寄る辺
「一つ、訊いておきたいんだけどさ」
「なに?」
あれから一通りの事情を説明された僕は、不承不承夜中に忍び足で荷物をまとめ、自転車で夜の街へと繰り出した。もちろん、目的地は百日のマンション。後ろには彼女を乗せている。付近を巡回中の警察官にでもでくわせば、間違いなく見とがめられるだろう。
「トムのことはいいわけ? 僕が一緒に住むだなんてさ。ていうか、僕の代わりにあいつがその役目を担えばいいんじゃ……」
「別れた」
「……は?」
「だから、あいつとは別れたの。だから、ボクがこんなことを頼めるのは君しかいないってわけ」
「……」
理由を聞こうかどうしようか迷ったところではあるが、結局、余計なことは何も言わないことにした。僕の腰に回している百日の手にわずかばかりの力が入ったのがわかったからだ。男女の仲のことだから、普通の友達とは違うところもあるだろうし、本人たちにしかわからない事情もあることだろう。空気の読めない僕でも、人の気持ちは斟酌する。
「じゃあ、まあ、しょうがないか」
「……それに、今の君の状態にとってみれば、ボクのこの提案は自分の利益にもなる部分があるでしょう?」
「利益?」
「藍ちゃんへの荒療治」
「…………なるほどな」
鋭い夜風が頬をかすめ、ぐるぐると同じように回転し続ける僕の足下から、寒気が忍び寄ってくる。辺りは暗く、一定間隔で置かれた街灯だけがその寄る辺だ。光の中を乗り継ぐようにようにしながら、闇の中を進む。背中に感じるほのかな体温だけが、わずかな安らぎを僕に与えてくれる。
その体温が少しだけ僕に近づいて、覗き込むように僕の顔を見る。
「そう思って、頷いてくれたんじゃないの?」
顔の半分だけを後ろに向け、不思議そうな表情を浮かべる彼女を視界に収め、すぐにまた前に向き直る。
「まあ、頭の片隅にあったさ。そういう理屈もな。でも、珍しくお前が素直に助け舟を求めてきたんだから、それは力を貸したいと思うだろ。いつもは一人で勝手に動こうとするお前がな」
「……別に、一人で勝手に動こうとしていたわけじゃないよ。ただ、必要がないから手を借りなかった。それだけの話」
「そうかい」
必要がなくたって誰かの手を借りたっていいだろう。誰かに助けを求められることは、ほとんどの人間にとっては悪い気がしないことのはずだから。自分が嬉しいのならば、他人に助けを求めることも、きっと悪いことではないはずだから。
「それで、相田はすぐにでも藍ちゃんにこのことを報告する気なの?」
「……いや、タイミングは考える。あんな純粋すぎる恋人幻想を抱いている今の藍に事細かに報告したところで、僕のことを信じているから大丈夫だよ、みたいなことを言われるだけかもしれない。それじゃ、藍には響かない。だから、伝えるなら効果的なタイミングで、情報不足な伝え方で、だ。まあ、それも、言葉で言ってわからなければ、の話だけど。お前の考えは歪んでるって、言ってわかるなら、すぐにでも伝えて構わないだろうが」
「ふぅん。けっこうちゃんと考えてるんだね。ちょっと見直したよ」
ほう、と息を吐く百日。その息が首筋にかかって、ややくすぐったい。
「そりゃあ、考えるさ。感情のままに動いて、いいことがあった試しがないからな」
「……そうだね」
その点に関しては、僕も百日も同様に痛い目を見ている口だろう。
※
※
※
彼女の住むマンションまでやってくる。幸い、警ら中の警察官に出くわすことはなかった。
「今気づいたんだけどさ。もしかして、お前がわざわざ夜中にやってきたのって、僕の家族との面倒を避けるためか? 一か月お前のマンションに同居させてもらうなんて、親が許可するわけないって」
「そうだよ。今頃気づいたの? ボクが君に助けを求めたのなら、君一人ならきっと手助けをしてくれるものだと思っていたけど、君の親のことは知らないからね。不確定要素を排除しておきたかったのさ」
「お前のその無駄な用意周到ぶりには、閉口するばかりだよ」
「無駄じゃないさ。自分の我を通すためには必要な思考だよ」
悪びれることなく断言する百日の態度はいっそ清々しい。
ちなみに、一応僕は家のリビングに書置きを残しておいた。とある事情があって、友達の家に一か月ほど同居させてもらうことになったと。それで両親が納得してくれるかどうかは定かではないが、説明が必要なら、都度都度言葉を尽くして説得しよう。
駐輪場に自転車を停め、そのまま彼女の部屋へ。
「相田の部屋はここね。こういうとき、部屋が広いのは助かるよ。いくらでも利用用途が見つかる。高い家賃を払ってくれている父には感謝だね」
そう言って、百日に空き部屋の一つを案内される。
「……」
その部屋はいつだったか藍と一緒に寝泊まりをさせてもらった部屋だ。そのときは段ボールで散らかっていた室内も、今はきれいに片付いている。
踏み心地柔らかな絨毯と、簡素な机と椅子、小さな本棚とノートPCまで用意されていた。
「至れり尽くせりだな」
「ボクが無理を言っているわけだから、これぐらいはね。他にも必要なものがあったら言って。よほど高い物でもなければ揃えるから」
「わかった」
と言っても、別に特殊な趣味を有しているわけでもないので、これ以上必要なものなど思いつかない。
今の時代、PCがあるだけでいくらでも暇を潰せてしまうだろう。
「さてと……。とりあえずは説明はこれでおっけいだよね? ボクは今からお風呂入るけど、相田はどうする? 体冷えた?」
「いや……、さすがに今から風呂は別に……」
壁かけ時計を見れば、すでに時刻は五時を回っている。
夜風を切って自転車を走らせたから体は冷えてはいるが、朝五時から風呂に入るような習慣は僕にはない。
「そう。実のところ、ボクは昨日の夜から漫画喫茶に籠って時間潰してたから、ろくにシャワーも浴びてないんだよね。だから、お湯浴びたい。……覗いてもいいけど、襲ってはこないでね」
「覗かねえし、襲わねえよ。今更お前に欲情する余地なんかない」
「あらら、相田もついに枯れちゃったか」
「どっちかっていうと、枯れさせてんのはお前だけどな」
などと軽口は叩きつつも、なんとなく僕にも百日の本音は読み取れていた。
たぶん、本気で僕に襲われるのが怖いのだろう。冗談にでもしないと落ち着かないくらい、それを不安がっている。奇々怪々な言動に反して、元からそういう初心なところはある奴だったが、二人で暮らすとなれば、いくら友達でも若干心配になることはあるということだろう。
「安心しろよ。本気で僕は異性としてのお前に興味がない。気が合う友達だとは思っていても、それ以上の感情はこれっぽちも存在しない。僕の中にあるのはお前には好かれたままでいたいって思う気持ちくらいだよ。大好きな友達だからな。お前の嫌がることや怖がることなんて何もしたくない。だから、その気持ちよりも欲望を優先することなんてない」
僕がそう言うと、百日は僕の顔をまじまじと見つめて何度か瞬きを繰り返し、それからぷいっと顔を背けた。
「……別に、君のことを友達として好いているなんて言った覚えはないんだけど」
「じゃあ、嫌いなのか?」
「…………好きだけど。……じゃなくてっ!! さっきの本当?」
上目遣いにこちらを窺う百日はどこか子犬のようだ。
「何が?」
「欲望よりもボクに好かれたい気持ちの方が強いって」
「本当だよ」
「……ムラムラしてるときでも?」
「それは……たぶん……」
「ふぅん」
やけににやにやとした顔になった百日は、襲われる不安などどこかへ吹き飛んだかのようにまた軽い口を叩く。
「じゃあ、相田が発情してそうなときに誘惑して、本当かどうか確かめてやろうっと」
「おい待てそれはやめろ」
「冗談だよ」
「……」
「じゃあ、ほんとにお風呂入ってくる」
そう言って百日は部屋を出て行った。
「楽しそうだけど、いろいろ面倒そうな一か月になりそうだな」
僕はつぶやいた。
投稿頻度、遅し。悪しからず。