鈍すぎる反応
「おいしい……」
藍さんと凛が二人で作ってくれたビーフシチューを頬張る。
口の中に溶けるような苦みと甘味が広がる。柔らかい肉が歯で噛むと崩れて染み込んだスープの味が肉の旨みと結合していた。
「お口に合ったみたいでよかった……」
「当然よ。あたしが作ったんだから」
僕の感想に対して、二者二様の反応を返す藍さんと凛。
先に手をつけた僕に遅れて、彼女たちも「いただきます」と手を合わせて、箸を手に取った。
しばらく無言で食べる。
藍さんと凛はぼそぼそと、あそこのパーカーがいいだの、あの着ぐるみがいいだの、あのぬいぐるみがかわいいだのと話し合っている。
馬が合ったようで何よりだ。
その折、思い出したように凛が僕に言った。
「……あー、そういえば、藍さんの寝る場所なんだけど」
「ん?」
「涼の部屋にしなよ」
「……ぶっ」
危うくシチューを吹き出すところだった。
「……いや、なんでだよ。さすがに居間で寝てもらうわけにもいかないけど、普通にお前の部屋でいいだろ」
「あたしの部屋さー。正直、着ぐるみとかなんやかんやでけっこう散らかってるんだよねー。あたし一人が寝る分にはスペース的に問題ないんだけど、藍さんと二人でとなると、若干きつい」
「あー……」
たしかに、と納得する。
以前、凛の部屋に入ったとき、絨毯の上に所狭しとでっかい着ぐるみやらぬいぐるみの類が置かれていたのを思い出す。その際、ぬいぐるみの一体に足を取られ、床に強かに腰をぶつけた。それ以来、彼女の部屋には近寄っていない。
「じゃあ、藍さんが僕の部屋で寝て、僕は居間のソファーででも寝るかな」
「……え? そんなの悪いよ」
「いや、でもさ」
「涼君の部屋で涼君を押しのけてわたしだけが寝るなんてそんなのはだめ」
「……じゃあ、他にどうするの?」
「わたしが居間で寝るよ」
「それはだめだね」
「ど、どうして……?」
「藍さんにそんな扱いはできない」
「でも、他に選択肢なんて……」
「一緒の部屋で寝たら?」
言い合う僕らを白けた目で見つめながら、平然と凛が言ってのけた。
その提案に目を丸くする。
いくらなんでもそれは……。
それでも、一応は折衷案なので、藍さんにも確認を取ってみる。
「それはさすがに藍さんも嫌だよね?」
「………………………………べ、別に」
「……え?」
けれど、返ってきた答えはそんな意外なものだった。
いいの……?
「ほら、藍さんもいいって言ってるんだし。それで決まりね。もう面倒くさい」
「いや、お前、勝手に決めるなって」
「りょ、涼君は、わたしとじゃ、嫌?」
「は!?」
「わたしと一緒の部屋で、なんて嫌なのかな、って」
「……嫌、じゃないけど。でも、そういう話をしてる場合でも……」
「わたしも涼君も嫌じゃないなら、何も問題はないよね」
いや、問題大ありだと思うのですが。
「諦めなよ、涼。もうこれは決まったことなんだし」
「だから、決まってないし」
「じゃあ、他の案は?」
「……」
「ないんでしょ? 代替案もないのに反論とか不毛なことやめてくれない?」
「……」
凛の主張にぐうの音も出ない。
たしかに他の案は何も浮かばない。
自分だけが僕の部屋で寝るのが嫌だという藍さんの気持ちと、藍さんを居間で寝させるなんてできっこない僕の気持ち。現実的にその双方を取るならば、一緒の部屋で寝るのがベター、なのかもしれない。
感情的になぜかあまり納得はできないが。
「……はあ。わかったよ」
「……やった」
僕が諦めたように嘆息すると、小さく藍さんが喜びの声を上げた。
……そこ、喜ぶところだろうか。
「じゃあ、あたし、お風呂沸かしてくるから」
それから、そそくさとビーフシチューを食べ終えた凛はお風呂場の方へ向かっていった。
凛に遅れて僕と藍さんも夕食を終えた後、一緒に食器を片付けた。
お風呂を沸かしてきた凛が合流し、誰が先に入浴するかという話し合いがもたれ、遠慮する彼女を尻目に、藍さんが一番風呂をいただくことになった。
「えっと、じゃあ、失礼して……」
小さく会釈をして、お風呂場の方に消える彼女。
残される僕と凛。
「……ほーんと涼にはもったいないくらいの子だよね、藍さん」
しみじみとした口調で、自分で入れてきたココアを飲む凛。ずずっと液体をすする音が聞こえた。
「一応、年上なんだから、もう少し敬意を払った言い方ができないのか?」
「別にいいじゃん。本人いないんだし」
学校での凛を見たことはないが、今の凛は完全に猫を被ることをやめた素のままの状態だ。
藍さんに対しても、僕に対しても、数時間前よりも格段に打ち解けたように思える。僕に関してはずっと家族として関わってきた間柄なのだから、打ち解ける、と表現するのはおかしいのかもしれないが。
その点において、藍さんに心からの感謝を述べたい。
「……ただまあ、なんていうか、あの人……」
「……ん?」
「いや、なんでもない」
「言いかけてやめるなよ」
「別に、ほんとなんでもないから。あたしの主義主張の話だから、涼には関係ない」
「……?」
凛の言い様に首を傾げる。
けれど、言いたくないことを言わせることもないか、と思い、それ以上追及するのはやめておいた。
その後、凛はソファーに寝そべってスマホいじりながらテレビを見始める。
僕も適当にテーブルに座ってぼーっとしていて、ニ十分ぐらい経過した頃。
もうすぐ藍さん上がってくるかな、と思ったところで、ふと、思い至る。
そういえば、タオルとかパジャマとかどうするんだろう、と。
「……なあ。藍さんにバスタオルって渡したのか?」
「え? 涼が渡したんじゃないの?」
「……は? 女子同士のことはお前の方がわかるのかと思ってたんだけど……」
「いや、普通に涼がやったんだと思ってた」
「……」
「……」
つまり、もうすぐ入浴を終えるであろう藍さんには着てきた服はあるとして、体を拭くタオルもないわけで、そのままでは確実に風邪を引いてしまう。
「しょうがないなあ。あたしがタオルとパジャマとか用意してくるから、涼は藍さんにもう少し湯舟に浸かってるよう伝えてきて」
「……わかった」
よっこらせっと腰を上げた凛がだるそうな足取りで自分の部屋に向かい、僕は洗面所に向かう。
けれど、よくよく考えれば、この役割分担は間違いだった。
もうお風呂から出ているかもしれない、あるいはちょうど出てきたところに出くわすかもしれない、という可能性を孕んでいる以上、凛にどちらの役割も任せるべきで、僕が出張るべきではなかったのだ。
なのに、凛に言われたところから、なんとなく頷き、なんとなく洗面所までやってきた。
そして、何も考えずに扉を開いたところで気づいた。
あれ? これって僕がやったらまずいんじゃね? と。
もう遅かったわけだが。
「あ……」
目を丸くした藍さんが一糸纏わぬ裸体、それも水の滴る艶やかな裸体を晒してそこに立っていて、ちょうどタイミング悪く、両手を髪を留めていたクリップに伸ばしたところだった。
結果、隠すものもなく、彼女の裸身が露わになる。
濡れた髪の毛から滴る肩も。
少しだけ膨らんだ両の胸の膨らみも。
わずかにくびれた腰と小さなおへそも。
またその下の下腹部も太ももも。
全部が全部障害物なく見通せてしまって、僕は瞬時に頭を抱えたくなった。
心境的には、おお、神よ、とでも言いたい気分だった。
「……」
「……」
扉を開けた姿勢のまま無言でいると、彼女と目が合った。
くりっとした瞳がかわいい。
……とかなんとか考えている場合ではなく、なんというかこう、今すぐにでも床に額をこすりつけるべきなのかもしれない。
けれど、濡れた彼女の裸体があまりにもきれいで、思わず、そんな考えが吹き飛んでしまったのだ。
きれいで、見惚れて、目を離したくなくなるほどに。
ためらいも躊躇も何もなく、見入ってしまいたいと考えるほどに。
そんな僕に何を思ったのか。
藍さんはわずかに頬を朱に染めて。
けれど、嫌がるでもなく、叫ぶでもなく、僕を睨みつけるでもなく、曖昧な微笑みを浮かべて。
こう言った。
「……いやん」
ひどく棒読みな口調だった。
感情が一切こもらず、何と口にしていいか彼女自身わかりかねている。そんな口調。
それっきり波紋一つ立たない静寂が場に満ちる。
「……」
「……」
……反応、それだけですか。
朱に染まる頬に無表情というアンバランスな面で見返してくる彼女に、僕はどうしていいかわからなくなった。
いや、たぶん、頭を下げるべきだったと思うけれど。




