嘘の中の本当、本当の中の嘘
ボクが自身の母親について知っていることは多くない。
ボクと同じように金髪蒼眼の見た目をしていたということと、ボクが生まれた後すぐ、ある日突然、仕事に出かけた父の後を追うようにして家を出て、それ以来、二度とは帰ってこなかったということくらいだ。
出身も性格も学歴も職歴も、詳しいところをまるで知らない。
父も祖母も祖父も、彼女自身の経歴についてはあまり語ろうとしなかった。
妻と全財産を一日にして失った父にしても、一人息子の全財産を奪われた祖父母にしても、もはや触れたくもないと思うのは当然のことだろう。
けれど、母の悪行だけを滔々と鼓膜に押し流されてきたボクにしてみれば、彼女の人格なり、人生なりといったものを知りたいとずっと思っていた。
自分の家族を貶めたひどい人間であるということは伝え聞いてはいても、ボク自身彼女に会ったことがあるわけではない。だから、取り立てて深い憎しみを抱くということも難しかった。人は顔の見えない手の届かない人間よりも、顔の見える見慣れた人間をこそ、手軽に憎む傾向にある。
その例に漏れず、ボクが憎んでいると言えるのは、ボク自身を売女の娘と罵った祖母くらいのものだ。
姿の知れない母親なんぞを憎むきっかけを得ることはなかった。
父に母のことについて聞いてみたことがある。
彼女はどんな人間だったのか。
「優しい人だったよ。人の悪口っていうものを一度として口にしたことがなかった」
――では、なぜそんな優しい人間が父を裏切るような行動を取ったのか?
父曰く、仕事ばかりにかまけていた私が悪いんだよ、とのことだ。
父は仕事面では優秀な人間ではあったが、人が良すぎるきらいがあり、人を疑うということを知らなかった。
ほとんどの人間が悪意なく人を思いやることができると信じ切り、人を騙して得る利益よりも人を喜ばせて得る心の満足感をこそ優先すると本気で信じていた。
だから、結婚してすぐ母にお金の管理をすべて預けてしまい、その結果として、全財産を彼女に持ち逃げされてしまうことになった。
「恨んでいますか? お母さんのこと」
「――別に」
無垢な微笑みを浮かべた女は、浮かべた表面上の表情以上に何の色にも染まり切らない無感情な声音で以てボクに問うた。
その顔はあまりに穢れを知らなさ過ぎて、あまりにもきれいにすぎて、それゆえにあまりにも嘘臭く、背筋にうすら寒いものさえ感じさせた。
――文化祭最終日、クラスでの出店の片づけを終え、帰宅の途に着いたボクの背に声をかけた女がいた。
その女はボクと同じ金色の髪をして、ボクと同じ蒼色の瞳を宿していた。
君は誰と尋ねると、彼女はただ一言、「ロゼリア・キャロル」とそう答えた。
「あまり驚かないのですね。いきなり目の前にわたしが現れれば、もっと動揺を露わにすると思っていました」
「……驚いてはいるよ。ただ一応、こういう日がいつか来るかもしれないなんて、想定して考えていたのもあるし、何よりさっき、文化祭の終わり際、君の後ろ姿が校舎の窓から見えた。もしかしたら、こんなことになるかもしれないって、ちょっとだけ頭の隅に考えを置いておいたのさ」
「思っていたよりあなたが賢いようで、ちょっとびっくり」
「かわいこぶるなよ。年いくつ、君」
「……」
素直にうざかったのでそう吐き捨てると、ロゼリアはぷっつりと黙りこくって、しばらく無言でボクの顔を見つめた。
「それで、要件は何? まさかボクを驚かせるためだけに、はるばるこの国までやってきたなんて言わないよね?」
人形のようなロゼリアを見据えて、ボクは呆れるように彼女を睨みつける。
「……何を勘違いしているのか知りませんが、わたしはこれまで海外に渡航したことなんて一度もありませんよ。日本生まれの日本育ち。国籍は日本です」
「あっそ。その顔で言うなよ」
これだから、嘘を吐くことが日常になっている奴は困る。話がまともに進まなくて面倒だ。さっきボクの発言を根に持ったことだけが理由でそんな面倒を起こしているのだとしたら、余計、始末に負えない。
「単刀直入に言いましょうか? わたしと一緒に暮らしませんか」
「……それも冗談? そんな冗談、顔だけにしろよ」
「冗談ではありませんよ。わたしはあなたに興味があります。あなたと一緒に暮らしていく中で、わたしが求める答えが見つかるかもしれない。また、あなたにとっても、悪い提案ではない。あなたがこれまで失い続けてきた母親との生活を取り戻す機会を得るのですよ? いいチャンスだと思いませんか?」
「……くそくらえ」
「汚い言葉ですね。あなたの父親は一体、どんな風にあなたを育てたのですか?」
「……」
話をすれば話をするほど、脳みその中に混乱の糸が絡んでくるようだ。
一体全体、この女は何のためにボクの前に姿を見せたのか。
「考える時間をあげましょう。一か月間。いきなりの邂逅で、きっとあなたも混乱してしまっているのでしょう。時間をかけて答えを探せば、きっと正解が何かわかるはずです。それまで、わたしはあなたを傍で見守ることにします」
「……警察に通報していい?」
「どうぞご自由に。わたしはあなたに害を及ぼすことは一切行っていませんし、これからも行うつもりはありません。何度通報したところで、あなたが警察に迷惑がられるだけで、わたしには何の問題もありません」
「……」
「では、また」
そう言って女は去っていった。
四月の嘘のように、冗談のような邂逅だった。
※
※
※
可もなく不可もなく、当たり障りのない英語の授業を終えると、ロゼリアは教室を出て行った。
そうして、ボクは浅く息を吐く。
あの女が余計な態度・行動・言動を取らないかと、若干ながらひやひやして見ていたためだ。
幸いにして、彼女にも教師としての役割をまともに果たすつもりはあるようだった。臨時講師として職をもらっている現状で、それは当たり前のことではあるはずだが、何を考えているかわからないロゼリアの顔を見ていると、突然何か突拍子もないことをしでかしそうで怖い。
あの女が何のためにはるばるこの国までやってきたのかが明確にわからない以上、ボクとしては警戒せざるを得ないのだ。
そのために、女の身では敵わない場面を想定して、相田に手助けを求めたのだから。
「……ねえ、ダリア」
英語の授業時間中、ずっと斜め後ろで何か言いたげな気配を漂わせていたボクの友達がやっとその優しすぎて重い腰を上げたらしい。
るりは心配そうな表情でボクの席の前に回り込んで、それから、まっすぐにボクの目を見据えた。
「さっきの女の人ってもしかして……、ダリアの……」
「だったらどうする? それが何か君に関係があるの?」
「……」
ボクがそんな言い方をすれば、るりは途端に傷ついた顔を浮かべる。
それでいいとボクは思う。
無駄に優しい彼女まで、ボク個人の問題に巻き込みたいとは思わない。
ただそれでも、彼女にはボクのことを信じていてほしいと願う自分もまたいるのだけれども。
「別に、君を巻き込もうっていう気はさらさらないからさ。あの女に関しては何も言わないでくれるとありがたいかな。だって、本当に何でもないことなんだから」
「……じゃあ、今朝のあれは?」
「あれって?」
「メッセージ。信じてくれると信じるってどういう意味?」
「……あれはまあ……、そのままの意味だよ。得意でしょ? るりは。人を信じるとかそういうの」
「……」
「ボクのことを信じてほしい。ただそれだけ」
人を信じるだなんて、それがどれだけ無為に終わるかもしれない行為なのかということはわかっているつもりだ。騙し、騙され、傷つき、傷つけてきたボクには容易にわかる、考えるまでもないリスクの高い行為。
それでも、誰かを疑うだけじゃあ、世界は回らないなんて、そんなことを思うから。
人の善性ばかりを信じ切るのもまた、弱みを晒すだけだけれど、人の悪性のみを疑いすぎるのもまた、結局は自分が誰からも信じてもらえない結果を招くだけだから。
ただボクは信じようと思う。るりを。相田を。
だから、るりもきっとボクを信じてくれると、ボクは信じる。
それはきっと、都合のいい押し付けではないと思う。
「わかった。信じるね。ダリアのこと。何のことを言っているのかはわからないけど、信じる」
「ありがと」
人のいい奴ってのは本当に扱いやすくて助かるよね。
ちょっと真摯に心に訴えかけるだけで、ころっと優しく絆されてくれる。
るりってばちょろすぎ。
こういう奴を騙くらかして、いいように蜜を吸おうって輩が世の中にはいるっていうのが信じられないくらい。
父を騙して、お金を得た――愛を騙って、欲を得た――母のように。
だからこそボクは、こういういい子をただの悪意で傷つける存在を許さない。
なーんて、どの口が言っているんだと思うけれど。
人は変わるから。
誰かを傷つけ続けた悪人が、誰かを守るために変わってもいいじゃない。人間だもの。
――噓つきは泥棒の始まり。嘘も方便。嘘から出た実。
嘘しか生まない嘘もあれば、方便として使える嘘もあれば、真実を生む嘘もある。
要は使い方だよねって話。何事もそう。
――では、百日ダリアは何のために嘘をつくのでしょうか。
続きは本当に気長にお待ちください。読みたい人がいるのならですが。