どうあがいても過去
「……そういえばさ」
おやつの時間を終え、少しの間、今度は歴史の勉強をやっていて、ふとした間隙の瞬間に、思い出したように口にした。
「あのぬいぐるみだけ、けっこう古いものだよね? 何か、大切なものだったりするの?」
彼女の机の上の一体、黒猫の首に桃色のリボンが巻かれたぬいぐるみ。手縫いでいくらか直しが施されたその一体を指し示し、僕は訊いた。
「……」
藍さんはじっと黒猫のぬいぐるみを見つめ、立ち上がって机に寄り、それを胸に抱き寄せてまた絨毯の上のテーブルに腰を下ろす。
「大事なものだよ。とっても大事な、おくりもの」
自分自身に言い聞かせるように口にされた言葉。
それを言う彼女の表情は切なげで、もはや届かなくなったものを見つめるような悲哀があった。
「誰から、おくられたものなの?」
「……ともだち、かな」
「いつごろくらい?」
「小学校三年生のころ」
彼女は抱き寄せたぬいぐるみをそっとテーブルの上に下ろす。
バランスを失ったぬいぐるみはコテンと横に倒れた。
それを起き上がらせることもなく、彼女は続ける。
「誕生日プレゼントに、ね。ボクたちの友情の証だ、なんて嘯いて、贈ってくれたんだ」
「……へえ」
大切な思い出を語る彼女の面はやはり深く暗い感情に彩られている。
もう過ぎ去った過去、とそう言うにはあまりにも重い表情だった。
「……その子は今、どうしてるの?」
「……」
訊くと、彼女は視線を落とした。
テーブルの上の黒猫は倒れたままだ。
「遠いところにいるよ」
「……」
まるで亡くなった親友を悼むような様子だった。
実際のところはわからない。
死んでいるのかいないのか。
その子との友情はどうなったのか。
今でも続いているのかいないのか。
ただ、そう直接彼女に訊くことは、いくら空気の読めない僕でもためらわれた。
もっとも、その子との関係に関しては、おそらく今は完全に切れているのだろう、ということは推測できるが。
「……ちょっと、重い話だったかな」
「別に」
僕はそうは思わない。
というか、話の重い軽いという基準がわからない。
重い話なら話してよくて、軽い話なら話しちゃいけないルールでもあるのか。
「……勉強、再開しようか」
「そうだね」
少し消沈した雰囲気ながらも、彼女がそう言って、僕はそれに素直に従った。
午後六時。
「ただいま~」
階下から、そんな声が聞こえた。
とんとんと階段を上る音。
やがて、部屋のドアが開かれて、楓さんが現れる。
「二人とも、元気にやってる? 若さゆえの間違いを犯してない?」
現れるなりふざけた言動なのは、彼女の人間性ゆえだろう。
「……してません」
憮然とした顔で藍さんが答える。
「やだなー。藍ちゃん、冗談だって」
「お姉ちゃんの冗談は趣味が悪いよ……」
呆れた顔で彼女が言って、楓さんはあははと笑った。
「お勉強は滞りなく済んだ?」
「ええ、まあ、はい」
「ふぅん? そいつは上々。それなりに楽しめた?」
「はい。とっても」
実際、楽しかった。
藍さんの手料理をごちそうになったし、手作りのお菓子もいただいた。一緒にテスト勉強もできて、期末テストへのプラスにもなる。それから、彼女の過去について、少しだけ知ることもできた。ほんとうに少しだけだが。
「藍さんは?」
「……わたしも楽しかったよ。涼君のおかげ。ありがとう」
「いえいえ」
小さく手を振ると、彼女が微笑んだ。
「……もうすぐうちのお母さんとお父さん、帰ってくると思うんだけど。相田君も会っていく?」
楓さんが少しぎこちない口調で訊く。
僕はそれに首を振った。
「いえ、帰ります。もうそれなりの時間だし、これ以上居座るわけにはいきません」
「……そう。じゃあ、また今度ね~」
ひらひらと手を振った楓さんは部屋を出て行った。
「……帰っちゃうの?」
藍さんに目を戻すと、僕を見上げるようにして、とても寂しそうな表情を浮かべていた。
「い、いや、ほら、いつまでもいるってわけにもいかないしさ」
「もう少しぐらい、だめ?」
「……っ」
そんなことを彼女に言われてしまうと、心がそちらに傾きかける。
けれど、鉄の意志で自分を制すことに成功した僕は代わりにこう提案することにした。
「……じゃ、じゃあさ。明日も勉強会しようよ。今度は僕の家とかで」
「……涼君の家?」
「う、うん。藍さんが嫌じゃなければ、だけど」
「嫌じゃない!」
「そ、そっか……」
即答で返事が返ってきて、それも彼女にしては珍しく声高に返ってきて、少したじろぐ。
言ってしまってから羞恥がやってきたのか、彼女はやや頬を赤くしていた。
「え、えっと……。明日の何時?」
「そ、そうだね。今日と同じで午前十時とかでいいんじゃないかな?」
「場所も同じ?」
「うん。学校の校門で」
「……わかった。楽しみにしてるね」
ほんとうに心から嬉しそうに、唇に微笑を滲ませて、彼女はつぶやいた。
それに、僕は心を持っていかれそうになり、慌てて言い募る。
「じゃ、じゃあ、今日はこれで」
「あ、玄関まで送るよ」
そのまま彼女に送られて、九々葉家を後にした。
「……あー、勢いで家に誘っちゃったか―」
帰り際に一人つぶやく。
「明日、妹は絶対家にいると思うんだけど、どうしようかなあ」
僕は自分の妹の性格を思い出し、藍さんと果たして気が合うかどうかを考える。
……正直言って、微妙。
けれど、誘ってしまった手前、自分でどうにかするしかない。
明日のことを考えて若干不安な気持ちになりつつも、僕は家に帰った。
まあ、なんとかなるか。




