突き抜けた素直さ
日曜日の朝、校門の前で彼女を待っていると、午前十時五分前、藍さんが現れた。
ママチャリを押して歩いている。
「あ、今日も早いね。おはよう」
「おはよう、藍さん」
今日の彼女はゆったりめの白のTシャツにショートデニムという、比較的ラフな格好をしている。
「……ところで、やっぱり涼君の家へは自転車で行くの?」
「え?」
「わからなかったから、一応持ってきたんだけど」
そう言って、彼女は握っているママチャリのハンドルに目を落とす。
彼女が動きやすい格好をしているのもそれを見越してということだろうか。
「あー、まあ、そうだね。ちょっとしたサイクリングみたいになるかもだけど、かまわない?」
「……かまわないことはないけど……」
ちょっとだけ困ったように髪に手をやる藍さん。
ヘアスタイルが崩れるのが嫌だということかもしれない。
「……んー。でも、正直、今僕は金欠気味でして、電車やバスを利用するお金がほとんどないのですよ」
「何か値段の張る物でも買ったの?」
「何も買ってはいないんだけど、ただちょっとした家庭の都合というか……」
「……?」
小首を傾げる彼女に、ごまかすように笑う。今月は五百円しかお小遣いをいただいていないので、あまり無駄遣いをしたくない、というただそれだけの理由だが、それを説明するのもなんだか情けない感じがする。
どういう意味かと考える素振りをする彼女に、再度提案した。
「……藍さんがほんとうに嫌なら、貯金とか切り崩すけど」
「だ、だいじょうぶだよ! そこまでしなくていい。自転車で行くから」
僕が言うと、慌てたように彼女が答えてくれた。
ほっと胸を撫で下ろす。
本音では、移動だけのためにそこまでしたくはなかったから。
「じゃあ、申し訳ないけど、ついてきてね」
「うん」
今度は憂いもなく頷いた彼女に、安堵する。
僕の言うことを素直に受け入れてくれて、本当に彼女はいい子だと思う。
それから、一時間と三十分、サイクリングに励んだ。
途中で休憩を挟んだので、いつも学校との往復でかかる時間よりも1.5倍の時間がかかってしまった。
相田家の前までたどり着き、母と共に出かけていて今はない父の車があった車庫のスペースに自転車を置く。
「あー、そういえば、言うの忘れてたけど、今日実は僕の妹がいるんだ」
「妹さん?」
車庫から玄関に回り込んだところで、ふと彼女に妹のことを伝えるのを忘れていたことに気付く。
「相田凛っていうんだけどね。どうも、なんていうかちょっと藍さんに対して突っかかるような態度を見せるかもしれないから、その点は勘弁してほしい、というか」
「……突っかかる?」
「うん、まあ、昨日、ちょっとした事情から一悶着ありまして……」
「……」
無言で僕を見上げる彼女の視線に、ばつが悪くなって視線を背ける。
「けんかでもしてるの?」
「……そういうわけじゃあ、ないけれど」
「じゃあ、わたしはどういう風に接したらいい?」
「……普段通りでいいよ。……っていうか、妹と関わるの怖かったりしない?」
今更になるけれど、人と関わるのが怖いと言っていた藍さんを半ば強引に第三者との勉強会に連れてきてしまったことになる。妹は自分の身内だったから失念していたが、藍さんにとっては他人のはずだ。
「んー……」
僕にそう言われた藍さんは首を傾げ、考え込むように頬に手を当てた。
「涼君の妹だって思ってるからかな? 今はあんまり怖くないかも」
「え? そうなんだ。それは意外というか」
「……どうしてだろうね。自分でもわからないけど」
本当に不思議そうな顔をして彼女がつぶやく。
「とりあえず、普通に接してみるね」
力強い表情をして彼女が言うので、僕もなら別にいいか、と思い直し、玄関の戸を開く。
「……おかえり、涼。ふぅん? その人が言ってた人なんだ?」
てっきり自分の部屋にでもいるのかと思っていたら、凛は玄関を上がってすぐのところで、腕を組んで仁王立ちしていた。パーカーではなく、Tシャツにジャージ姿。
「……いや、お前……」
「なに?」
「さすがにその態度は失礼じゃないか?」
初対面の年上相手に、仁王立ちで上から見下ろすとか、失礼にもほどがあるだろう。
「え、えっと、こ、こんにちは」
ややたじろいだように藍さんが頭を下げる。
むしろ、彼女の方が目下であるかのような態度だ。
「……どうも」
それに対して凛はすげない返答。
どうやら今日は猫を被る気は完全にないらしい。自分の生活と直接的に関わりのない人間だからか、素のままの冷たい態度で藍さんに接するつもりのようだ。
ものすごく生意気な妹である。
「藍さん、ごめん。こんな奴で。とりあえず、上がって」
「お、おじゃまします」
またぺこりと頭を下げた彼女が靴を脱いで、床に上がる。
「……一応、準備だけはしといたから」
凛がむくれた顔でそう言って、居間に入っていく。
その後ろに僕と藍さんもつづいた。
テーブルの上に置かれたお茶菓子と、ペットボトルのウーロン茶とコップ三つ。
それを挟むようにして、僕、その隣に藍さん、その向かいに凛という位置取りで席に着く。
「……」
「……え、えっと」
妹は見定めるような不躾な視線で藍さんを見つめていて、彼女はそれにどう対応していいかわからないといように、視線を彷徨わせる。
とりあえず、自己紹介からかな、と僕が息を吐こうとしたところで、先に口を開いた藍さんの声に遮られる。
「わたしの名前は九々葉藍と言います。は、はじめまして」
「……」
「涼君のクラスメイトで、友達です」
「……あたしは、相田凛、です」
「うん。よろしくお願いします。……凛ってきれいな響きの名前だね」
「……」
藍さんの言葉に、ぴくっと凛が眉を動かしたのがわかった。
……このくらいで動揺するとは妹も甘いなあ。
などと思いつつ、何となくこのまま放置していてもなんとかなるんじゃないか、という気配を敏感に察知した僕は、あえて口を挟まず、二人の趨勢を見守ることにした。
「……え、ええと、凛ちゃんって呼んでもいい?」
「好きにしてください」
「じゃあ、凛ちゃんで。わたしのことも好きに呼んで」
「はい。好きにさせてもらいます。どうせ会うのも今日だけですけど」
「……」
妹の頑なな態度に藍さんが言葉を失った。
あれ? なんとかなる気がしたのは気のせいだったか。
と思い直すが、まだ余計な口出しはしない。
気を取り直した藍さんがさらにつづける。
「……凛ちゃんは相田君の妹、だよね」
「そうですけど、それがなにか?」
「なんだか、二人はそっくりだね」
「……っ」
あ、やばい。
妹の顔色が怒りに染まっていく。
「雰囲気とかよく似てて。なんていうか、やっぱり兄妹なんだな、って思う」
「……あたしとこいつのどこが似てるっていうんですか?」
「え?」
「顔も性格もぜんぜん違うと思うんですけど……」
「……そうやって、思ってることを一つも隠そうとしないところかな」
「っ――!」
虚を突かれたように妹が押し黙る。
……絶対に絆されないという強い決意の下に、凛は猫を被らず、素のままでやっているのだろうが、逆にそれが裏目に出たな。
そういう空気を一つも読もうとしない姿勢は僕の通常スタイルなんだよ。残念だったな、凛。
「……あなたはなんなんですか?」
「え?」
「なんでこんな兄なんかと友達になろうだなんて思ったんですか」
話題を逸らすように口にした妹の言葉に、藍さんが考え込むように顎に手を当てた。
それから、ややあって顔を上げる。
「……本音でわたしとぶつかろうとしてくれてるのがわかったからだよ」
「はあ? 意味わからないんですけど」
「わからない、かな? 目の前で話している人が、自分に本気で向き合ってくれてる、っていうのがわかるのはとても嬉しいことなんだよ。凛ちゃんにもない? そういうの」
「……ありませんよ、そんなの」
「……そうなの? たとえば……その……、男の子に告白されたこととかない? 一生懸命に自分のことが好きだって言ってくれたら、とても嬉しいと思うけど」
「……そんなの」
凛が目を見開いて顔を逸らす。
もしかしたら、思い当たるような節があったのかもしれない。学校で猫を被る彼女は男子にも人気があるのだろうから。
「……相手が本気ならね。自分も本気で向き合わないと、とてもつらいと思うんだ。本気を受け止めてもらえないのって、すごくつらいから。だから、わたしは本気で向き合おうとしてくれた涼君に向き合おうと思った。それだけだよ」
藍さんがゆっくりと丁寧に一つ一つ言葉を紡ぐように口にする。
それほど熱のこもった口調ではないのに、不思議とその言葉は心に染み入ってくる。
横で聞いている僕にとってもそうだったのだから、実際に彼女と向き合っている、ねじ曲がっているようでいて、その実、とても素直な凛の心にはたぶん、もっと伝わっただろうと思う。
彼女の心が。
「……あたしは、人と人の関係だっていうのは騙し合いだって思います。本音を晒してしまったら、関係なんて成り立たない。お互いを傷つけて、遠ざけ合うだけの関係です。だから、表面を取り繕う。本音を晒したら負けなんです。本音を口にしたら、孤立して、見せしめみたいに晒しあげられる。……そんなの、嫌じゃないですか」
ほとんど独り言みたいな口調で、凛が言う。
半ば泣き言みたいにも聞こえた。
頭に手を置いて頭頂部を押さえつけるように掴む。
藍さんの言うことは理解できても、心はそれを受け入れらない。
態度で、そう語っているように思われた。
「……わたしもね。人と関わるのは怖いって思うんだ。……ううん、思ってた、かな。本当のことを言っても、誰も耳を傾けてくれなくて、目の前にいるわたしよりも、目に見えない空気や雰囲気を大事にする。そんなの意味がわからないって……。でもね」
そこで藍さんは少しだけ恥ずかしそうに、僕の方を見上げた。
目が合うと、はにかむように微笑む。
「わかってくれる人もいるのかなって、最近は思えるようになってきた。みんながみんな、そんな風じゃなくて……、ううん、そうじゃないのかな。みんながみんな、『いつも』そんな風じゃなくて……、二人っきりで話したりすればわかり合えることもあるのかも。受け入れられない、認められるわけがない、そう思うのは自然なことかもしれないけれど、でも、勇気を出して気持ちを言葉にすれば、案外、わかり合うこともできるんじゃないか、って、そう、思うよ」
胸元に手をやった彼女はそこに大切なものがあるかのように、ぎゅっと握りしめた。
うつむきがちだった凛が、その言葉に顔を上げる。
「……よくわかりません」
「そっか……。そうだよね」
「でも、一つだけ、わかりました」
「……なに?」
「藍さんって、馬鹿みたいにいい人ですね……っ」
そう言って笑った凛の目には、薄く涙が浮かんでいた。
正直、彼女が何を抱えていたのか、兄として、僕はまったく認知するところではなかったが、それでも、その中にあったわだかまりが今この瞬間に少しだけ解けたのはわかった。
彼女に向き合う藍さんも、潤む凛の熱に当てられたように、涙を浮かべていた。
「……あーあ」
凛が背もたれに背中を預け、首を後ろに傾ける。
諦めるように、認めるように、素のままの声を漏らした。
「……ぜったい、認めてやるもんか、って思ってたのになー」
「何を?」
ぽつりとつぶやく凛に、首を傾げた藍さんが不思議そうに訊く。
「涼の友達なんてきっと、ひねくれて根性のねじ曲がった性格の悪い女だって思ってたのに、藍さん馬鹿みたいに素直でいい人なんですもん。毒気抜かれちゃいますよ」
「……そ、そうかな?」
「……そうですよ」
呆れたような顔で凛が藍さんを見つめる。
ま、頃合いかな。
「ってことで、凛」
「……なに?」
あからさまに不機嫌さを滲み出させた顔で凛が睨みつける。
「約束は約束、だろ」
「はあ……。わかりました。見せればいいんでしょ。見せれば。お・に・い・ちゃ・ん」
嫌味のように最後の台詞を口にして(全然嫌味でもないけど)、諦めたように凛が居間から出て行く。
「……何のこと?」
「みればわかる」
昨日彼女から聞いた台詞をおうむ返しにして、藍さんからの質問には答える。
数分後。
「わあ~っ! かわいい!」
子どものように目を輝かせた藍さんが、某電気ネズミの着ぐるみに着替えた凛の持ってきた着ぐるみに、凛ごと抱き着いた。
「……あ、あの、ちょっと……っ」
藍さんに抱きつかれた凛は、照れたように目を白黒させていた。




