努力家藍ちゃん
そうして、国語の勉強を一緒に始めた。
漢字の読み書きなどの基本的なところから、慣用句、長文読解、古典読解、活用形、等々。
いまいちぱっとしない僕の学力に合わせて、ほとんど藍さんに教えを請うような形になりながら勉強をする。
「……うーん」
そんな彼女におんぶに抱っこの状態で学習を続けていると、藍さんがわずかに不満を覚えるような声を漏らした。
「どうかした?」
彼女に教えてもらうばかりの僕を情けなく思われたのではないかとやや不安になって訊く。
藍さんはすっと顔を上げて、ぽつりと言った。
「……国語って一番つまらないよね」
「え?」
しかし、口にした内容は僕への不満ではなく、彼女にしては少々意外なものだった。
「てっきり、国語が一番好きなのかと思っていたんだけど。藍さんって休み時間とかいつも本読んでるし」
実際、朝学校に来たときとか、彼女が先に来ていた場合には、大抵本を読んでいる。話しかけても時々、物語の世界から戻ってこないときもあるし、そんな彼女ならば、国語系の教科は好きなものだと思い込んでいた。
「……確かに本を読むのは好きだけど……、でも、国語は好きじゃない」
「どうして?」
「だって、解釈とか意味不明だもん」
淡々と事実を語るような口調で言う彼女に、僕は疑問を連ねる。
「意味不明かな? 著者が何言っているかわからないときはあるけど、少なくとも解釈の方はまだ意味としてはわかりやすいと思うけど」
僕が言うと、彼女はむすっとした顔で軽く唇を尖らせる。
「……そういうことじゃなくて……」
「じゃなくて?」
「物語っていうのは書き手と読み手だけで完結しているものだと思うんだよ。書き手が想いを込めて文章を書き、読み手がそれぞれの想いを持ってそれを受け取る。そのつながりに不純物なんていらなくて、そこに解釈を求めるのはわたしには無粋としか思えない」
「……」
ひどくまじめな表情でいう藍さん。
なんとなくだけど、彼女の言いたいことがわかった気がした。
「つまり、小説とかノンフィクションとか、そもそも、作者から読者への意図を込めて作られたものを、作者じゃない人間が解釈するのはおかしいっていうこと?」
「……うん。物語に触れるっていう体験は読んだその人だけのものだよ。たとえその解釈が間違っていたのだとしても、誰かによってそれを意図的に歪められるのは、無粋以外の何物でもない」
「……あー」
まあ、言いたいことはわからないわけでもない。
国語の問題で考えるべきは、作者や著者の意図ではなくて、出題者の意図だから。本気で物語に向き合うということでいうならば、たしかにそれは無粋と言えば無粋なのかも。
「でも、そうすると、そもそも小説とかをテスト問題にすることが難しくない?」
「そう。だから、国語にテストなんていらない。全部、一人一人が本を読むだけの授業でいい」
「……そんな授業がもし実現したら、クラスの半分以上は寝てそうだね」
実際、僕がその授業を受けたら、まず間違いなく机に突っ伏するだろう。
「……まあ、藍さんの言いたいこともわかるけどさ」
僕は彼女の意見に納得しつつも、あんまり彼女がそういう主義主張に偏るのもどうかと思ったので、一応、大人の理屈とやらを述べておくことにした。
「でも、そういう風に問題として作らないと、学生は危機感を覚えないと思うけどね」
「……え?」
「危機感を覚えずにただ自分で読書するだけだったら、きっとまじめに読まない人間もいると思うし、そうすると、藍さん言うところの物語に触れるという体験そのものをまず嫌がる人間も出てきて、名作みたいに言われる作品に一生触れない人間も出てきて、結果的には活字離れとやらが進むんじゃない? だから、便宜的にそういう風にするしかないんだと思うよ」
「……むぅ」
僕がそう言うと、藍さんはとても不満そうな声を出した。
「……それは、わかるけど……」
「けど?」
「やっぱり無粋だよ」
「……ま、そう思うのなら、それはそれでいいんじゃない? 社会の仕組みなんて誰かしらは不満を持つ人間がいるものだろうし」
「……むぅ」
理屈はわかったらしいが、やはり感情ではどこか納得のいかないといった声を漏らして、眉根を寄せる。
そのむくれた様子がかわいくて、僕は声を上げて笑った。
午後三時頃になる。
勉強会も一段落。おやつの時間だ。
「……実は前もって作っておいたお菓子があるんだけど……」
未だ国語の問題についてぶつぶつ文句を言いながら勉強をつづけ、区切りのついた段階で彼女が伏し目がちにそう提案した。
「え? ほんとに?」
「……ほんとに」
「手作り?」
「そう言ってるよ」
「よし!」
胸元で思いっきり拳を握りしめた。
僕の嬉々とした様子に、彼女が少しだけ緩んだ頬で首を傾ける。
「そ、そんなに嬉しいの?」
「嬉しいに決まってる。女の子の手作りお菓子だよ? 青少年の夢じゃないか」
「……青少年はもっと大きな夢を抱いた方がいいと思うけど」
冷静な指摘が入って、けれど、僕の喜びは一向に衰えなかった。
「ちょ、ちょっと待っててね」
僕のテンションの高い様に、びっくりしつつ、彼女が一旦階下に消える。
しばらくして、お盆の上に乗ったお菓子とコーヒーと共に部屋に現れた。
「……どうぞ」
テーブルの上にお盆を置き、僕の前と自分の前に皿とカップとソーサーを置いた彼女は控えめに手を差し出す。
目の前に置かれたお菓子はハシバミ色のふっくらとした生地に小さな穴が開いて、その中にクリームが流し込まれたもの。
つまり、シュークリーム。
「いただきます」
作ってくれた藍さんへの感謝を込めて、手を合わせた後に彼女に頭を下げて、シュークリームを手に取った。
ぱくりと一口いただくと、少しだけカリっとした食感にその後甘く柔らかい生クリーム。
その二つのコンビネーションが絶妙にマッチしていた。
「おいしい……」
噛みしめるように口にすると、藍さんがぱっと表情を明るくした。
「よかった……」
安堵するように胸に手を置く彼女。
初めて話すようになったころ、僕は彼女のことを表情の変わらない人間だと思っていた。
けれど、今、彼女は控えめながらもころころと表情を変え、隠すことなく僕に見せてくれる。
彼女の女の子としての魅力はどんどん増してきているように思われた。
というか、元々あった魅力が段々表に出てきている、というような。
「……そういえば、楓さんが失敗作どうこうって言ってたけど……」
「――っ!」
「もしかしてこの……っ!」
「その先は言わないで」
僕がさらに口にしようとしたところで、彼女の指先が伸びてきて、唇に指先を突きつけられる。
「……努力に失敗はつきものだから」
「……う、うん」
真剣な顔で言う彼女に気圧され、それ以上言葉にするのをためらった。
あと、地味に指先が唇に触れたのにドキドキした。
「……あ」
遅れて彼女もそれに気づいたようで、慌てて手を引っ込める。
耳元が少し赤い。
「ほ、ほら、藍さんも食べたら、どう?」
「あ、う、うん。そ、そうだね」
ややぎこちないやり取りながら、一緒にシュークリームを食べ、談笑した。




