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あいだけに  作者: huyukyu
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リョウフウ

 気づいたとき、警察にいた。

 意識を失ったはずだったが、あの後すぐに僕は自力で目を覚ましたらしい。だが、やってきた警察にすぐに連れていかれたという。

 その記憶はまるでない。どころか、あの男に殴りかかるために走っていったところしか覚えていない。その後、自分が何をしたのか、何を言ったのか、まるで記憶にない。

 いつ傷の手当を受けたのかもわからない。

 事情聴取でも何を言ったかまるで覚えていない。

 本当に自分を取り戻したのは、父と母が僕を迎えに来た時だった。


 父が僕を殴った。拳骨で。頬を強くいかれた。

 周囲が軽くどよめいた。それはそうだ。警察署の中で暴力を振るう人間などいない。


「どんな理由があったところで、他人に暴力を振るう人間は最低のくずだ」


 父は言った。僕は最大のブーメランが父の胸に刺さっていると思った。けれど、何も言わなかった。

 父は周囲に平謝りだった。「息子がすみません」と頭を下げている。あんたもだよ、と僕は思った。けれど、何も言わなかった。


 ふと自分の右手の甲を見た。何かとても嫌な感じがして、そこに何か変な虫でもくっついているのではないかと思った。けれど、包帯がきつく巻いてあるだけで、何もくっついていてなどいない。

 僕は目を戻した。

 警察署の中には、僕以外の高校生はいない。

 彼らはどうしたろうか。それすらも記憶にない。


 僕は家に帰った。




 風呂にも入らず、ただ着替えて布団に入る。

 迎えた妹が珍しく、「お兄ちゃん、大丈夫?」と優しい声をかけてくれた。凛が「お兄ちゃん」などと呼ぶことは今までに数えるほどしかない。僕は泣きそうになったが、凛の前では涙を見せなかった。

 自分のベッドに転がって、強く包帯を握りしめる。血がにじむかと思ったが、そんなに深い傷ではないようだった。

 僕は、何もかもを忘れるように、眠りについた。


 ひどく悪い夢を見る。

 僕は悪魔に取りつかれ、自身に特別な力を得た。

 その力は周囲の人間を傷つけ、力を恐れた人間たちは僕に従う。

 僕は傲慢になった。

 あらゆるものを自分の手にし、求めるものは思いのまま。

 金も女も地位も名誉も、すべて手に入れる。

 しかし、愛した女を抱きしめようとしたとき、その力が女を殺した。

 僕は目を覚ます。

 息がとても荒かった。

 体中が汗でぐっしょりと濡れている。

 気持ちが悪くなった僕は、着ていた服をすべて脱ぎ捨て、もう一度、着替えなおした。

 拳を握る。

 途端、胃の中身を激しく揺さぶられたような気がして、僕は跳ね起きて洗面所に向かった。


 全部吐いた。


 気持ちが悪かった。吐いても吐いても、それでも足りない。胃の中身をすべて吐き尽くしても、それでもなお、僕の口は吐瀉物(としゃぶつ)を吐き出し続けた。

 つらい。くるしい。とても、痛い。

 涙が出た。とめどないほどに。ぬぐってもぬぐっても、決して止まらない。

 服がまたびしょびしょになった。

 風呂に入ることにした。

 少しでも、気が紛れるかもしれない。

 脱衣所の扉を開けた瞬間、思い出した。


 また、僕は吐いた。


 僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は。


 僕は、家を出た。


 夜空に星は見えない。曇り空だ。分厚い雲が空を覆っている。月さえも見えない。

 家の近くを歩き回る。

 どこかで犬の鳴き声が聞こえた。うるさい。

 こんな夜中に蝉の鳴き声もする。騒々しい。

少し静かにしてくれ。


「ああああああああああああああああ」


 うるさい。こんな夜中になんだ。誰の叫び声だ。

 近所迷惑はなはだしい。

 ああ、なんだ、僕の声か。


「ああああああああああああああああ」


 なんて、僕の声はうるさいのだろう。なんて、騒々しいのだろう。

 少しくらい、静かにできないのだろうか。


「うるせえええ!」


 民家の二階の窓が開いて、明らかに酔っぱらった男が僕に向かってそう言った。


「……すみません」


 僕は頭を下げて謝った。


 僕は走った。走って走って、そして、すぐに息切れを起こした。

 地面に倒れこんだ。土があった。ここはやわらかい。コンクリートじゃない。

 近くの公園の花壇の中か。


 花の匂いがする。見上げると、アサガオが咲いていた。


 ああ、花は強いな。こんな暗闇でも力強く咲くんだ。誰かを傷つけることもなく、誰に不満を言うでもなく、ただ咲く。咲いたその姿が人の心を癒すこともあるのだから、花はなんと偉大だろう。

 それに比べて、僕は。


「……なにしてんの」


 声がした。とても、優しい声だ。


「お兄ちゃん、そんなところで寝ていたら、風邪ひくよ」


 凛はとても魅力的に笑った。




「あたしさー。涼が人を殴るような人間だと思わなかったよ」

「……僕もだよ」

 公園のベンチに座っていた。

 凛は僕に身を寄せている。

 僕は全身の力を抜いていた。

「初めに聞いたとき、『うぇ!?』って自然に言っちゃったもん」

「ははは。それはその場で聞きたかったな」

「でしょ?」

 凛はまた、ふんわりと笑った。暗闇に凛と咲くアサガオのように。


「誰にでも失敗はある。大事なのは失敗しないことではなく、失敗から何を学ぶかである」


 凛が唐突にそう言った。

 もう一度、彼女は微笑む。


「誰の言葉だ、それは」

「わかんない。なんとなく思いついたから言ってみただけ」

「なんだよそれ」


 凛は空を見上げた。

 つられて僕も顔を上げる。

 分厚かった雲の切れ間から、一つだけ小さく光る星が見えた。あれは何という星だろう。星座でもわかれば判断できるのだが。


「あたしさー。小学校のときに友達と大喧嘩したの」


 凛が空を見上げながら、口を開く。


「その子がテストで百点取ったのを自慢してるからむかついて、そんなの大したことないじゃんって言ったら、いつの間にか言い合いになって、最後にはつかみ合いの大喧嘩してた」

「それは、なかなか狂暴な小学生だな」

「次の日から、あたしはクラス全員に無視されるようになった」

 僕は軽口を叩こうとして、やめた。

「人って誰も信じられないって思って、あたしは本音を言うのをやめた。表面を取り繕って、底の浅い会話を続けることに熱中した」

「ほお。お前がああなったのはそういう理由からか」

 凛が僕の目を見た。とても強い瞳をしている、そう思った。

「そうだよ。あたしはそれから人が信じられなくなった。自分の外側でだけ人と話して、自分の内側には自分しかいないようにしてた」

「それで?」

「藍さんに会ってさ」


 ずきんと、右手の拳が痛みを発した。

 吐く物なんてないのに、また胃が締め付けられる思いがした。

 凛は僕の表情が凍ったのを見て、そして何も言わずに、また続けた。


「藍さんは優しい人だと思った。優しくて、弱い人だと思った。あの人は、ほんとうに優しくて、相手のことをよく考えてる。けど、自分を守ることを知らない。相手のことしか頭になくて、自分の心がどうなるかをまるで考えていない。そう思った」


 唇の端を強く噛んだ。血が滲み、口内に鉄の味がする。けれど、僕は噛み続けた。そうしたら、胃の痛みも少しはましになる気がした。


「あたしはあの人をだから、信用した。あの人はとても弱くて、あたしをだますことなんて考えもしない。それどころか、あたしから自分を守ることさえしない。そう思った。だから、あたしはあの人に自分の内側を見せることにした」


 月は相変わらず見えないが、それでも、どこか公園内に差し込んでくる光があった。

 星。気づけば、雲の切れ間は大きさを増し、そこから差し込む星の光が真っ暗な公園をほんの少しだけ照らしていた。


「でも、たぶん、そうじゃないんだね。あの人は自分を守ることを知っている。けれど、あの人は自分と他人を同時に守ることを知らない。ただ、自分を守るか、相手を守るか、そのどちらかしかできない。だから、その時々で選択する。守りたいと思う相手には、自分のことなんて放り出して、その相手を守ろうとしてしまう。どうでもいい相手からは、自分を守ろうとする」


 暗闇なのに、少しだけ明るい。ほんの少しだけどこか輝いている。不思議に僕はそんな光景を目にしていた。


「藍さんは涼を守ったんだね。何かから。涼を傷つける何かから。だから、代わりに自分が傷ついた」


 胸が締め付けられるように痛い。唇から血が滲んでいた。右手の拳がじくじくと疼痛を発する。

 凛は僕の唇に手を伸ばした。ハンカチで唇の血をぬぐい、それを僕の口の中に突っ込んだ。


「これでも噛んでなよ。唇噛むより、ましでしょ」

「ふぁふぁ、ふぁすかる」

「何言ってるかわからない」


 凛はまた、どこか輝く笑顔を見せる。


「藍さんが涼を守ったのなら、藍さんを守るのは誰なのかな」


 ハンカチを強く噛みしめる。布の味がした。それと、凛の匂い。


「ふぁふか」

「だから、何言ってるかわからないって」


 ハンカチを吐き出した。あとで洗って返そう。血もついてる。しっかり洗濯しよう。


「僕か」

「それ以外にいる?」

「いないな」

「なら、涼がやりなよ。あんなに仲良くしてたじゃん。涼の気持ちは、たかだかその程度で萎えるものなの? だとしたら、もう涼があたしに説教する資格はないね」

「……残念だが、お前に説教するのが僕の人生の楽しみの一つだから、その資格を手放す気はない」

「なにそれ。気持ち悪いよ。お兄ちゃん」

「猫撫で声で『お兄ちゃん』なんていうお前も十分気持ち悪い」

「当たり前でしょ? 兄妹なんだから、気持ち悪さも似てるの」

「嫌な兄妹だな」

「まったくね」


 言って、凛は笑った。軽やかに。風のように。雲を吹き飛ばす風のように。


「さて、帰ろっか、涼」


 立ち上がった凛が僕に手を伸ばす。

 僕はその手を取ることなく、自分で腰を上げた。


「かわいくないお兄ちゃん」


 凛が頬を膨らませて言う。


「かわいい妹」


 僕は誇らしげにそう言う。


 二人で並んで家に帰った。

涼風(涼風)

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