あたりまえのこと
生徒相談室で一木先生とそんな話をしてから数日後。
その日、一時限目は体育の時間だった。
授業開始十五分前になって、彼女は教室から出て行く。
僕も後を追うようにして、更衣室に向かった。
一緒に入れるわけもないが、何となく後をついてみたくなる気分だったのだ。
体育の授業が始まり、蒸し暑い中、男女ともにグラウンドに集合させられる。
名列番号順に並ばされるため、相田涼という僕の名前では一番前に立つことになる。
正面に立つ体育教師の顔がむさくるしくて暑い思いが増す。同じようにむさくるしい父さんの顔を思い出して、さらに気分が不快になった。
今日の種目は男子はマラソン、女子は走り幅跳びということだった。
うへえ。このクソ暑いのにマラソンとは。嫌気が差す。
けれど、グラウンドを五周した者から順に休んでいていいということだったので、その点は気楽かもしれない。五十分の授業時間、その半分くらいは休んでいられるだろう。
体育教師の号令とともに走り始める。
僕の体力は通学に自転車を用いていることから、ない方ではないが、運動部には負ける。
大体中間ぐらいのタイムでゴールし、男子たちが吹き溜まっている一角から少し離れて腰を下ろす。
校舎の陰に入り、ぼうっと虚空を見つめながらマラソンの疲れを癒す。
すると、気を休める暇もなく、男子の内の何人かが大きな歓声をあげるのが聞こえた。
何かと思って目を向ければ、彼らの視線は一様に女子のいる幅跳び場の方へ向けられている。
ああ、走って跳んでする女子を眺めて興奮しているわけか。
納得するとともに興味を失くした。
女子の幅跳びを眺めたい気持ちもわからないでもないが、あんな風にあからさまに騒いでいる男子を見るとなぜか無性にそれに反する行動を取りたくなる。
天邪鬼な性質なのだ。
しかし、視線を逸らそうとした刹那、一際小柄な身長の女子の姿が見えて、思わず僕は顔を上げた。
九々葉さんがハーフパンツの裾をちょっと気にして、走り始めようとちょうど身構えたところだった。
彼女の脚は早くない。むしろ女子にしてもさらに遅い方だろう。
けれど、いつも無反応で冷めている風な彼女に似合わず、懸命に腕を振って必死に取り組んでいるのがわかった。
意外な一面を見た気がする。
懸命に取り組むその様子とは裏腹に、結果は振るわなかった。跳んだ後に尻餅をついてしまったようで、記録は悪かったようだ。
少しだけとぼとぼとした様子で、彼女が列の方へと戻っていく。
そこで、ちょっとしたアクシデントが起こった。
グラウンドの側溝にかけられていた金属製の蓋、そのわずかな段差に足先を引っかけて、九々葉さんが転んだのだ。
膝を擦ってしまったらしく、いくらか血も出ているように見える。
彼女はそのまま、脚を引きずって列の方へ戻ろうとした。
どうやらあの状態でまだ体育をつづけようというらしい。
ぱっと女子の担当教師の方を確認するが、教師は別の生徒の記録を取るのに夢中で彼女の怪我に気付いていない。
では、男子の方はと見るが、彼らは今まさに走り始めようとしているところの、クラス内で人気の高い、胸が大きく栗色の髪をした女子の方に色めきだった声を上げていて、誰一人彼女には目を向けていない。
そんな様子を見て、僕はのっそりと立ち上がった。
足を引きずる九々葉さんの方へと近づいていく。
「……大丈夫?」
「……?」
振り返った彼女が僕を見る。不思議そうに首を傾げていた。
「その傷、保健室に行った方がいいと思うけど」
彼女の膝を指さして言うと、彼女も目線を落とし、けれど、小さく首を振った。
「……」
無言で九々葉さんは女子の列に戻ろうとする。
僕はそんな彼女の態度が気に入らなかったので、
「すいません! 九々葉さん怪我しちゃったみたいなんで! マラソン終わって暇なんで、僕、保健室連れて行ってきます!」
女子の方の体育教師に大声でそう言った。
「……え?」
そばで九々葉さんが小さく驚きの声を上げる。
幅跳びを眺めていた男子も、幅跳びの待機をしていた女子も、今まさに最初の一歩を踏み出した栗色の髪の女子も等しく、僕の方を驚いた顔で見た。
僕はそれらを意に介さず、九々葉さんに肩を貸す。
腕に触れると柔らかく、どこかいい匂いがした。
「……っ」
何かを言いたそうに彼女は僕の顔を窺ったが、けれど、僕の腕を振りほどこうとはしなかった。
そのまま保健室に向かう。
幸い、保健の先生は在室だった。
先生に九々葉さんの手当てを任せ、僕は保健室を去る。
しかし、去り際、後ろから声をかけられた。
「あ、あのっ」
振り返ると、彼女が何か言いたそうな表情で僕を見ている。
なんだろう。セクハラで訴えられでもするのだろうか。
「……何?」
「……」
訊くが、彼女はそれっきり言葉を発せず、やがて俯いてしまう。
手当をしようと待機していた先生が、痺れを切らしたように彼女の下にしゃがみこみ、膝に消毒薬を塗った。
少し痛そうに眉をひそめ、それからもう一度、彼女は僕を見た。
けれど、やっぱり何も口にしないで、俯く。
よくわからない態度だったが、僕はやるべきことをしたので、これ以上長居しても仕方がない。
保健室を後にする。
扉を閉めるその瞬間まで、背中にとても視線を感じた。