カンリョウ
授業開始のチャイムが鳴った。
僕はようやく我に返って。
でも、藍さんと斎藤がいる教室には戻りたくなくて。ただそこでぼうっとしていた。
「……大丈夫?」
声がして振り向くと、栗原るりが立っていた。
「藍ちゃんと斎藤君が返ってきて、藍ちゃんはかつて見たことないほど悲しい顔してるし、斎藤君はすごいむかつく顔してるし、君は返ってこないしで、一体何があったの?」
「……それは僕が訊きたいよ」
藍さんは一体、あいつに何を言われたというんだ。何を言われれば、何を言えば、一体あんなふうに変わってしまう。あいつは一体、藍さんとどんな関係なんだ。
「とりあえず、さ」
栗原はもはや泣きそうにすらなっている僕を見て、ことさら明るい笑顔でこう言った。
「一緒に授業サボる?」
僕は黙って頷いた。
僕と栗原は図書室を出た。授業時間中、図書室には司書の人がいる。個人スペースには見回りにもくるだろう。公然とここでサボりを敢行するわけにはいかない。
僕は思い当たる場所があったので、栗原を伴ってそこに向かった。
扉を開くと、
「やあ」
と、一木先生はいつものようにそう挨拶をした。
生徒相談室。ここはこういう校内で居場所を失った生徒が来る場所である。
「……部屋を借りてもいいですか?」
「ええ、かまいませんよ」
僕の声は明らかに震えていたが、それでも一木先生はまるで普段と変わらない声音でそう言った。隣の栗原にも挨拶をするだけで、余計なことは聞いてこない。
区切られた個室に入り、僕は息をついた。
「……」
「……」
栗原も僕もしばらく何も言わなかった。
かなり気まずいが、何を言えばいいのかよくわからない。
藍さんを斎藤に取られた?違う。完全に取られたのだとしたら、僕はこれほど傷つかない。諦めもつく。いや、つかないが、それでも、なんらかの納得というか、理屈はわかる。
藍さんが僕を裏切った?もちろん、違う。藍さんは脅迫に近い何かをささやかれてあんな風になったのだ。彼女を責めるなんてありえない。
藍さんが僕の目を見てくれなかったことが、何も説明せず、まるで僕に心を閉ざすようだったのがいや?いいや、違う。僕は別に彼女のすべてを知ることなんて不可能だと思っている。秘密はあってしかるべきだし、言えないことがあって当たり前だ。悲しいのは悲しいが、それだってこれほど落ち込むことではない。
では、僕は何がショックだったのか。
僕はただ――。
僕はただ、悲しむ藍さんに何もできない自分が、何を言っていいのか、どうすればいいのか、何もわからなくなってしまった自分が、ただただ情けなかった。
藍さんにあんな顔をさせたまま、あんな男に藍さんの肩を抱かせたまま、何もできなかった。何もしようとしなかった自分がいやだった。
「何があったかは、なんとなくわからないでもないけど」
そこで栗原が沈黙を破り、言葉を発した。
「相田君の口から、聞いてもいい?」
僕はまた黙って頷いて、語りだした。
そう長い話でもない。概要はすぐに話せる。
だが、長い話でもないがゆえに、とっかかりが少ない。
「つまり、斎藤は藍ちゃんを脅したってこと?」
栗原が言う。
「わからない。何を言ったかまったく聞き取れなかった。脅したのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わかるのは、それが藍さんを従わせるだけの効力を持った言葉だったということだけだ。それと、それを聞いてから藍さんの様子がおかしくなり、とても……悲しい顔をするようになったってこと」
「悲しい顔ね……。ほんと、見ていられなかったよ」
教室に戻ってきたときの藍さんを思い出しているのか、栗原はそう言って俯く。
そして、ふと何かを思いついたように顔を上げる。
「でも、悲しい顔っておかしくない?」
「何がだ? 脅されて、無理やり従わされてるんだろ。悲しくて当たり前じゃないか」
「そうなんだけどさ。なんて言えばいいんだろう。……あの顔はほんとに悲しいだけなんだよね。脅されるのがいやだとか、斎藤が気持ち悪いとか、そういうのじゃなくて、ただ悲しいの」
栗原の言っていることがよくわからない。
「ただ悲しいだけなのはおかしいのか」
「おかしいよ。絶対、おかしい!」
栗原はダンッとテーブルを叩いて主張する。
いや、それ学校のものなんだから、叩くなよ。
「僕にはわからないんだが」
「じゃあ、考えてみてよ。君が、すごーくむかつく女の子に、何か弱みを握られました。女の子は弱みを人に話さない代わりに自分に従えと言ってきます。さて、最初に君が思うことは?」
「ふざけんなよ?」
「そう。その通り。最初にあるのは怒りのはずです」
「でもさ、藍さんだったら」
「そう。藍ちゃんみたいに優しい子だったなら、怒りじゃないかもしれない」
「それが悲しみなんだろ?」
「違う! あの子は優しい子だよ? でも、なんでもかんでも相手のことを受け入れる子でもないし、いやなことはいやだと言う子だよ」
「どうしてそれがわかるんだ?」
「……わたしが一番最初に話しかけたとき、あの子はわたしと話すのが嫌かと訊いたら、嫌だって言ったからね」
ああ、そういえば、栗原は心を閉ざしていたころの藍さんに話しかけ続けた稀有な人間の一人だったっけ。
「だからね。たとえ藍ちゃんでも、好きでもない男とデートをしろと、弱みを握られて従わさせられたら、まず初めに嫌悪感を抱くはずだよ、まず間違いなく。そこで悲しむ女の子なんていない」
断言しやがった。まあ、でも、その意見は真っ当な気がする。
「じゃあ、何で藍さんはあんな顔を?」
質問する僕の顔を、栗原がじーっと穴が開くほど見つめ始めた。
「じーーーーー」
そして、口で効果音を出した。
「な、なんだよ」
「君でしょ」
「なにが?」
「藍ちゃんが悲しんだ理由」
「は? なんで」
あの状況で僕を理由に藍さんが悲しむって……そんなこと、あるだろうか。
「どうして、僕が藍さんを悲しませることになるんだ?」
「正確にはそうじゃないんじゃないかな」
「ますますお前の言っていることがわからないんだが」
「弱みってさ、人に知られたくないから弱みなんだよね」
栗原はまるで指先を指示棒か何かのようにくるくる回しながら言う。
「それは当たり前だろう。人に知られてもなんともないことなら、弱みでもなんでもないじゃないか」
「そう。それは当たり前。でも、わたし思うんだけど、藍ちゃんって別に自分に都合の悪いことを誰かに吹聴されてもかまわないって思ってる気がするんだよね」
「藍さんがか? ……そういう感じ、なくはないな」
「うん。なんか、自分なんてどうでもいいって思ってそうだよね。そして、そんな藍ちゃんが弱みに思うことがあるとすれば、弱みを知られて困る人間がいるとすれば、それは――」
栗原は回していた指を止めて、僕の胸元に持ってくる。
「――君」
栗原の言いたいことが大分わかってきた。
「つまり、僕に知られて困ることを斎藤が知っていて、それを黙っている代わりに一緒に遊びに行け、って脅したってことか」
「うん、そう。そして、もっと言うなら、たぶん、知られて困るどころか、知られたら確実に嫌われると、藍ちゃんが思うレベルのものなんじゃない?だから、あんなに悲しそうな顔をしていたんだと思うよ」
「僕に嫌われたくないから、か」
それは……なんというか、見損なってほしくない、と思う。藍さんにどんな秘密があったところで、僕が彼女を嫌いになるわけがないのに。
「でも、そうすると難しいよね……」
栗原がぽつりとつぶやく。
確かにそう。それはとても難しい。
「難しい、か。……そうだな」
「藍ちゃんが好きでもない男とデートしてでも知られたくない、と思っていることだよ。無理やり聞き出す……なんてできるわけもないし、脅してる本人の斎藤が言うわけもない。知ることがそもそも難しい。そして知ったところで……」
「藍さんが喜ぶわけもない、か」
なら、どうするべきなのだろう。
どうしても藍さんが僕に知られたくないと思っていることを、僕が聞き出すのか。それとも、彼女のことを調べて、斎藤に脅されたのはこのことか、このことか、と一つずつ挙げていく? ばかな。そんなことできるわけない。たとえ、斎藤に従うことを止められたとして、藍さんをとても傷つけてしまう。そんなことが僕にできるわけがない。
「ベストなのは、斎藤自身に藍さんの秘密を言わないよう約束させ、なおかつ藍さんのことを諦めてもらうこと」
最善策を口に出し、しかし、それがどれほど難しいことなのか気づく。
「そうだね。それが一番だよね。でも、脅してまで自分と一緒にいさせようとしているってことは、相当歪んだ想いだと思うし、それも難しいかもね」
栗原もそれに同意した。
「脅迫ってことで警察に届け出ることは」
あいつのやっていることそのものはまず間違いなく犯罪の類、脅迫とか強要とか。であるならば、それを警察に通報し、法的にどうにかしてもらうことはできないのか。
「法律わかんないけど、できないこともないのかな? でも、藍ちゃん自身が何で以って脅迫されてるかをまず知られたくないと思っているってことは、被害者自身が自分を被害者だと主張しないってことだろうから、微妙じゃないかな」
否定意見ばかりを述べることを申し訳なく思ったのか栗原の声音もだんだん暗くなる。
それに、本当に脅迫かどうかを指し示す証拠もない。藍さんの態度はたしかにおかしかったし、表情も悲し気だった。けれど、藍さん自身がそう主張しない以上、また、僕が斎藤が何を言ったかを聞いていない以上、それを脅迫だと証明することは、できそうにない。
「……そうか」
これ以上、方策を思いつきそうもなかった。
「どうしよっか」
「どうすればいいんだろうか」
僕と栗原は揃ってため息を吐いた。
「とりあえず、コーヒーでも飲みませんか?」
額を突き合わせて相談する僕と栗原は気づかなかったが、個室の扉が開いていた。
驚いて見ると、一木先生が二人分のコーヒーの入ったカップとソーサーを持ってきてくれていた。
栗原の前と僕の前にコーヒーが置かれる。
「ごゆっくり」
そう言って、一木先生はそのまま部屋から出ていこうとした。
僕は声をかける。
「あの、聞いていたんですか?」
先生は振り返ると、感じよく笑って言った。
「いいえ。『どうしよっか』のところで扉を開けたので何も聞いてませんよ」
「そう、ですか?」
もし聞いていたのなら、なし崩し的に知恵を借りようかと思ったのだが。
そんな考えが意図せずして顔に出ていたのかどうか、先生は少し考えて、
「何についてそんなに悩んでいるのかは知りませんが、一つだけ言えることがあります」
と言った。
「何でしょうか?」
僕と栗原は揃って耳を傾ける。
「そのコーヒー、とってもおいしいですよ」
二人してずっこけた。
「というのは冗談で」
冗談かい。
二人してまじめに聞こうとしてしまったじゃないか。
一木先生は一つ、咳払いをして、もったいつけるでもなく口にする。
「悩める、という時点ですでに答えは出ていると思いますよ」
「それはどういう……?」
栗原が首を傾げて問う。
「たとえば、一人の学生が、留学して海外の大学に行くか、それとも、日本の大学に行くかで迷っているとします。
その学生は小学生のころから海外で勉強するのが夢で、そのために小さなころから英語を勉強してきました。しかし、彼の家は経済的に苦しく、彼が海外に行ってしまうと、彼は父や母、弟や妹、家族に大きな迷惑をかけてしまいます。
さて、彼の出すべき答えはなんでしょう?」
一木先生は先生らしく、生徒の僕らに回答を求めた。
栗原の答えはこう。
「家族に迷惑をかけてまで海外に行かなくてもいいと思います。日本で勉強できることだってたくさんあるし、無理してまでやることじゃない」
僕の答えはこう。
「奨学金でも何でもどうにかしてお金を集めて目途が立ったら行く。どうしようもなさそうなら行かない」
一木先生の模範解答。
「行きたいなら行けばいいじゃないですか」
「えー」「えー」
僕と栗原は揃って、不満の声を上げた。
「先生、それでいいんですか?」
家族とかもろもろの話は一体、何だったのだろう。
「別にいいじゃないですか。本人がどうしても行きたいと思ってるんですから、行けばいい。迷惑とか事情とかそんなものは知ったこっちゃないです」
「でも家族はその分のお金でもう少しましな生活を送れたりとかするかもしれないじゃないですか」
栗原もそう反論する。
「じゃあ、行かなければいいんじゃないですか」
そして、一木先生はあっけらかんとしてそう言う。
「どっちなんですか?」
「どっちでもいいんじゃないですか?」
「それは問題でもなんでもない気が」
それじゃあ、悩む意味ないじゃないか。
そんな僕の言い様にもまるでとらわれていないように、先生は語る。
「私は思います。悩んでいる時点で答えは出ていると。なぜなら、悩んでいるということはどちらの選択肢も、あるいは複数の選択肢についても、その有意性を認めているからです。どっちもいいからどっちか悩む。それだけだと思います。
だから、好きな方を選べばいい。やりたい方を選べばいい。あるいは、その人が自分のやりたいことを抑えてでも何らかの事情を優先したいなら、そっちにすればいい。
結局、単純なんですよ。悩む時点で答えは出ている。なぜなら、悩んだすべてが答えなんですから。どっちを選んでも、何を選んでも、正解。後悔はするかもしれません。けれど、選んだという事実には間違いはないし、何も選べないまま終わるよりはよっぽどいい。
大事なのは意思です。そうしたいと思うから、そうするんだという意思。正しい間違っているの問題ではない。だって、悩んでいるのでしょう。どちらかが正しいと思っているのなら、悩む必要ないじゃないですか。悩んだ時点で、どっちも正しいと思っているのと同じこと。ならどっちでもいい。好きな方を選べばいい。
私の言っていることがわかりますか?」
「わかりますけど、それって結局、好きにしろってことですか?」
「そうですよ。その通りです。好きにすればいいじゃないですか。それで人を傷つけたとして、何が問題なんですか?傷つけたくないなら、傷つけないと思う方を選べばいい。傷つけてもやりたいことがあるならそっちを取る。何もおかしなことなんてないと思いますが」
よくわからない論理で圧倒されたような気はしたが、結局、やりたいようにやれ、とそういうことなのか。
「ありがとございます。先生。わからないですけど、わかった気になりました。それでいい気がします」
「そうですか。それはよかった。じゃあ、冷めないうちにコーヒー、飲んでください」
言って、先生が出ていく。
「で、相田君はどうするわけ? 何を選んでもいいのなら、何にする?」
栗原がどこか混乱した面持ちでそう口にする。
まあ、狐につままれたような気分だよな。
でも、やりたいようにやるっていうのなら。
「僕は藍さんの弱みを知る方を選ぶ」
あの藍さんがどうしても僕に知られたくないと思うこと。あそこまでして隠したいと思うこと。
それを知りたいと思って何が悪い。
それでたとえ藍さんを傷つけたとしても、ならば、その分、僕がその傷を癒してあげよう。
傷なんて忘れるくらい、僕が藍さんを笑顔にしてあげよう。
僕には確信がある。
知ったところで、藍さんをもっと好きにこそなれ、嫌いになることはないと。
だから、知りたい。
藍さんのすべてを知りたい。
「そう。なら、それでいいのよね」
栗原が納得していない顔でそう言った。
決意完了(完涼)




