ぶら下げられたニンジン
「あー、やっぱりあたし、自分一人でやろっかな」
テーブルの上に例題を広げて額を突き合わせ、藍さんに長文読解のコツを教わっていると、同じように額を突き合わせていた凛がふっと顔を上げて、軽く伸びをした。
「なーんかこう、仲睦まじくやってる二人の仲に入っていけない、というか……」
「そ、そんなことないって。凛ちゃんも一緒にやろうよ」
慌てたように言い募る藍さんに、彼女が首を傾げる。
「……んーと、別に自分の部屋で一人でやろうっていうことじゃないですよ。中学生のあたしが混ざって二人のテスト勉強の邪魔しても悪いじゃないですか。でも、こういう雰囲気で勉強するのも悪くないかなって思ったんで、あたしはあたしで自分用の参考書持ってきて受験勉強でもしてようかと」
「……んー、それなら、まあ」
ちょっとだけ悩むように唇に手を当てた藍さんがゆっくりと頷いた。
「じゃあ、ちょっと持ってきますね」
そのまま凛が居間を出ていく。
「……そんなに仲良さそうにみえたのかな?」
「……さあね」
小首を傾げるように訊いてくる藍さんに、僕は曖昧な笑みを漏らした。
しばらくして戻ってきた凛とともに、今度は半ば自習形式になりながら、勉強をつづける。
お昼の時間になれば、凛と藍さんが協力して作ったパスタに舌鼓を打ち、休憩と雑談を挟みながら、テスト勉強に励んだ。
「……そろそろ歴史は十分かな。ってことで、次は物理でもやろっか」
英語の次は共に日本史を選択している藍さんと僕は歴史について学習を行った。
これで前日の藍さんの家での成果を含めれば、数学古文現代文英語日本史の科目についてやったことになる。残りの主要科目は物理化学。
「……やりたくねえ」
物理の教科書を開いたところで、自然とそんな言葉が漏れた。
「……そんなに嫌いなの? 物理」
「僕が嫌っているというよりは、僕が物理に嫌われていると言った方が正しいね」
「……そうなんだ」
特にあの記号の羅列というか、記号の沼みたいな大量の意味不明な記号で構成された公式の類が理解できない。
数学でさえぎりぎりのところで踏みとどまって耐えているというのに、数学以上にわけがわからないくらいに記号を多用されては、覚える気にもならない。
「えーっと、じゃあ、やらないの? 物理」
「……やろうとは思わないこともないけれど、何かモチベーションがほしい」
「モチベーション?」
「馬の頭の先にぶら下げられたニンジンというか、魚の鼻先に垂らされた釣り餌というか、そういった僕のマイナスに振り切った気力を盛り上げるだけのご褒美がほしいね」
「う、うーん……」
やる気なくテーブルに突っ伏して、藍さんの顔を見上げると、彼女は困ったように眉を寄せた。
それから、ためらいがちに口にする。
「……がんばって勉強すれば、テストでいい点が取れるかもしれないよ」
「そんなことはわかり切ったことなんだよ。テストでいい点を取ったところで、成績と自己満足以上のどんな意味があるっていうんだ」
「え、えーと、それじゃあ、がんばって勉強したら、凛ちゃんが褒めてくれる、とか……」
「凛に褒められてもうれしくない」
「あたしはそんなことしませんよ」
僕の心底興味のない声と、目を落としていた参考書から顔を上げた凛の冷たい声音が同時に発せられた。
「……」
「……」
鋭い目つきをした凛と睨み合う。
相変わらず生意気な顔をしている。
「……二人とも喧嘩しない」
呆れた顔の藍さんが取りなすように口にした。
憮然とした顔つきになった凛が、一瞬の後に小さくため息を吐く。
「……はあ。自分のための勉強なのに他人に見返りを求めるとか、まったくどうしようもない兄ですよねえ。ほんと」
「……え?」
「藍さん、少しお耳を貸してください」
「?」
凛の発言に首を傾げた藍さんが、彼女に顔を寄せる。
凛が藍さんの耳に唇を寄せて囁いた。
「そ、そんなことで喜ぶの?」
「喜びますね。間違いありません。この兄が何を求めているか、あたしには手に取るようにわかります」
「ほ、ほんとに?」
などという会話が繰り広げられているが、僕にはその真意はわからない。
せいぜい、凛が藍さんに何かよからぬことを吹き込んだ、ということくらいしかわからない。
それから、僕に向き直った藍さんが、わずかに頬を染めて、伏し目がちに提案する。
「りょ、涼君……、その……、べ、べんきょう、をがんばったら……ね……」
「うん」
「わたしが……」
「藍さんが」
「…………ひ、ひざまくらしてあげるから、ちゃんとやろ? ね?」
「……」
口にしきったときには彼女は顔を真っ赤にしてうつむいている。
眼福だなあ。
恥ずかし気にそんなうれしいことを提案してくれる藍さんはとてもかわいい。
心の底からそう思った。
「……藍さん」
「な、なに?」
「モチベーション上がったんで、物理やりましょうか」
「ほ、ほんと?」
「うん。かつてないほどに勉学に励む気満々だと言っても過言ではないね」
「……過言ではないんだ……」
少しだけ引いたように、でも、少しだけ嬉しそうに、藍さんはつぶやいた。
「手間のかかる兄だなあ」
その横で凛が悩まし気に嘆息した。




