことは言わないでおくわ。さっき言ったこと、ちゃんとやりなさいよ。藍を殴ったことを申し訳ないと思っているのなら、しっかりやりなさい。それが責めても罪滅ぼしになると思うわ。ま、藍にとっちゃ、たぶん、罪滅ぼしなんてレベルじゃないんだろうけど」
「はい、わかってます」
「うん。なら、よろしい。若さを力にせいぜいがんばれ……男の子!」
楓さんは立ち上がり、僕の後ろに回って思いっきり背中を叩いた。じーん、と叩かれた部分が震えた。
「痛いですよ」
「青春とは痛みを伴うものだよ、少年」
「何目線ですか」
「お姉ちゃん目線」
楓さんはそう言って笑った。
寵愛(超藍、寵藍)




