ヒアイ
夏休みがほど近い。
今日の日付は七月十八日。夏休みは七月二十五日からなので、残り授業日数一週間である。土日を除けば今日を含めて実質五日。それだけでもう一か月近く学校に行かなくていいのかと思うと、涙が出る思いだ。
というのは言い過ぎだが、高校一年の夏休みは一生に一度しかない。高校二年の夏休みは一生に一度しかない。高校三年の夏休みは一生に一度しかない。大学一年の夏休みは一生に一度しかない。大学二年の夏休みは(以下略。とにかく、今は今しか過ごせないので、できるだけ時間を大切に青春を謳歌したいものだ。
そして、僕にとっての青春とは、藍さんとの日々に他ならない。
高校一年、七月の段階でそう断言するのは早計かもしれないが、今は少なくともそうである。
話すように、仲良くなるようになっての日数自体はそれほどでもないものの、深めた絆はそれなりのものだと思っている。天体観測をした。勉強会をした。お泊り会をした。その他諸々の時間を彼女と過ごした。その中でわかったことはいくつかあり、考えたこともいくつかある。感じたことはそれこそ無数のように。
だから、今の僕にとって、彼女は日常のすべてであり、今の僕にとって、彼女の存在はかけがえのないものとなっている。
だから、それを壊そうとする者の存在は僕にとって許しがたいものである。
七月十八日、火曜日の朝、僕はいつものように学校に登校した。
果てしない長さを持ったように感じられる、この高校への道のりを片道一時間かけて自転車で走破する。
毎日のように続けられるルーチンワーク。
下駄箱で靴を履き替え、階段を上り、教室に入る。
いつも通りの朝。
そして、僕は藍さんに声をかけようとして、彼女の席に誰もいないのを見て、一旦、自分の席に鞄を置いた。
最近は、藍さんが僕よりも早く学校に来ていることが多かったが、今日はそうではないのだろうか。
そう思ったが、それ以上考えるより早く、栗原るりが僕の席に近づいてきて言った。
「藍ちゃんなら、斎藤くんに連れていかれたよ。早く行ってあげて。あまり、仲良さげな雰囲気じゃなかったから」
「斎藤? 斎藤努か? どこに行くって言ってたかわかるか?」
「図書室とか聞こえた気がするけど」
「わかった。ありがとう」
栗原に礼を言い、僕は足早に教室を後にする。
図書室に着いた。
この学校の図書室は割合広く、大人数が席について本を読むことのできる閲覧開放スペースと、少人数で集まって相談事や勉強を行うことのできる区切られたブースがいくつか存在する個人スペースとに分かれている。図書委員、または司書の人は閲覧開放スペースにしか基本いないので、秘密の話などをする際などには、個人スペースがよく利用されるという話だ。
藍さんと斎藤もおそらくはそこにいるのだろうと思った。
閲覧開放スペースを通り過ぎ、個人スペースに入り込む。
いくつかあるブースはまだ朝だということもあってほとんど埋まっていない。
その中でただ一つだけ、ドアが半ば閉じられているブースがあった。
それなりに防音の効く場所ではあるので、本来なら外に話し声は聞こえてこないはずだが、こんな時間に誰も来ないだろうと考えてのことか、ドアは十センチほど開いていた。なので、かろうじて中にいる人間が何をしゃべっているかは聞こえてくる。
「別にいいだろ? あいつと付き合っているわけじゃないなら、俺と遊びに行くくらい」
男の声。斎藤努かどうかは判別できない。あいつとは大してかかわったこともない。昨日、初めて話をした程度なのだ。そんな奴の声など覚えているわけがない。
「……お断りします。わたしには好きな人がいるので」
この声は。忘れるわけもない。覚えているというよりもむしろ、魂に刻まれていると言っていいレベル。間違いなく、藍さんの声だ。
中にいるのが藍さんと斎藤努であるとわかった以上、こうして聞き耳を立てる必要はない。ドアを開けて中に踏み込み、話すことなど何もないと、藍さんを連れ出せばいい。そうしてしまえばいいと、僕の個人的感情は言っている。けれど、一応、これは藍さんと斎藤努の個人的な話なのであって、本来、僕の介在するべきことではない。僕と藍さんがもし付き合っているというのならば話は別だが、未だそんな事実は存在しない。
ゆえに、ここで僕が割って入ってしまうのはあまりよくないことなのではと思う。主に藍さんにとって。
別に何もかもから僕が藍さんを守らなければいけないわけでもないだろうし、それでは藍さんを一人の人間として信用していないも同然だ。
なんでもかんでも彼女のやることに僕が首を突っ込まなければいけない義理も当然ない。
ゆえに、僕はしばらく静観の構えをとることにした。ただし、もし藍さんが傷つけられることを言われたりされたりした場合には事情など忖度せずに突っ込む覚悟で。
「それってあいつのこと?」
「……それはあなたには関係ありません」
「あいつと同じこと言うんだな。仲がよろしいこって。だからって俺も諦める気ないけど」
「何度誘われても、わたしはあなたと遊びに行くつもりはないし、これ以上話すこともありません」
「そうつれないこと言うなって。俺だって別に九々葉さんの嫌がることをしようってんじゃないんだぜ。一緒に楽しく遊びましょうって言ってるだけだ。それでも、いやなのか?」
「……いやです」
「はー、俺も嫌われたもんだねー。あんな奴のどこがいいの? クラスで完全に孤立してるぜ、あいつ。別に大して顔がいいわけでもねー。頭がいいわけでもねー。金持ってるわけでもねー。何がいいの?」
「……こころ」
「は? おいおい、冗談だろ? くさいにもほどがあるって。九々葉さんってそんな痛いこと言う奴だっけって……そういや、四月あたりはかなり痛い子扱いされてたな。まあ、俺は全然そんなの気にしないけど、顔いいし」
「……」
「なあ、いいだろ。俺だってそう悪い奴じゃないんだって。多少、強引なのはわかってるけど、九々葉さんのこと、気に入ってるから誘ってるんだよ。わかるだろ? なあ」
「……」
さすがにもういいだろ。これ以上は藍さんに無用な不快感を与えるだけだ。
「そのへんにしとけよ。あいさ……九々葉さん、どう見てもいやがってるぞ」
ドアを開けてブースの中に入る。
こっちを見た藍さんは目を見開き、斎藤努は露骨に嫌そうな顔をする。
「涼君……どうして……」
「ちっ。早いって、相田君。まだまだこれからってときにさ。空気読めよ。だから、友達できねーんだよ、お前」
「別にいいよ。女の子を傷つける奴を見過ごさないと友達ができないっていうなら、僕は一生、一人でかまわない」
それを聞いた斎藤努の顔に浮かぶのは、嘲り。
「なんだよ、お前もか。くさいこと言わないと会話できないのかよ、お前ら。自分らが相当浮いた奴だって自覚ねーのかよ」
「そんな自覚いらねーよ。お前こそ、自分が人を傷つけることを言ってる自覚を持て」
「あ? 意味わかんねーよ。俺は普通のことを言ってるだけだ。
……はあ、ったくさー。この手は使いたくなかったんだけど、仕方ねーか」
言って斎藤はぼがりがりと頭を掻く。
? なんだ、この手って。単にこいつは強引に藍さんを口説きに来たっていうだけじゃないのか?
斎藤努はすぐそばにいる藍さんの耳元に口を寄せた。
藍さんはびくりと体を震わせ、斎藤の体を押しのけようとする。
それだけでもう、僕は頭がどうにかなりそうだった。
彼らまでは数歩ほど距離がある。
近づいて斎藤を藍さんから引き剥がそうとしたが、僕が手を伸ばすより早く、斎藤が何らかの言葉を藍さんにささやいた。ごく小さい声だったようで、その言葉の端さえ、僕には聞こえない。
そしてその瞬間、さきほど僕がブースに入ったときとは比べ物にならないくらい、藍さんの瞳が見開かれた。
彼女の顔が明らかに青ざめていく。
それを見た僕は斎藤を押しのけ、藍さんを引き剥がす。
斎藤は抵抗しようとはしなかった。
「藍さん、大丈夫!?」
彼女の肩を掴み、大声で呼びかけるが、返事がない。
ただ彼女は小さく、「そんな……」とつぶやいている。
なんだ。一体、斎藤は何を言った?
藍さんは腰を抜かしたように、すとんと地面に腰を落とした。
斎藤はそんな様子を口元を歪めて満足そうに眺めていたが、やがてまた嘲るように口を開いた。
「で、どうする? 九々葉さん。俺と遊んでくれる?」
「おい、さっき嫌だって言ってただろうが」
「……涼君、いいの」
藍さんが僕のシャツの胸元を掴み、斎藤を見た。その瞳には明らかに怯えの色があった。
なのに。
「……わかり、ました。一緒に行きます」
藍さんはそう言った。どこまでも悲し気な表情で。
「藍さん、どうして……」
「ごめんなさい、涼君。……ごめんなさい」
謝るだけで、彼女はそれ以上何も言おうとしない。
それどころか、僕の目を見ようともしなかった。
「斎藤! お前、藍さんに何を言って……」
「やめて!」
僕が斎藤を問い詰めようと口を開くと、藍さんが今まで聞いたことのないほど激しい声音で、僕の言葉を遮った。
「……藍さん?」
「……ごめんなさい。……でも、やめて。……ほんとうにやめて」
藍さんは僕と目を合わせない。ただ絞り出すように、そう言った。
「というわけで、相田君。今日は一人寂しく帰ってねん」
斎藤が藍さんの腕を掴んで無理やり起こす。僕の体から彼女が離れていく。そして、斎藤がその肩を抱いた。
二人の体は密着しているにもかかわらず、藍さんはさきほどのように斎藤を押しのけようとはしない。
ただ、悲しい目をして、悲しい顔をして、じっと下を向いていた。
僕はそんな藍さんに何を言うことも、また、斎藤に何を言うことも、何をすることもできず、彼らが出て行った後も、誰もいなくなったブースの中でただ一人、呆然としていた。
悲哀(悲藍)
今日から八日間、毎日投稿します。時間はすべて0時です。




