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あいだけに  作者: huyukyu
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アイゾウ

 藍さんの弱みを知ると言っても、本人に直接聞くことはしない。

 彼女の弱みを知ることが彼女を傷つけてしまうことだとしても、もう僕はためらわない。けれど、それを直接彼女の口から聞くということはまた、違う気がする。それは嫌がる彼女に無理やり言うことを聞かせることであり、たとえ彼女を助けるためであっても、僕がそれをするわけにはいかない。

 ならば必然、僕は彼女以外から、その秘密について情報を得なければならない。

 だが、僕には一応、当てがある。

 が、もちろん、その当てというのが頼りにならなかった場合に、保険として打っておくべき策がある。


「栗原、頼みがあるんだ。明日からでいいんだが、藍さんと同じ小学校出身か、もしくは同じ中学校出身の人間を探してくれないか?」

「それはつまり、その人たちに藍さんの小学校時代か中学校時代の話を聞きたいってこと?」

「ああ、そうだ」

「わかった。わたしもそれほど人脈があるわけじゃないけど、できる限り探しておくね。でも、何で明日からなの?」

「今日は別の用事があるからだ」


 藍さんと、あの憎きクソ野郎のデート。もとい、脅迫を盾にした卑劣な犯罪行為。それを監視せねばならない。

 あいつが藍さんに指一本でも触れようものなら、あるいは、藍さんを肉体的、精神的に傷つけようものなら、脅迫だなんだと関係なく、あいつを藍さんから力づくで引き離してやる。だが、今すぐにはそうしない。秘密を知られたくないという藍さんの気持ちを慮るべきであるし、脅迫に対して暴力で返すのも、あまり良い解決法とは言えないからだ。

 そもそも僕にどれだけの戦闘能力があるかという話だが、それは相手も同じこと。

 殴られようが、武器を取り出されようが、捨て身であいつを屠ってやる。

 ……まあ、そんな風に今の僕はかなり狂暴なので、あまり理性的に動ける自信はない。

 今日の授業中だって、できるだけあのクソ野郎の顔を見ないように必死だったのだ。見れば必ず、あいつを殴りたくなる。

 なので、あいつを監視する際にも栗原についてきてもらって、僕のストッパーになってもらいたい。


「……わかったよ。わたしにできることはさせてもらう。藍ちゃんのことも心配だしね」


 栗原はそう納得してくれた。彼女は心を閉ざした藍さんに拒絶されても何度も話しかけてしまうぐらいのお人よしでお節介。僕が本気で頼めば、きっと応じてくれると思っていた。




 放課後、僕と栗原はばらばらに家に帰るふりをして、再度正門近くで合流する。

 教室を出る際、なんとなく背中に視線を感じた。

 以前からもう一度、席替えをしたので、僕の席は教室の中程、藍さんの席は窓側の一番後ろの席になっている。ちょうど、その方向から、視線を。

 けれど、僕は振り返らなかった。

 振り返って、そして、もう一度彼女の顔を見てしまったら、本当に何をするかわからない。

 クラス内でもほとんど孤立した、友達のいない男子生徒。

 そんな僕が我を見失ったら、最悪、テレビでよく報道されているような、『あんなことする子には見えなかったんです』とか、『とってもおとなしい子で……』とかその類の言い方をされるような、そんな危ない人間になってしまうかもしれない。

 だから、僕はそのまま教室を出た。

 栗原と正門出口を見張る形でできるだけ目立たないよう、校舎の陰に隠れる。

 藍さんの家は正門出口からほど近い。また、遊びに行くにしても、何をするにしても、駅前に向かうバス停があるのは正門側。わざわざ二人が何もない裏門から出る理由もない。

 ゆえに、ここで待つ。


「……相田君さあ」

 そばで同じように息を殺している栗原がひどく気遣うような声音で言ってくる。

「……なんだ?」

「もう少し顔をどうにかできない? それと、雰囲気。正直、一緒にいるわたしもけっこう怖いんですけど。君、もともとかなり怖い顔してるし」

「……そんなにか?」

「……うん。小学生が見たら、怖がって寄り付かないよ、絶対」

 そんな鬼みたいな顔をしてる自覚はなかったのだが、けっこう優しい栗原がそう言うからにはたぶん、相当恐ろし気な表情をしているのだろう。

 だが、どうしようもないものはどうしよもうない。

 僕にとっては藍さんは日常のすべてだ。そんな相手をむくつけき男に取られて心中穏やかではいられない。いてたまるものか。冷静でいる気もないし、いたくもない。

「せめて、目立たないようにしようね。なんか、背中からオーラ的なものが出ている錯覚さえ感じるから」

「……すまん」

 そこまで言われれば、少し自重しよう。強引に僕に付き合わせてしまっている栗原にも悪い。

 深呼吸を何度かして、僕は気持ちを落ち着けようとした。

 しかし、

「っ! ……来たよ」

 栗原の言葉に慌てて、目を正門に戻す。

 斎藤努と藍さんが玄関から出てくるところだった。

 斎藤はふてぶてしいにやけ面を顔面に張り付けて、しかし、どこかつまらなさげな態度で。

 藍さんは完全に俯いて、斎藤にもどこにも目を向けようとしない。

 二人の間には、六十センチほどの距離があり、それが詰まる気配もない。斎藤がその距離を詰めるような素振りも、藍さんが距離を取ろうとする素振りもない。


「なんだか、これから遊びに行こうっていう男女の姿じゃないね」


 栗原が言う。

 僕としてはそう見えない方がよっぽどましなのだが。

 彼らが正門を出て、バス停に向かう。

 やはり駅前あたりに行くつもりか。

 まあ、この辺には何もないし、当然の帰結か。


「どうする? 同じバスに乗ったら、さすがにばれちゃうと思うけど」

「栗原の登校手段は?」

「バスと電車だけど」

「家はどの辺?」

「……学校の最寄駅から二駅のところ。ねえ、それ、今関係あるの?」

「いや、特に。だけど、後で改めて、手伝ってくれたお礼でもしようかと」

「……わたしの家に来るの?」

「わからないけど、なんかとりあえず聞いといた」

「……なにそれ。……で、結局、どうするの? タクシーでも借りる?」

「いや、そんな金はない。どうせ行くとしたら駅前だろ。次に来るバスはたしか、終点駅だったし。僕は自転車だから、それで先回りする」

 栗原がなんとなく、所在なさげに尋ねる。不安げな表情に、もの言いたげな瞳。

「わたしは?」

「二人乗り」

「……交通規則」

「知ったことか」

「……わたし重いかも……」

 お腹に手をやり、栗原がもじもじする。

 なんと言っていいかわからなかった僕はとりあえず、

「……高校生女子の体重なんて、誰も大して変わらん」

 と言っておいた。




 ……死ぬほど疲れた。

 次のバスが来るまで十分くらいしかなかったので、先回りするにしても忙しなかった。

 急いで駐輪場まで行って自転車を持ってきて、栗原を乗せ、斎藤にばれないように裏門から出る。

 ただでさえ遠回りな上に、人を一人乗せている。

 毎日、学校まで一時間の道のりを走破しているとはいえ、所詮は帰宅部。体力には限界がある。

 その上、バスが駅に近づいてくると、いくつか目ぼしい娯楽施設があるので、そこで二人が降りないかを確認する必要もある。

 一々、バス停で止まっては降りる客を確認し、再び、置いていかれないように全力でペダルを漕ぐ。

 街中がそれなりに混んでいなければ間違いなく、バスは見えないところに過ぎ去っていただろう。

 どうにか、終点の駅にバスが着いたときには、僕の体力は尽きかけ、息も絶え絶えだった。

 走っている最中、「わたしは降りて走ろうか?」や、「わたしが代わりに漕いでもいいよ」や、「……がんばる相田君、かっこいいよ」などの栗原の気遣いや激励がなければ、まず間違いなく力尽きていた。

 たとえお世辞でも後ろに座っている女の子にかっこいいと言われるのは決して悪い気分ではない。

 ほんと、彼女には後でできるかぎりのお礼をしなくては。


「……少し休む?」

 自販機で買ってきたスポーツドリンクを差し出し、栗原が心配そうな顔で訊いてくる。

「ありがとう。……いや、そんな時間はない。すぐにあいつらを追いかける」


 斎藤と藍さんはもう、バスを降りて繁華街の方に向かっている。ここで見失ったら、ここまで全力で漕いできた努力が水の泡だ。


「……じゃあ、行こう」


 栗原に支えられて、歩き出す。




 二人がまず、入っていったのはゲームセンターだった。階ごとにいくつかの店が入っている雑居ビル。一階にゲームセンター。通り過ぎて上の階に行くのかと思ったら、普通に中でゲームを吟味し始める。

 最初に行くのがゲーセンか。センスがあるのかないのかよくわからないチョイス。


「栗原、もし男と二人で出かけるとして、最初にゲーセン連れていかれたらどうする?」

「……時と場合にも寄るけど、わたしはああいう雰囲気好きじゃないから、後腐れのないよういろいろ気を遣って適当に楽しんだふりして、さようなら」


 彼女はひどく冷めきった表情でそう答えた。

 優しさを感じないでもない回答だが、冷静なその言い様に、軽く怖気(おぞけ)を感じる。


 斎藤と藍さんが向かったのはUFOキャッチャー。

 中に大多数のぬいぐるみが内蔵されている。

 藍さんの好きそうな種類のものがたくさんあった。

 しかし、彼女はまるで顔を上げようとしない。終始、うつむいたままで、その表情はやや離れた同じくUFOキャッチャーから覗いている僕には読み取れない。

 斎藤はコインを入れ、中のとあるぬいぐるみを取ろうとしたようだったが、失敗。

 もう一度コインを入れ、失敗。

 三度目でようやく目当てのものを取れたらしく、出てきたぬいぐるみを藍さんに渡そうしている。

 しかし、藍さんはそちらを見ない。

 どころか、まず斎藤の行動にも何ら興味がないように、じっと俯いている。

 しばらくぬいぐるみを差し出していた斎藤も、何の反応もない藍さんにやがて諦めたようにぬいぐるみを握りしめて、自分の鞄にしまった。

 一応、しまうんだな。その場で投げ捨てるかと思った。

 その後、二人はいくつかの筐体を冷やかしたようだったが、相変わらず、藍さんに反応はなく、ずっと斎藤が空回りしている印象だった。

 あいつが何か声をかけても、藍さんが何か言っている様子はなく、いつまでも無言。

 しかし、そんな様子にも斎藤はあまり頓着していないように、へらへらと笑っていた。


 なんだろうか。あいつの態度。ほんとうに九々葉さんのことが好きでやっているのだろうか。彼女の反応にまるでこだわっている素振りがない。どっちでもいいみたいな態度だ。

 まるで、もう目的は達成してるみたいな。


 次に、彼らが行ったのは寝具店だった。


「は?」「は?」


 栗原と口を揃えて、思わずそう口にした。


 仮にもデートで、寝具店だと……?


「ねえ、斎藤は何がしたいの?」

「……僕に訊かれてもわかるわけがないだろ」


 好きな女の子を誘って寝具店に行く奴の気が知れない。

 

 斎藤と藍さんは――正確にはずっと俯いて何も見ようとしない藍さんを連れた斎藤は、最初は枕を吟味していて、次に布団、毛布の感触を確かめ、最後に抱き枕カバーを見て、何も買うことなく出て行った。

 いや、まあ、そこでガチの布団とか毛布買われても、どう反応すればいいかわからなかったけれど。

 でも、いくら何でも寝具店って。ほんとに何考えてるのかわからん。


 そして、次に彼らが行ったのは本屋。本屋にカフェがくっついている店。ブックカフェというのだったか。……そんなおしゃれなものがこの近辺に存在していることを僕は初めて知った。

 まともと言えばまともt連だろうか。

 まあ、相手が藍さんなら、悪くない選択肢とは言えるのだが。

 なんとなく、違和感を感じる。

 ゲーセンに寝具店挟んでブックカフェに行っている時点で、相当違和感バリバリなのは確かなのだが。

 まあ、ことここに至れば、なんとなく、あいつの意図も少しはわかる。

 ゲーセンに行ったのは、藍さんがぬいぐるみを好きなのを知っていたからだろうし、寝具店に行ったのは藍さんがよく眠る人で、眠るのがおそらく好きだからだろうし、ブックカフェに来たのは藍さんが本を好きだからだろう。

 要するに、藍さんの興味関心がある分野の店に行っているということだろう。

 それ自体はおかしくはない。……寝具店に行くのだけは納得できないが。

 だが、一方で斎藤の態度が腑に落ちない。

 行っている店から言っても、藍さんの気を引こうとしているのはたしかかもしれないが、それにしても、反応のまったくない藍さんに対して、イラついたところもないし、ずっと無視されていても大してなんとも思ってないみたいだし、何よりそれでへらへら笑っているのが異常だ。異常で、違和感がある。


 興味を引きたいし、喜んでもらいたいけれど、別にそうでもなくとも目的は達成している。


 言葉にするならば、そういう感じの印象を受ける。

 すでにこうして藍さんを連れ出して二人でデートに近い何かをしているだけで目的は達成され、それ以上は別にどっちでもいいみたいな、そういう態度。

 何なのだろう。


 ブックカフェの店内はそれほど広くはなかったので、一緒に入るわけにもいかず、僕と栗原はその向かいにあるファストフード店に入って、二人の様子を窺っている。

 斎藤と藍さんは同じテーブルについてはいるものの、まったく別のことをしている。

 斎藤はブックカフェに入ったのにもかかわらず、ずっと携帯をいじっている。小刻みに指が動いているところを見ると、アプリでゲームでもやっているのだろう。

 藍さんは店内の本を借りて、ぼうーっとそれを読んでいる。斎藤に視線を動かすことは一切なく、ただ一心に頑なに本だけを読んでいる。


「……あれって、監視する意味ある? なんかもう、お互いに興味なさげーって感じだし、そのうち斎藤も飽きるんじゃないの?」

 栗原がアイスティーを飲みながら、そう言ってくる。

 ポテトを口にし、微炭酸を飲みつつ、僕は答えた。

「……だったらいいんだけどな」

 僕にはそれで終わるようにはあまり思えない。

 だって、斎藤のやっていることはちぐはぐだ。

 脅迫を使ってまで藍さんと遊ぶことを強要したのに、いざやっていることと言えば、彼女を連れて適当に店を回るだけで、藍さんにそれ以上何を求めるでもない。しかも、自分がほとんど相手にもされず、言葉さえ交わしてくれないのにも関わらずだ。そして、それに怒ることもない。ただただ嫌な笑みを浮かべているだけ。

 リスクに結果が見合っていない。脅迫なんてバレれば警察沙汰だ。それを使ってまでやることが女の子とのデート。それもただの名ばかりのデートだ。とても脅迫に見合う利益とは思えない。

 犯罪を犯しているという意識がないにしろ、それで求める対価があまりにも小さすぎる。


「……栗原、今更だけど、今日大丈夫か? 予定とかない?」

「……ほんとうに今更だね。なにもないよ」

「この後も大丈夫?」

「……門限とかないから、何も問題はない」

「そうか」


 そんな話をしているうちに、斎藤と藍さんがブックカフェから外に出てきた。

 いつの間にか、辺りは暗くなっている。

 時刻は七時。

 夏場とはいえ、さすがにもうそろそろ太陽は沈む。

 彼らは、いや、斎藤は、いつまで藍さんを連れまわすつもりだろうか。


 二人はブックカフェを出て、歩き出した。

 どこかの店に入る様子はなく、曲がり角を曲がって、人通りの多い大通りから一本外れた脇道に入る。

 その後ろを僕と栗原がついていく。

 彼らは明るい通りからより暗い方へ暗い方へ。人通りの少ない方へ。少ない方へと進んでいく。


 ……嫌な予感がする。


 そして、二人は本当に人気のない路地裏に着き、立ち止まった。

 建物の陰からその様子を覗き見る。

 斎藤がこちらに背を向けて立っている。藍さんはその後ろで立ち尽くしている。

 すると、斎藤が突然、振り返って藍さんを抱きしめた。


「……いや……やめて!」


 僕らのところにまで聞こえるほどの大声で藍さんが拒絶した。両手で斎藤を突き飛ばす。

 斎藤は後ろにあった自動販売機に頭をぶつけた。


「……ってえな。なにするんだよ」


 なにするんだよはこっちの台詞だ。僕の藍さんにその汚い手で抱きつきやがって、栗原に止められなければすぐにでも飛び出してお前のその汚い顔面をめちゃくちゃにしてやったのに。


「……もうやめてください。あなたはどうしてわたしにこんなことをするの? わたしはあなたのことなんて」

 藍さんがとがめるような表情で、そう言った。

 少なくとも、それは僕にとっての疑問でもあり、先ほどから感じている斎藤のちぐはぐな態度に関する解答になり得る質問のはずだった。

 が、


「ふっざけんなっ!!」


 突然、斎藤がキレた。

 ダンッと、自販機に右手を叩きつける。

 公共のものに暴力を振るってんじゃねえよ。そして、意味不明に勝手にキレてんじゃねえ。

 藍さんが怯えてるじゃないか。


「お前は俺に何をしたのか覚えてねえのかよ。忘れもしねえぞ。お前は俺を傷つけた。俺を嘲笑って、馬鹿にして、笑い物にした。……覚えてないなんて言わせねえ!」

 今の斎藤の顔には張り付けたような薄ら笑いなどどこになく、ひどく怒っているような、泣いているような判断のつきづらい表情がそこにはあった。

 藍さんは困惑している。

「……いつ、わたしがそんなことを?」

 藍さんにも本気で覚えがないらしい。

 斎藤が呆れたように、ため息を吐く。

「お前、何にもわかんねえのな。成績は良い癖に。……今日、お前は何で俺についてきた? 相田とかいうお前の大好きなあの根暗野郎を振ってまで、何で俺の言うことに従った? それがお前の質問の答えだ」

 ……つまり、あいつが口にした脅迫の内容と、あいつ自身が藍さんに傷つけられたという出来事に関連性があるということか。

 藍さんは記憶を探るようにこめかみに指を当てていたが、やがて震える声で言った。

「……もしかして……日比原君……なの?」

「……そうだよ。名前が変わっただけで忘れるかよ、普通」

 

 藍さんと斎藤は昔の知り合いなのか……。二人は昔の知り合いで、だから、斎藤は藍さんの弱みも知っていたし、彼女の趣味嗜好も知っていたということなのか。

 名前が変わっていたから、藍さんはそれに気づかなかったと。


「お前のせいで、俺の小学校時代は暗黒だったよ。クラスでは良い笑い物にされるわ。いじめには遭うわ。成績が落ちて親に殴られるわ。挙句の果てに不登校。中学時代もその延長線上。お先真っ暗。……死ぬほど努力してようやく何とか高校に入れたと思ったら、お前がいるんだもんな」

 斎藤は嘲るような――自分を嘲るような笑みを浮かべる。

「でも、正直、胸がスカッとしたぜ。俺を最悪に陥れた女がクラスで孤立して、痛い子扱いだもんな。どいつもこいつもお前を見下すような目で見て、お前はクラスの最底辺。笑えたぜ。そのままずっと、面白みの欠片もねえ高校生活を送ってろって思ったよ。……だってのによぉ」

 歯をむき出しにした斎藤は足元の空き缶を思い切り踏みつける。ぐしゃりと缶がつぶれ、残っていた中身が汚れたコンクリートに染み出す。

「あの相田の野郎がお前に声なんかかけやがって。ぼっちはぼっちらしく、孤独に酔いしれてろってんだよ。あんな社会の最底辺に生きてるような奴が身の程も弁えずお前に話しかけやがって。しかも、お前はそれを受け入れた。……底辺同士気が合ったのか? ……はっ、笑えるよな」

 言いつつも、斎藤の顔は全然笑ってるようには見えない。むしろ、どこか悔しそうだ。

「お前と相田が話してんの、いつも見てたぜ? 初めは仏頂面してたお前がよお、だんだんとあんな奴に(ほだ)されて気持ち悪く相好崩しやがって。てめえみてえな最低の女が、あんなふうに笑うんじゃねえ!!」

 怒号とともに、斎藤は自販機を蹴り上げる。

 ずごんと、ずいぶん重そうな音が鳴った。

 自販機に何の恨みがあるんだよ、お前。

「……俺はなあ! お前みたいな女が一番、気に食わねえ。人を散々泥沼に陥れた挙句、自分だけ幸せになろうとしやがって。虫のいい話だぜ。お前、俺に何したか覚えてるよなあ? 俺があのとき……あのときっ! ・……どんだけ……つ、つらかったと!! 思ってんだっっっ! ……なのに……なのになのになのになのになのに……。お前は何で、あんなに楽しそうにしてやがんだ!!! 俺は……俺は!!

 ……最低のくず女は、ずっと地べたに這いつくばってろよお!!」

 つぶれた空き缶を蹴っ飛ばしながら、斎藤は叫んだ。


 何があったか具体的に語られない以上、何も言うことはないが、少なくともこれだけはわかる。

 幸せな奴の足引っ張って自分と同じ泥沼に引き込もうとするこいつは、最低のくず野郎だ。


「だから俺はさあ。お前をあいつから奪ってやる。俺からすべて奪ってどん底へ突き落としたお前から、全部奪ってやる。お前に幸せなんてやるもんかああ。てめえはずっと地獄にいろよおおお」


 狂ったようにそう叫んで、斎藤は藍さんを壁に押し付けた。

 

「……っ! ……やめて……っ!」


 藍さんは必死に斎藤を押しのけようとするが、彼女の腕力ではそれはかなわない。

 僕は何も考えずに、建物の陰から飛び出した。全力で脚を動かす。


「気分はどうだよお。好きな男との仲を裂かれて、好きでもねえ男に……。……っくそ。好きでもねえ男に、全部奪われる気分はよお」


 斎藤は藍さんの腕を肘で抑え込み、両の掌で彼女の顔を押さえつけて、無理やり唇を寄せようとした。


 それを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 周囲のすべての光景がゆっくりと動いて見える。


 男の唇が、彼女の唇に近づいていく。


 頭が沸騰する。


 彼女の瞳が僕の姿を捉えて、大きく見開かれる。


 自分の感情が抑えきれない。


 はるか後方から、僕の名を呼ぶ声がする。ひどく引き伸ばされて、まるでまともな音に聞こえない。


 ゆっくりと近づいていく、自分の脚がもどかしい。


 だが、間に合う。間に合わせる。


 僕は無我夢中で何かを叫んだ。自分でもなんと言っているかもわからない。


 男の背中がびくりと震える。まるで、いたずらのばれた子供のようだ。僕は思った。


 男が振り向く。僕の拳が男の顎を捉える。


 ゆっくりと吹き飛んでいく体。拳の先が痛い。人を殴るのなんて、生まれて初めてだ。


 男が地面に倒れる。僕はもう一度、拳を握りしめた。倒れている相手に近寄る。

 

 ふらつき、そして、男は起き上がった。


 こちらを見る目がひどく怯えている。


 なんだ、その目は。お前は自分の行いを覚えているのか。


 僕は殴りかかった。男は反射的に手のひらで受けた。


 膝を蹴った。バランスを崩して相手は倒れた。


 僕は馬乗りになった。顔を殴った。何発も。何発も。何発も。何発も何発も何発も。


 男からも殴られた。顔を腹を腕を。


 だが、もはや痛みなど感じなかった。僕は構わず、殴った。何度も。何度も。何度も。何度も何度も何度も。


 血が滴った。男の鼻から血が流れた。男の額から血が流れた。男の口から血が流れた。


「ころしてやる」


 声が聞こえた。誰の声かわからなかった。


「ころしてやる」


 もう一度、聞こえた。それはとても身近な人間の声な気がした。


「ころしてやる」


 それが自分の言葉だなんて、僕は信じたくなかった。


 男の全身は震えていた。けれど、男は僕の背中を蹴った。


 反射的に腰が浮いた。男は僕を押しのける。


 這いずるようにして、男は逃げていく。だが、その先は壁だ。お前は逃がさない。


 僕は地面を蹴った。今まで経験したことのないほどのスピードで、僕は男に迫った。


 最高だった。この男の顔面を思いっきり吹き飛ばせるかと思うと、胸が高鳴った。


「だめえええええええ」


 甲高い声が聞こえた。今まで聞いたことのない声だ。誰の声だろうか。聞き覚えがない。


 次の瞬間、僕の拳は確かな衝撃を得た。


 全身の体重を込めたからか、僕はそのまま倒れていく。


 だが、なんだろう。この感触。この気持ち。


 僕は一体、何を殴った。


 頭に血が上っていく。


 僕は気を失った。

愛憎(藍憎)

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