九々葉藍の独り言
涼君の家から一時間ほど自転車を漕いで、何事もなく九々葉家に着いた。
家の前の駐車スペースには母の車も父の車もなく、家の中に人の気配がしないところを見ると、どうやら母も父も、そしてお姉ちゃんも朝から外出しているらしかった。
「……」
昨日の夜、お姉ちゃんには涼君の家に泊まることをメールで連絡した。お母さんとお父さんに伝えておいてとも言っておいたので、二人ともわたしが初めて一人で外泊をしたことは知っているはずだ。
お姉ちゃんからは『了解。相田君とよろしくやってきて』なんていうメールが送られてきたけれど、両親からは何の連絡もなかった。
鍵の閉まった玄関の扉を開け、中に入る。
靴を脱いで、二階の自分の部屋に上がった。
手荷物を置き、それから着替えとタオルを持って脱衣所に向かう。
少し暑すぎるくらいのシャワーを浴びる。
溢れ出る熱水に汗が流されて、目の覚めるような熱さに肌が引き締まる思いがした。
「……ふぅ」
母と父に、心配してほしいなんて思わない。
あの人たちが、特に母が、今のわたしに対して何を思っているかは想像に難くないけれど、だからと言って、その思い通りになってやるつもりもない。
わたしは母のお人形さんなんかじゃないのだから。
九々葉家の中でわたしが気を許せるのはお姉ちゃんだけ。
小学生のとき、世界に取り残されたような気持ちでいたわたしを慰めてくれたのはお姉ちゃんだけだったし、中学校に上がるとき、母に無理やり進学校に入れられたわたしの気持ちを理解してくれたのもお姉ちゃんだけだった。
高校生になっても、家の中での状況は何も変わっていない。
「……涼君」
ぽつりとつぶやく。
とても優しい人だとおもう。
無愛想だったこんなわたしの相手を真面目にしてくれて、仲良くしてくれる。
それがとても嬉しい。
普通、拒絶されたら離れていくのに、彼はそうじゃなくて、逆に親身になってくれたような気がする。
とても優しい人だとおもう。でも、たぶん、ただのいい人じゃない。彼の言動から感じる雰囲気にはそんな印象を受ける。
わたしと同じか、もう少しひどい目にも遭ったことがあるんじゃないだろうか。
だから、あんな風に周りを気にせず強くあれるのかも。
「……好き」
胸の前の何もない空間を掴むようにして、小さく言葉にする。
そう。わたしは涼君のことが好き。
いつもわたしを見てくれて、受け入れてくれた涼君が好き。
それほど深く関わり合ったわけではないけれど、わたしは彼のことが好きだった。
理由はいろいろあるとおもう。
けれど、一番の理由は、
「……嘘がない」
そう。そのことがとてもわたしに響いた。
わたしは相手の嘘がわかる。
話している相手の何が本当で、何が嘘なのか、それを感覚的に理解することができる。
話し方とか、目の動きとか、口調、仕草、表情、雰囲気、それ以前の文脈、とにかくそれらいろんな要素を複合的に理解して、感覚的に嘘を理解することができる。
……思い込みに近いものだという自覚はある。
精神的に、身体的に不調だったりするとよくわからないときもあるし、完全に相手の気持ちのすべてを推し量れるわけでもない。
けれど、ほとんどの場合その直感は正しいとわたしは信じていて、だからそのせいで、人と関わることを恐れてしまっている部分もあったりする。
そして、それで言えば、彼にはまったく嘘がない。わたしと話しているときの行動のどこにもそんな雰囲気は感じ取れない。
それはすごいことだとおもう。
そんな彼だからこそ……、その……、わたしに対して好意的に接してくれているということがわかってしまって、そんなに年月も経過しないうちに絆されてしまった。
「でも」
時々少し不安になる。
彼の目に映るわたしの姿が現実よりもずっときれいすぎるものなんじゃないかって。
誠実だとか、誰かを傷つけることが嫌だとか、とかそんな言葉を口にしたこともあったけれど、わたしの中にあるのはその言葉自体よりももっと切実な理由でしかない。
罪悪感。
それに駆られているだけ。
誰かを傷つけることを病的なまでに拒絶して、その結果として、自分の殻に閉じこもった。
わたしはそれだけの人間でしかないのだから。
それをまるで、人に対して真面目でありすぎて、その名誉の負傷の結果、傷ついてしまったみたいに思われても、それは買い被りだから。
わたしはそんないい人間じゃない。
その自分に対する想いと、彼のわたしに対する想いとの乖離があったせいで、今日の朝、ちょっとだけ暴走してしまったのかもしれないけれど……。
ま、まあ、それについてはきっと涼君にはバレていないと思うから、ぜんぶ、忘れよう。うん。
涼君の家で、涼君の部屋で、彼が寝ているそばであんなはしたないことを、なんて、自分がとても情けなくなってしまうから。
「……はあ……」
気の抜けたため息とともに、蛇口をひねり、溢れ出るシャワーを止めた。
浴室から出て、部屋着に着替えると、キッチンの冷蔵庫から二リットルペットボトルに入った水を取り出して、コップに入れて飲む。
喉が潤って、少しだけ気分が落ち着いた。
それから部屋に戻ると、たくさんあるぬいぐるみの内の一体、机の上の黒猫を手に取って、ベッドに寝転がった。
小学生の頃の思い出。
このぬいぐるみを贈ってくれた女の子との思い出。
きれいなブロンドの髪に透き通るような蒼穹の瞳をした彼女は、フランス人と日本人のハーフだという話で、いつもクラスの中心にいた。
女の子にも男の子にも囲まれて、女の子にはファッションリーダーみたいな立ち位置にいて、男の子にはその容姿のおかげか、とても人気があった。
そんな彼女がいつも自分の席で本を読むばかりだったわたしを集団の輪の中に連れて行ってくれて、わたしは人の輪の中で過ごす楽しさを知った。
――それと同時に、人に裏切られることの辛さと苦しみを。
「……ももちゃん」
黒猫の首に巻かれた桃色のリボン。
彼女の一番好きな色だというそれは、初めからつけられていたものじゃない。
贈られるときに、これを自分だと思って大切にしてほしい、そんなことを言われたんだったとおもう。
その言葉通り、わたしはずっとこのぬいぐるみを大切にしている。
「……いつか、会えるといいんだけどな」
会ったところで何を話すべきかもわからないけれど。
ベッドから降りると、黒猫をまた机の上の同じ場所に戻して、自分自身は机に向かう。
あまりテスト勉強をしようという気にもなれないけれど、今はほかにやることもないし。
「……涼君」
意図しないうちにそうつぶやいていた。
さっき別れたばかりなのに、なぜか無性に彼に会いたかった。




