ifルート(ダリア)-2
「あの九々葉って子はなんなんだ?」
「なにってなにさ」
「どうしてずっとあんな薄っぺらい笑顔を浮かべていたんだ?」
「……」
ダリアのマンションを訪れ、九々葉藍という彼女の幼馴染と出会った日の翌日。
教室で顔を合わせたダリアと朝の雑談をしているさなか、僕はそんな風に話を振った。
「そんな風に言わないで。あの子にもいろいろあるんだよ。君の知らない事情が。それに、確かに初対面の君に対しては少しぎこちないところがあったかもしれないけど、打ち解けてみればとても優しい子なんだよ」
「ふぅん」
胡乱気な声を漏らすと、ダリアが少しだけ鋭い目つきで僕を見た。
「君だって、ろくに話したことのない相手とすぐに仲良くできるわけじゃないでしょ? というよりも、ボクの見る限りかなり冷たい対応を取る。むしろあんな風に見かけだけでもフレンドリーに話そうってする意思がある分、君より藍ちゃんの方が大分ましだよ」
「それはたしかに」
「……平然と肯定するな」
やれやれと首を振るダリア。
「でも、ああ、こいつ愛想笑いしてんだなって、観察力に乏しい僕でもすぐにわかったんだ。そういう面で鋭いお前が見れば一目瞭然なんじゃないか?」
「……だったら?」
「諫めたりとかしないの? 笑顔、ぎこちなくね? みたいな……」
「言えるわけないでしょ、そんなこと。君じゃあるまいし……。藍ちゃんが一生懸命、周りに合わせようと必死なのに、友達のボクがそれを否定したら、彼女の心はどこに拠り所を求めるのさ」
「……」
「君みたいに神経が何本もねじ切れてる人間と違って、あの子は繊細なんだよ。あんまり厳しいこと言ってあげないで」
「……別にそれはいいんだけどさ、さっきからお前、自分の彼氏のこと下げ過ぎじゃないか?」
「事実でしょ」
「……」
真顔で彼女を見返すと、ダリアはふん、と鼻を鳴らして、からかうように笑った。
「冗談、じょーだん。ちゃんと君のいいところはいくつもわかってるから、心配しないで。だから、付き合ってるんだし」
「……お、おう」
隙だらけの笑みでそう言われると、さしもの僕も思わず、返す言葉を失ってしまう。
僕の煮え切らない反応に、数度目を瞬かせたダリアは、遅れて自分の言った言葉の内容に気づいたようだった。
「……あ、いやこれはべつにそのボクが君のこと大好きとかそういうんじゃなくてその……、いや、好きなのは好きなんだけど、べつにそんなことが言いたいんじゃなくて、ただボクはちゃんと君のいいところはわかってるって言いたいだけの……、つまりその……」
顔を真っ赤にして言い訳にもならない言い訳を紡ぎ始めたダリアに、軽く頷き返す。
「お前が僕のことが大好きなのはわかったよ。ごちそうさま。心配しなくても、お前の気持ちは伝わってるさ。いつもありがとな」
「……っ~~――もう!」
唇をわなわなと震わせた彼女が、少し離れた自分の席に戻っていく。
僕はその後ろ姿を微笑みながら見つめていた。
背中がぬくい。
寒い季節になると人肌の温かさというものがよくわかるものだと思う。
夏あたりからこっち、毎日のようにダリアを自転車の後ろに乗せて走っていればこそ、冬の寒空の下、感じる体温がとても暖かくて心地いい。
「今、何考えてた?」
「……お前の体、あったかくて心地いいなー、って」
意識を前方半分、後方の体温半分といった割合で分散させていると、僕の顔を覗き込むようにして耳元でささやいたダリアの息遣いに意識の九割を持っていかれる。
そのせいで軽口も叩けずに素直な感想を吐露すると、大げさな身振りで彼女が身を引いたのがわかった。
「うわ、きも。ボク以外の女子が聞いたら間違いなく引くよ、それ」
「お前は引かないのかよ」
「そりゃあ、彼女だし」
「……」
「……」
「でも、きも、とは言ったよな?」
「いや、彼氏でもきもいものはきもいでしょ。……多少、嬉しい気がしなくもないけど」
「嬉しいのかよ。だったら、きもとか言うなよ」
「嬉しくても、きもいものはきもいって」
言いつつ、離れた体温が再び戻ってくる。
それに言いようのない安堵感を覚えつつ、自転車を漕いだ。
学校からダリアの住むマンションまではおよそニ十分。
そのおおよそ八割の道程を超え、もうすぐマンションが視界に入ってくるという段になって、ダリアがおもむろに言った。
「……今日さ……」
「……ん?」
「泊まってく?」
「――」
思わず、自転車から転げ落ちそうになった。
すんでのところでブレーキをかけると、つんのめったダリアが僕にぎゅっと抱き着く。
背中にあたる柔らかな膨らみの感触が今ばかりはとても生々しい。
「危ないなあ、もう……」
「……いいのか?」
振り返って、彼女の顔を見つめながら言うと、ダリアは瞳を瞬かせ、
「……さあ、どうだろうね……」
照れるように目を逸らした。
「……まあ、泊まっていいのなら、泊まっていくけど」
「明日、土日だし、君の予定がないのなら……」
「……ない! なんにもない!」
「……そんなに大声で言わなくてもわかるって……」
わざとらしく呆れた顔をしたダリアの口元が少しだけにやけている。
「君の期待に応えられるかどうかはわからないけれど、ボクなりに君との距離を縮めたいと思うというか……、そんな感じです……」
「……」
内心、小躍りしたい気持ちを必死にこらえた。
ダリアと付き合うようになってから、お泊まりを誘われたのはこれが始めてだ。
いつも家の人がいないダリアの部屋で、二人っきりの状況は幾度もあったが、その度にほどほどのところで家に帰らされ、何度もお預けをくらっている気持ちだった。それが今日は、向こうからそんな提案をしてくるとは……。嬉しさと期待感もひとしおだ。
「……直前になって気が変わったみたいなことは言わないよな?」
「そんなことしないって……。っていうか、がっつきすぎ……。ボクは泊まっていくかって聞いただけなんだけど?」
「……わかってるさ。お前が意外とそういうお堅い奴だってことはな」
「……堅くて悪いか。軽いよりましだろ」
「まあ、かもしれないけど」
言いつつ、前に向き直って、自転車を再スタートさせる。
「今晩はボクの手料理で君の舌を痺れさせてあげるね」
「……お前の料理、麻痺毒でも混入してるのかよ」
「あれ? なんかおかしかった?」
「舌鼓を打つとか、胃袋を掴むならわかるけど、舌を痺れさせるは完全に毒物だろ……」
「……あはははー」
変なところで言語感覚がおかしくなっているダリアに苦笑いしたところで、彼女のマンションにたどり着いた。
「一回、家帰ってきていいか? 泊まるんなら、荷物もいる」
「うん。わかった。待ってるね」
笑って手を振るダリアに頬を緩めつつ、自転車を翻す。
自宅から宿泊装備一式等々をまとめ、もう一度ダリアのマンションまでやってきたときには、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
駐輪場に自転車を入れ、彼女の部屋のインターホンを押す。
「はい」
「僕だ」
「君だったのか」
「また騙されたな」
「……全く気づかなかった」
「…………暇を持て余した」
「鍵開けたよ」
「いや、そこは続きを言えよ!」
「……だってなんか癪だったし……」
「お前から言い出したんだろ……」
「ほら、いいから早く入って」
「……」
納得のいかない面持ちを抱えながら開いた扉をくぐる。
エレベーターに乗って、彼女の部屋のある階までやってきた。
ダリアの部屋の前まで歩いて行ったところで、ちょうど彼女が扉を開いた。
「タイミングぴったしじゃん。お前、ドローンで僕のこと監視してたりしないよな」
「……ボクのことなんだと思ってんの。違うって、ただの偶然。ちょっとコンビニまで飲み物でも買ってこようかって。君、留守番してて」
「おっけー」
彼女と入れ違いに部屋の中に入った。
だだっ広いリビングのソファに座ってダリアを待つ。
三十分ほど後、玄関の辺りでガチャガチャと物音。
すぐ後にリビングの戸が開かれ、ダリアが顔を見せる。
「おかえりー。意外とかかったなー、って……」
「あはははー……」
「……」
ばつの悪そうな表情で笑う室内に足を踏み入れたダリアは一人ではなかった。後ろに先日、見知ったばかりの顔を引き連れている。
「……ごめんね。帰り際にばったり会っちゃって……、のっぴきならない様子だったから連れてきちゃった……」
「……お邪魔、します」
ダリアの幼馴染、九々葉藍がそこにいた。
「……」
「……怒った?」
あからさまに自分の顔が不機嫌に染まっているという自覚があった。
それを見て、ダリアが申し訳なさそうに僕の顔を覗き込んでくる。
「……まあな。せっかくの機会だったのに、とは思ってる……。でも、何か理由があるんだろ? さすがのお前もこのタイミングでただ空気を読まない行動を取るとは思えないしな」
「……ごめんね。埋め合わせは必ずするから……。……藍ちゃん、家出してきたらしくって……」
「……」
言われて、黒染めの制服を身にまとった九々葉に目を向ける。
うつむく彼女の頬にははっきりと涙の跡が残っていた。
「はあ……。そんなこと言われて怒ってられるかよ……。いいよ……、お前とのことはまた、次の機会にでも期待しとく」
「……ありがと」
微笑むダリアに若干肩を落としつつ、九々葉に目を向けた。
「それで、僕はここにいてもいいのか? 九々葉さんとはこの前会ったばかりだし、席を外せっていうなら、いっそのこと帰るぞ?」
「……ああ、いや……」
「だいじょうぶ、です……。わたしがいきなりおしかけてきちゃったんだから……、相田君はそのままで」
ダリアが何か言おうとする前に九々葉が大きく首を振った。
「それなら、いいんだけど……」
「……」
それでも、沈んだ表情の何割かは親友同士の語らいを邪魔してほしくないと主張しているんじゃないかと邪推したくなる。
それから、ダリアが三人分のコーヒーを入れてくると、僕と彼女が並んで座り、テーブルを挟んで正面に九々葉が腰を下ろす形となる。
しばらく、マグカップに口をつけてちびちびとコーヒーをすすっていた九々葉はやがて語り始めた。
「……今日、少し前に受けた模試の結果が返ってきたの……」
「……模試? 大学受験の?」
「そう……」
「気が早すぎないか? 僕らまだ一年だろ」
「進学校とかなら割と普通なんじゃない? 勉強熱心なご家庭ならなおさらのことだし」
ダリアが付け足すようにわざわざ口にしたということは、察するに、九々葉の家庭はその熱心な部類に入るというわけか。
「わたしなりには頑張ったつもりだったんだけど、結果は平均よりもずっと下回ってて、まだまだこれからの話ではあるけど、この調子じゃ志望大学には届かないかもしれないって塾の先生に言われたの」
「気、早っ。一年の夏の段階でそこまで言えるのかよ。大学受験レベルの内容までまだ進んでないだろ」
「……ちなみに藍ちゃんが通ってるのは中高一貫校だから、中学の段階で高校の勉強を先取りしたりもする。だから、まったく的外れな予想とも言い切れない」
「……」
自分が通っているのが普通の高校でよかったと心から思う。中学の段階で高校の勉強をするんなら、中学の勉強はいつしたのだろう。小学校にか。なら、小学校の勉強は以下略。
「それで、その模試の結果がどうかしたのか?」
「うん……。今日、家に帰ってお母さんにその結果を見せたんだけど……」
「ああ、なるほど。勉強熱心なご家庭ゆえのもろもろが発生したってわけか」
「……」
僕がそう口にすると、九々葉は俯いて口を噤む。
「たぶん、藍ちゃんのことだから、一方的に怒り散らす母親のヒステリックな小言を真に受けちゃって、でも、強気に反論することもできなくて、抱え込んだストレスをどこにも吐き出せなくなってここに来た……、そんなところでしょ」
百日の心を読んだような推測に、九々葉が顔を上げ、目を見開いた。
「……なんで……わかるの……?」
「わかるさ。君は単純だからね。小学校の頃からずっと、藍ちゃんがひどく落ち込む理由なんて、母親にしか存在しない。その泣き腫らした顔を見れば、一目瞭然だよ」
「……」
ダリアの断言に九々葉は押し黙り、沈黙をもって彼女の言葉を肯定した。
「ま、そういう事情なら仕方ないよな。好きなだけ百日に頼ればいんじゃね?」
僕は変に九々葉の家庭のあり方に首を突っ込むのを避け、ただそれだけを口にする。
それにダリアが渋い顔をした。
「……君さあ、言うことはそれで間違ってないとしても、それを口にするのは当人であるボクであって君じゃないと思うんだけど?」
「いいだろ、別に。僕が言おうとお前が言おうと、お前には傷ついた友人をこのまま家に帰そうっていう気概はないんだろ? だったら、結局同じ事じゃん」
「それはそうなんだけどさ。ボクのセリフを奪った君にそう言われるのはすげえ腹立つ」
ぶつくさ言いながら、唇を尖らせるダリア。
それに、ゆっくりと九々葉が顔を上げた。
「ごめんね、ダリア」
「いいよ別に。助け合うのが友達だから」
「ありがとう」
笑って言ったダリアに、ようやく九々葉がわずかばかりの微笑みを見せた。
「ちなみになんだけど、別に僕も泊まっていいよな?」
どうにか九々葉が気持ちを落ち着けてきたところの空気を読まず、そんな疑問を投げかけた僕に、ダリアが若干の苦笑いを見せる。
「ボクが誘ったんだから、ダメなわけがないよ。ただ一応、藍ちゃんの気持ちも聞いておきたいところだけど」
「わたしは別にかまいません。さっきも言ったように、押しかけてきちゃったのはわたしの方だから……。相田君は気にしないで」
「……」
無理やり取り繕うように九々葉が笑みを浮かべる。
その表情は見るからに痛々しく、見るからに空々しい。心の中にある悲しい気持ちを表面のみで覆い隠し、最低限の礼儀を守るために、なけなしの気力を振り絞って笑顔を捻出した。そんな顔をしていた。
「無理に笑おうとすんな」
「……え?」
「言っとくけど、そんな愛想笑いをしたところで、僕から稼げるポイントなんて一つもないぞ」
「……ちょっと、君さあ――!」
「ダリアは黙ってろ」
九々葉を庇うように割り込んできたダリアを、ぴしゃりとはねのけ、俺は彼女の透き通るような黒瞳を見据える。
「他人のために笑顔を見せたいのなら笑えばいい。他人なんかに笑顔を見せたくないのなら、仏頂面でいればいい。どうするかはお前の自由で、僕が口出すことじゃない」
九々葉がそうやって、したくもない愛想笑いを浮かべ、従いたくもない母親の教育に従っているとしても、それは当人の意思であり、他者から縛られるべきことじゃない。
「……けど、曲がりなりにも僕は僕の今日の予定をお前に潰された。お前がお前自身についている嘘。その回りまわった損害が僕にまで影響を及ぼした。その嘘がお前自身で完結していたのならそれでいい。けど、ここに至ってそんな都合のいい自己完結は消え失せた。僕はそんなお前に迷惑をかけられた一人だ。その立場から一言、言わせてもらうぞ」
少なくとも、それくらいは言ってもいいんじゃないかと、僕は思った。
「――自分を偽って他人に迷惑をかけるくらいなら、最初から嘘なんか吐くな」
「……」
「お前がどれだけ辛いことを我慢しようとお前の勝手だが、我慢しきれなくなって爆発して、誰かに迷惑をかけるくらいなら、さっさとちょうどいいところで吐き出せ。それもできないんなら、最初から嘘なんか吐くな。――迷惑だ。笑いたいなら、笑え。泣きたいなら、泣け。誰かに迷惑をかけるほど激情を爆発させるんでもなければ、お前の感情を抑えていい存在なんて、たとえ母親だろうと存在しない」
「――あ」
「だから、無理に笑おうとすんな」
僕がそう言った瞬間――。
「――――……っ」
ただただ静かに一筋の雫が彼女の頬を流れるのがわかった。
それが、堰を切ったひびから漏れ出た最初の感情だったのかもしれない。
「――――……ぅぅああ」
九々葉は激情を少しずつ少しずつ解放していくように、声を上げ始めた。
慟哭、し始めた。
人目も憚らず、僕のことも、ダリアのことも目に入らないように、一人で。
「――藍ちゃんっ!」
そんな彼女を慰めるようにダリアが身を寄せる。
その体温に縋るように九々葉が胸を埋め、泣き続ける。
「……」
僕はその光景から黙って目を逸らした。
その涙はきっと僕が見ていいものじゃない。
彼女にとって、友人の恋人という立ち位置にしかすぎない僕が目にしていい類のものじゃない。
人目を憚らずに泣くのは自由であっても、見られて嬉しいものでなければ、そっと目を逸らすのが最低限のマナーだろう。
僕はただ静かに彼女の激情が落ち着くのを待った。
とても間が空きました。そして、番外編。本編の続きに何を書こうとしていたのかは覚えてますが、それが面白いかは自信が持てません。続きを書く気は一応、まだあります。ただ、相田と藍の空気感がたまに見返すと甘すぎるので、それに向き合える気がしていません。ぼちぼち更新したい。たぶん。