雄弁な感触
「……ごめんっ!」
僕は真摯に頭を下げた。
無論、裸を見てしまったことを藍さんに謝るために。
「え、えっと……、別に気にしてないからそんな真剣に頭を下げなくてもいいよ」
「いや、でも」
「故意でやったわけじゃないのは、今の涼君を見ていればわかるし、だったら、別にもう気にしなくていいよ」
「ほんとごめん……」
夕方からこっち、我ながら最低の行動を繰り返してしまっている気がする。やりたくてやったわけではないとはいえ、少し自分を情けなくも思う。
「……はあ。甘いですねー。藍さん。もう少しきつく言ってやってもいいと思うんですけど。乙女の柔肌はそんな簡単に晒してもいいものじゃないでしょうに……」
僕のそばに突っ立って、さながら囚人を監視する看守のような面持ちでいる凛がそんな風に言った。
さきほどのアクシデント後の僕と藍さんの硬直は、バスタオルと着替えを持ってやって来た凛によって破られた。
なにしとんじゃぼけ、という聞き間違えようのない罵声とともに頭をすっぱたかれ、気づけば洗面所から締め出されていた。
それから体を拭き、凛の用意したパンダ柄のパジャマに着替えた藍さんに居間で頭を下げた。
今はそういう状況だった。
「でも、わたしはそんなに不快感があったわけじゃないし。食い入るみたいに見つめる涼君、かわいかったし……」
「はあっ!? この駄兄がかわいい!? 藍さん、脳神経外科か精神科に通うことをおすすめしますよ」
「……言い過ぎだと思うけど」
うん。僕もそう思う。
辛辣にもほどがある。
「……あのー、藍さん」
「はい、なんでしょうか?」
彼女は笑顔で許してくれる心積もりのようだったが、僕としては多少の罪悪感を覚えないでもない。
藍さんがそういうのをあまり気にしない性格の人だとしても、やってしまった過失に対する償いはしておきたい。
ということで、提案した。
「……何か、僕にしてほしいことはないでしょうか? 謝罪の気持ちも込めまして、お詫びとして誠心誠意尽くさせていただきたいと思うのですが……」
僕の姿勢を低くした言い回しを真面目な表情で聞いていた藍さんは、次の瞬間に、「……ぷっ」と唐突に吹き出した。
「……そ、そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」
「はあ。いやしかし」
「ほんとに大丈夫だから」
「……うん」
明るく手を振られてしまえば、僕にどうこう言う権利はない。
「でも、お詫びかあ……」
少し考える素振りをする藍さん。
「何かある?」
「……もし涼君が嫌じゃなければ、なんだけど……」
と、彼女は驚くべき内容を口にした。
※
※
※
「……あ、あのー、藍さん」
「なあに?」
「これさ……」
「うん」
「もうなんて言ったらいいかわかんないんだけど、いろいろだめじゃない?」
「どうして?」
彼女が提案したのは『一緒の布団で寝よう』ということだった。
僕の部屋で僕のベッドで藍さんと一緒のお布団の中に入る。
……なんかもう、いろいろと振り切ってますよね。
「……お詫び、だよ?」
「いや、そうだけどさあ」
「不満?」
「滅相もない」
僕としては不満などない。
少々どころではなく落ち着かない、緊張するという気持ちの動揺はあるにしても、好きな女の子と一緒の布団で眠るという嬉しい体験ができるのは僕にとってとても貴重なことだ。
嫌なわけがない。
「なら、別に何も問題はないよね」
「まあ、そうなのかな」
「そうだよ」
力強く断言して、彼女はふぅと息を吐いた。
なお、同衾していると言っても、お互いの体が触れ合わない程度の距離は取っている。
一人用のベッドなので、それでも、かなり近い距離ではあるのだが。
「……涼君」
「うん?」
「落ち着かない?」
「そりゃあね。僕も思春期の男の子だからね。女の子とこうして近い距離にいれば、落ち着いてはいられませんよ」
「その割には言い回しが冷静な気もするけど」
「……」
別に、冷静なわけではない。
こういう状況に慣れているわけではない。
緊張していないこともない。
こんな状況に平生の自分でいられるほど、不動心を身に着けているわけでもない。
ただ、心のどこかで、ひどく冷たい目で自分を見つめているもう一人の自分がいるだけだ。
「……涼君のお父さんとお母さん、まだ帰ってこないの?」
「さあ? 休日出勤ご苦労様としかいうことはないんだけど。いろいろあるんじゃない? いろいろ」
現在時刻は午後十時。
僕の両親はまだ家に帰ってきていない。
普通に残業しているにしても、少し遅い時間帯かもしれない。
「いつもこんな感じなの?」
「ううん。父さんはともかく、母さんまで遅くまでっていうのは珍しいね。でも、たまにはあるんじゃない? 仕事してれば」
「そうかもね」
実際、社会に出ればしがらみは増え、仕事上の問題だけでなく、人間関係上の問題も複雑化していくだろう。簡単には解決できないことも出てくるのかもしれない。
一日二日帰宅が遅くなることもあるだろう。
「……涼君はさ」
「ん?」
「どうしてそんなにいつも平然としていられるの?」
「……」
「あなたと一緒にいるとき、すごく落ち着いているな、って思わされるときが多くて、それがどうしてなのかなって」
一つの布団の中で身じろぎをして、わずかにこちらに顔を向けるようにした彼女がそう言った。
僕は目だけで彼女の表情を窺う。
ひどく真剣な顔をしていた。
「……別に。外からそんな風に見えたとしても、僕は僕で心中に動揺を抱えているさ」
「なら、どうして外側はそんな風に落ち着いていられるの?」
「それは……」
経験、というほかない。
人間、一度、価値観が逆転するほどのひどい目に遭うと、ちょっとやそっとのことでは動じなくなる。
ああ、こんなもんか、とすべてに冷めた目線で見るようになる。
僕が特別だというわけではなく、それは普通のことだ。
「僕から見れば、藍さんも十分落ち着いていると思うけどね」
「……どうかな。わたしはそうは思えないけど」
ごまかすように僕が口にすると、彼女は自分自身に言い聞かせるようにそうつぶやいた。
「……藍さんは……って、おおっ……」
自分は答えないながらも図々しく疑問を連ねようとしたら、手の平にあたたかい感触が来て、思わず変な声を上げてしまった。
布団の中で彼女が手をつないできたのだ。
「……」
彼女の方を窺うと、電気を消した部屋の中、薄っすらと頬が朱に染まっているのがわかった。
藍さんは何も言わない。
手をつないでいいとも、つなぐね、とも言わず、黙ってそれを求めてきた。
だから、僕もそれについては何も言わず、強く握り返す。
冷え切っていた心が、少しだけ熱を持ったように感じられた。
「……そろそろ眠ろうよ」
「……そうだね」
お互い直接的なことは何も言わず、そう当たり障りのない言葉を交わす。
その下でつないだ手は深く絆を結んでいる。
しばらくの間、暗闇の中にお互いの吐息と身じろぎの音だけがこだました。
僕の意識が微睡んで、つなぐ手の感覚も曖昧になってきたころ。
彼女がぽつりと言った。
「……いつか、ね」
「……うん?」
寝ぼけたようになりながらも、それに反射的に答えていた。
「いつか、わたしのとても大切だった友達の話をしてあげるね」
闇に響いた彼女の声に、僕は薄らいでいく意識の中、何事か返答する。
「うん。待っててね」
彼女は言った。
僕はそれを聞き、少しずつ、少しずつ、夢の狭間に沈んでいく。
すべての音が静寂にかき消され、すべての世界が微睡みに歪む。
自分が何かも周りが何かもわからなくなった空隙の刹那、声を聞いた。
「涼君」
彼女の声が聞こえて、それに答えなければいけないと心が思う反面、体は急速に力を失っていく。
「好きだよ」
その後、彼女が何を言葉にしたのか、僕は認識していない。
ただ、頬に感じた柔らかい感触だけが、幸福感を伝えていた。




