不可避のご都合
物理と、それから化学の勉強を始めてから約三時間ほどが経過した。
鼻先にぶらさげられたニンジン、もといご褒美の効果か、それなりに集中して取り組むことができ、気づけば、時刻は午後五時半過ぎとなっていた。
藍さんの帰宅する時間を考えれば、この辺りが終了時刻として適切だと言えるだろう。
「ふー……」
終わりを意識すると、途端に疲労感の滲む吐息が漏れる。
それを見て、藍さんが薄く微笑んだ。
「お疲れ様。よくがんばったね」
「……ありがとう」
苦手だという科目に取り組んだからだろうか、彼女はそんな風に褒めてくれる。
一生懸命に学習に励んだ甲斐もあるというものだ。
「さあて。そろそろいい時間だし、勉強会は終わりにしますか」
「そうだね」
僕が言い、藍さんが頷いて、片づけを始めた。
凛は無言でスマホをいじっている。
と、しばしぽちぽちやった後、彼女が顔を上げた。
「あたし、ちょっと出てくるわ」
「……なんだ? こんな時間に遊びにでも誘われたのか?」
直前にスマホを触っていたことから友達と連絡を取っていたのかと思い、訊いてみる。日曜日の夕方のこんな時間に遊びに出ようという酔狂な学生がいるのかは知らないが。
「いんや、違うよ。お母さんから。今日、仕事で遅くなるらしいから、ご飯作っといてって。これからその買い物」
「……へえ。っていうか、今日母さん仕事だったんだな」
「ちなみに言うと、お父さんもね」
「あいつはどうでもいい」
僕の父親は普通の会社員。休日出勤お疲れ様なことだ。母親はとある学習塾の講師をしている。凛が小さい頃になんとか式をやっていたとか言っていたのはその影響によるものだったりする。
「……ていうことで、二人で思う存分、イチャついてくださいな」
ひどくまじめな顔でそう言った凛はそそくさと居間を出て行く。
言われた藍さんはちょっと照れた様子。
なんだか、昨日と非常に酷似した展開になっていた。
「……」
「……」
少しだけ居心地の悪い沈黙が場を支配して、それを回避したく思った僕は、次の瞬間には口を開く。
「あー……。別に藍さんがどうしてもいやだっていうのなら、しなくてもいいよ。無理強いとか、するつもりないし」
「……」
がんばった成果はまあ、テストで出るだろうし、彼女からはすでに労をねぎらう言葉をいただいている。これ以上を望むのも欲張りすぎかもしれない。
「……う、ううん。気を遣わなくてもいいよ。やるから。大丈夫」
「そ、そう……」
紅潮した頬を押し隠すでもなく、少し意気高く彼女は言う。
誠実さを旨とする藍さん的には、一度した約束は破れない、ということかもしれない。
「……じゃあ、ええと、頼んでもいいかな? 膝枕」
「……うん。いいよ」
やはり照れたように微笑んで、彼女は答えた。
僕の部屋に移動をする。
居間にもソファーはあり、シチュエーションとしては問題なかったのだが、あんまり広いところでやるのは恥ずかしいと彼女が言ったので、僕の部屋に場所を移すことにしたのだ。
「あ、けっこう片付いてるんだね」
中に足を踏み入れた彼女はそんな感想を述べる。
七畳ほどのスペースに、壁際に本棚、テレビ、ベッドが置いてあり、その向かいに学習机が置いてある。床の掃除は行き届いていて埃一つない。
しかし、それも当然。昨日の夜に大急ぎで掃除を行い、こんなこともあろうかと、ベッドのシーツさえ新しいものに取り替えているのだ。抜かりはない。
「……どうぞ」
「……え、えっと、おじゃまします」
僕が手で促すと、彼女は遠慮がちにベッドの上に上がった。
この部屋で膝枕を行おうとするならば、選択肢はベッドの上しかなく、ちょっと妙な気恥ずかしさは感じるものの、彼女にも我慢してもらうしかない。
僕もベッドの上に胡坐をかく。彼女は正座。
「……あー」
「……」
時間の経過とともに、気まずさが指数関数的に増大していく。
心の平穏のためにも、これは手っ取り早く、済ませてしまった方がよさそうだった。
「えっと、お願いします」
「うん……」
体勢を倒し、正座をした彼女の膝の上に頭を乗せさせてもらう。
「……っ」
「……おお」
頬が腿に触れるとともに、彼女が小さく肩を跳ねさせる気配がしたが、がんばって耐えてくれたようだ。ありがたい。
頬に感じる肌の滑らかさ。ちょっと冷たい感触。なんかこう、言葉にならない感慨を覚える。
「ど、どうですか?」
「どう……とは?」
「……き、きもちいい?」
「う、うん。きもちいいよ」
そういう質問をされると、まるで何かいけないことをしているような気になってくるんだけど、別に健全なはずだ。何も問題行為を行っているわけじゃない。そのはずだ。
「……」
「……」
「……ん」
「……ふぅむ」
……何を言っていいのかわからない。
気まずいような、居心地がいいような、落ち着くような、落ち着かないような、そんな心持。
せっかくなので、少しオプションを求めてもいいだろうか。
「……あのさ」
「……ん?」
「頭とか、撫でてもらってもいい?」
「……っ!」
「やっぱりだめかな?」
「…………だめじゃない、けど」
言いつつ、彼女がためらいがちに僕の頭頂部に手を乗せる。
ゆっくりと手を動かして、撫でてくれる。
「……こんな感じ?」
「……うん。そんな感じ」
膝枕をされて、頭を撫でられて、そうされているとなんだか……。
「……あれ」
なんだか、だんだんと体の力が抜けていくような……。
……まぶたもどんどん落ちていくような。
昨日今日と普段あまりしない勉強に励んだから、かもしれない。
気づけば。
「……涼君?」
気づけば、意識を手放していた。
※
※
※
どれくらいの時間が経っただろうか。
まどろむ意識が急速に浮上していくのを感じる。
すっと夢から現実に浮かび上がるように、目を覚ます。
とてもやわらかいものに顔を埋めているという感覚だけがあった。
「……ん?」
目の前に白くて、精細な模様の施された布がある。
その下に、白さの際立つ肌があった。
小さくかわいい窪みがその中心に位置している。
「……ああ、なるほど! おへそかぁ……」
……。
なるほど、じゃねえよ。
顔を上げると、すやすやと居心地よさそうに眠っている藍さんの寝顔があった。
どうやら、膝枕と頭撫でが気持ちよくて眠ってしまった僕と共に、藍さんも眠りこけてしまったらしい。
勉強会の後ということもあって、彼女も疲れていたようだ。
いや、それはいい。
ほんとはよくないのかもしれないにしても、今はいい。
現状、この状態をどうすべきかについて、なのだが。
おそらくは、寝ている間に僕の寝相の悪さから、彼女のTシャツの裾をめくり上げてしまったのだろうが。
選択肢1:彼女を起こす。事情を説明して謝る。
選択肢2:彼女を起こさない。黙って眺める。
選択肢3:服を整えて彼女を起こす。事情は説明しない。
選択肢4:服を整えるが起こさない。そのまま寝かせておいてあげる。
「ふむ……」
目下意識を失っている藍さんを眺めつつ、僕は考える。果たして、どの選択肢を取るべきだろうか、と。
……すでに選択肢2を実行していることについてはあえて触れないでおこう。
「まあ、無難に4」
このまま寝かせておいてあげよう。僕に下着姿を見られたと知ったら、彼女も不快な気分になるかもしれないし、知らないなら知らないで、その方がいいに決まっている。
と、僕が彼女のTシャツの裾に手をかけたところで、
「……んぅ?」
藍さんがぱっちりと目を開けた。
「……んん?」
「……」
現状、目を覚ました藍さんからすれば、はだけたTシャツの裾に手をかけた僕はどう見えるだろうか。
1:寝ている間に乱れた衣服を直してくれている紳士。
→2:寝ている間に服を脱がそうとしているクズ。
どう考えても、2以外にありえないのではないだろうか。
「……」
「……」
無言で僕を見る藍さんと、無言で彼女を見返す僕。
とりあえず、シャツの裾は下ろしておきました。
手を離す。
後ずさる。
正座になり、両手を前について頭を下げた。
「……ごめんなさい」
何かを言われる前にまず、自分から謝罪を行う。
もはやこれ以外に選択肢など見つかりはしなかった。
「…………うん?」
長い沈黙の後、彼女が気の抜けた声を上げた。
しばらく頭を下げ続けても、叱責の言葉が飛んでくることはない。
「……?」
恐る恐る顔を上げると、ぼんやりとした表情で藍さんが僕を見ていた。
「あの……藍さん?」
「なあにー?」
「……怒ってる?」
「怒ってないよー」
大げさに首を振ってみせる藍さん。
何か、しゃべり方がおかしい。
どことなく口調も呂律が回っていない感じだし。
「……どうかしたの……ってうわっ!?」
彼女の変調を尋ねようとしたが、そんな暇もなく、なぜか彼女に抱きつかれていた。
胸の辺りにあたたかくてやわらかい感触がある。
心を焦がすような甘ったるい匂いもした。
眼下に彼女の頭頂部がみえる。
髪の一房一房がまるで絹みたいに艶やかだ。
「……あ、あのー、藍さん?」
「なにー?」
「……ど、どうして、こんなことをしているの?」
「なにがー?」
「だ、だから、さっき僕は君の下着姿を見てしまったわけなんだけど……、ああ、もちろん故意じゃないよ。故意じゃなくて、一緒に寝てる間に寝相の悪さでああなったみたいなんだけど、でも、普通怒らない?」
「おこってないよー」
「いや、だから、怒ってないにしても、抱きついてくるのはいろいろとおかしくないかな?」
「……じゃあ、そのお返しー」
「お返し?」
「怒ってないから、抱きつくのー」
支離滅裂にもほどがあるのではないだろうか。
普段の彼女と全然違う態度なわけだが。
「あのさ」
「……んー?」
「もしかして寝ぼけてる?」
「……んー。寝ぼけてないよー。寝起きなだけだよ」
「……それ、寝ぼけてるよね」
「ちがうよー。寝起きのわたしは、やりたいことをすぐやりたくなっちゃうだけだよー」
「……」
なっちゃうだけかー。なら、仕方ないなー。
「……っていうか、それだとまるで僕に抱きつきたいと思ってるみたいに聞こえるんだけど」
「……んー? んー……。んー!」
んー、だけじゃあ、何を言っているかまるでわからないんですが。
「……とりあえず、落ち着くまでこうしてよっか」
「うん。こうしてるー」
まるで幼女みたいな言い草で彼女は僕に抱きついて、頬を僕の胸にすりすりした。
あー、理性が吹き飛ぶー。
と、そんなところで、階下で玄関扉が開かれる音がした。
とんとんと階段を上がる音がして、あ、まずい、と思ったときには凛が僕の部屋の戸を開いていた。
「ひゃー。急にどしゃぶり来たんだけどー。二人ともいるー? 膝枕終わったー? ってなにしとんじゃー」
お気に入りのパーカーをずぶぬれにして、凛が顔を見せた。
それから、少し時間が経過して。
凛は頭を拭き、着替えて僕の部屋に戻ってくる。
藍さんは藍さんで、しばらくして我に返り、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……えーっと、とりあえず、状況はよくわかんないんだけどさ。外、すごい雨降ってるんだけど、これ、まずくない?」
藍さんの様子を気遣うようにしながらも、凛が口火を切る。
言われて窓の外を見れば、どしゃぶりの豪雨が窓を叩いている。
風自体はないものの、雨量自体はかなりのものだ。
「自転車で来たんでしょ? 外がこの有様で藍さんを帰らせるってのはあんまりにも酷なんじゃない?」
「たしかにな」
「うちのお父さんもお母さんも今日、遅いらしいから、車で送ったりとかも無理だし」
雨の勢いは留まるところを知らない。
現在時刻は、膝枕と意図しない昼寝を経て、午後七時半となっている。時間も遅く、女の子を一人帰らせるのも忍びない時間と言える。
「明日は祝日だし、藍さん、泊まっていったら?」
凛があっけらかんとしてそう提案した。
「……んー」
まだちょっと恥ずかしそうにしている彼女もそれには首を傾げ、
「……でも、そんなの悪くないかな?」
「僕としては全然平気というか、むしろ嬉しい、というか、このまま帰すなんて無理だし」
「……う、うーん」
ちょっと唇の端を緩めた彼女は、照れくさそうに髪に手をやる。
「……藍さんのご両親とかは迎えに来れないんですか?」
「それは無理。お父さんもお母さんも今日は遅いと思う。お姉ちゃんは免許はあるけど、車はないし」
「じゃあ、ほんとに泊まっていくしかないんじゃないですか?」
「でも、二人のご両親がなんていうか……」
藍さんがそう渋ると、凛は即座にスマホを手にする。
ぽちぽちといくらか操作し、
「お母さんは問題ないそうです。お父さんは常にお母さんの言うことを聞くので問題ありません」
と力強く断言した。
「そ、そうなんだ……」
母のレスポンスの早さと、父の家庭内の立場に若干引いた風な彼女だったが、それなら、と頷く。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、泊まらせてもらおうかな」
「いえーい!」
「いえーい!」
彼女の返答に合わせ、凛が叫び、同時に僕も声を上げた。
「……仲いいね、二人とも」
また少し引いたように藍さんが言った。




