歪んでいたもの、歪んでいくもの
宴もたけなわではないが、突発的に生じた昼食会も早々に盛り上がり、十人十色、皆がそれぞれ空腹を満たした後のリラックスした時間を過ごしていると、ちょうど僕の向かい側に座っていた川端が隣の芦原と話している声が耳に入ってきた。
「そういえばさ。さっきすっごい美人に話しかけられたんだけど」
「……へえ、あんた以上の?」
「……真優さあ、わたしがそういう冗談言われるの一番嫌いなの知ってるでしょ?」
「あはは、ごめんごめん。で、なに?」
「それがさ。金髪美人の外人さんでね。職員室はどこですか? って聞いてきて……。珍しいよね。文化祭のお客さんならともかく、職員室に用事なんて何の用だったんだろうって」
「へー。金髪……、百日さんとどっちがきれい? いくつくらいだった?」
「……うーん。見た目だけで言ったら二十代後半ってところ? でも、わたしの女の勘で言えば、三十後半かな?」
「なにそれ。女の勘って」
「なんかさあ。雰囲気がね。ちょっと大人びてるというか……、悪く言えば作ってるというか、そんな匂いがした」
「ふぅん。で?」
「ん?」
「百日さんと比べたら?」
「さあ。外人さんの顔の優劣なんていまいち。……でも、ぴっちぴちの十代の百日さんと熟れた果実の二十代後半(推定)じゃあ、勝負にならないんじゃない?」
「あんた、その言い方……」
などと冗談めかしつつ、二人は笑い合って、話題は流れていく。
なんとなく引き合いに出された百日の方を見ると、向こうもこちらに目を向けていて、まともに目が合った。
「……」
「……」
思いきり魅力的な、作った笑顔を向けられて、僕はしかめっ面になる。
どういう意図でそんな顔を僕に向けているのか。
「ねえ、るり」
そのまま、彼女は栗原に向き直り、最近よく報道されている海外のデモ事件の話題などを持ち出して、栗原を困惑させている。
「ふむ」
顔を百日から反対方向の藍へ向けると、彼女もまた僕を見ていた。
目が合うと、ぷいと逸らされる。
「……」
なにか、気に入らないことでもあっただろうか。
いや、なんとなく察しがつかないでもないんだけど。
「えい」
「……ひゃ!? な、なに……?」
ものすごくかまってほしそうだったので、そっぽを向いた藍の髪をさわさわしてみる。
ふぁさふぁさしているだけで手の中から滑り落ちていく滑らかさが心地いい。
一瞬、肩をはねさせた彼女は、目を見開いてこちらを見た。
「きゅ、きゅうに髪触ってこないでよ。びっくりするでしょ」
「いや?」
「……い、いやとかそういうんじゃなくて……。きゅ、急すぎ……」
「じゃあ、断ってからならいいんだ」
「そ、そういうことじゃなくて」
とかいいつつ、満更でもないご様子。そんな風に僕の髪撫でを受容してくれるあたり、かまってほしかったのはたしかなのだろう。女子的に髪に勝手に触られるのは嫌な人間もいるだろうけど、藍的には問題ないらしい。それとも、相手が僕だからだろうか。
などと上ずったことを考えていると、藍の向こうの芦原に冷ややかな目線で見つめられているのに気付いた。
「相田君、そういうこと日常的にやってるわけ?」
「そういうことってなんだよ」
「……女の子の髪に平気で触れたり」
「別に。なんとなく、今思いついたからやってみただけだ」
「……藍ちゃんはともかく、正直、その様子を傍から見てると、けっこう引くよ? ね? 唯」
「まあ、気持ち悪いと言えば気持ち悪い」
芦原が隣の川端に同意を求めると、思いのほか辛辣な言葉が出てきて、なかなかに傷つく。
癒しを求めて、自然と僕の意識は藍に向き、見計らったように芦原が言った。
「という冷たい意見もあるわけだけど、実のところ、藍ちゃんはどうなわけ?」
「ど、どうって……?」
「あなたの彼氏の相田君、内心引いてるところとかあったりしない?」
「……」
そんなデリケートな問題を本人を前にして聞くなよ。
そう主張したい旨はあったが、残念ながら僕は自己主張に乏しい控えめな性格をしているから、決して口に出すことはできないのだ。単純にさきほどの川端の発言に対して負った傷が癒えないからだというのも理由としてある。というか、それしかない。
「……べ、べつに、わたしはだいじょうぶだけど……。涼が変なのはずっとだし。もう慣れたっていうか、突然なのはびっくりするけど……、別にいやってわけじゃないし……」
「……あ、そ、そうなんだ……ふうん」
自分で聞いておいて、今度は藍に引くような態度を見せる芦原。
残念だったな。優しい藍ちゃんは決して僕を拒むような発言はしない子なのだ。
内心、かなりびくびくしていたのはある。
「じゃあ、逆に訊くんだけど」
ひょこっと芦原の体を回り込んで顔を出した川端が僕を品定めするかのように流し見しながら、藍に問う。
「相田君のいいなって思うところはどんなところ?」
「――嘘をつかないところ」
彼女の答えは即答だった。
単純明快に、そんなことは考えるまでもないといった具合に、半ば機械的に応答した。
「……嘘を、つかない?」
「うん。涼ってわたしにはいつも正直で、ほとんどの場合、変に隠そうとせずにいろんなことを話してくれるの。だから、そういうところがいいなって思う」
「……ごちそうさま」
辟易したように川端が言って、首を引っ込めてしまう。
芦原といい、川端といい、二人揃って自分で訊いておいてげんなりするのは、あまりにもあんまりな態度な気がする。
「僕ってそんなに正直かな?」
話に割り込む気もさらさらなかったが、話題を振っておいて広げる気のない二人を見ていると、なんとなくその先を広げたくなってそんな風に訊いてみる。単純に自分ではそんな風に思えないから気になったというのもある。
「うん。正直だよ。わたしも呆れるくらい正直」
またも彼女は迷いなく即答した。当たり前も当たり前、息を吸って吐くのが当たり前にできるのと同じくらいの勢いで考える素振りがない。
自分ではそれほど自覚がないことだが、藍にとっては僕が嘘をつかないというのは僕という人間に関する大前提らしい。比較的思った通りに行動しているのはたしかだが、それでもまったく嘘をついていないかと言えば、そんなことはないと思うのだが。例えば、藍に彼女自身の嫌いなところはどこかといったことを訊かれたときなど。厳密には、あのとき僕は逃げ出しただけであって、嘘をついたわけではないといえば、その通りなのだが。
「じゃあ、訊くけど」
僕が納得していないのを表情で判断したのか、藍が言う。
「うん」
「わたしのこと好き?」
「好き」
「……じゃあ、今、わたしに隠してることある?」
「ない」
「今、一番したいことは?」
「……藍と手をつなぎたい、かな」
「……わ、わたしの好きなところは?」
「人に誠実であろうとしてがんばるところ」
「…………ほ、ほらね。涼ってぜんぜんうそつかないでしょ?」
なぜか僕ではなく、少し頬を赤くして苦笑いを浮かべている芦原を見て藍は言った。
「いや藍ちゃん、自分で訊いといて照れんなって」
「……て、照れてないもん」
「へえ? そう? じゃあ、相田君と目を合わせて言ってみて」
「……え?」
恐る恐るといった様子でこちらに顔を向けた藍は、目が合った瞬間、即座に顔を芦原の方へ戻す。きれいな黒髪から覗く耳は熟したトマトのように赤かった。
「……む、むり」
「ほら、照れてんじゃん」
「ち、ちがうの。そういうんじゃないから」
「じゃあ、どういうのなの?」
呆れた顔で首を振る芦原に、頑なにこっちをみようとしない藍。
「りょ、りょうがこっちをみるなって顔してるから……」
「僕が?」
「……っ」
面白いので流れに乗って藍の顔を覗き込んであげると、彼女はゆでだこのように顔を真っ赤にしていた。
「……ま、相田君が正直だっていうのはわたしもわかるよ」
それ以上からかうのもかわいそうだと思ったのか、芦原が助け舟を出すようにそう言う。
「そうか? どんなところが?」
「どんなところって……、今だってそうやって、やりたいようにやってるでしょ?」
「まあな」
「平気な顔して認めるし……。やっぱり自分に正直というか……、馬鹿みたいに単純なんじゃない?」
「……」
褒められているのか、馬鹿にされているのか、微妙に気になる言い方だ。若干こちらを見下したような顔を芦原がしているのを見れば、後者の説が濃厚だが。
「それならさ」
「うおっ」
耳元で声がしたので驚いて振り返ると、さっきまで栗原と百日と三人で話していたはずの絹川が僕の後ろに迫ってきていた。
「もし、相田君が藍ちゃんに嘘を吐いたとしたら、藍ちゃんはどうするの?」
「え……」
「……」
虚を突かれたように藍が声を漏らす。なんて底意地の悪いことを訊くんだと、僕はまじまじと絹川の顔を見つめた。
「相田君だってずっとそのままでいるかはわからないじゃない? 何かの事情があって、藍ちゃんに嘘を言うかもしれない。そのとき、藍ちゃんはどうするの? 仕方ないって納得する? 気に入らないって問い詰める? もしくは相田君のこと、嫌いになっちゃう?」
「……」
僕でさえも少し真意を疑いたくなるような絹川の言だが、それでも藍には気を悪くした様子は見られない。単に器が広いゆえにそんな質問さえも受け入れられてしまうのか、それとも、彼女には悪意がないと何となく感じているからか、それとも――。
少しだけ考える素振りを見せた藍は、しばらくして俯いた顔を上げ、それから僕を見、絹川に向き直った。
「……絹川さん」
「……はい」
「涼はそんなことしない」
「……え?」
口にした言葉は絹川の質問に対する直接的な答えではなく、質問そのものの前提を否定した答えだった。
「わたしは涼のことを信じてるから。そんなときは来ないって絶対に言い切れる。涼がわたしに嘘をついたりとか、そんなことするはずない。話せないことがあるのなら、話せないって正直に言ってくれると思う。だから、涼は嘘をついたりしない」
「……そう、なんだ」
問うた絹川も、黙って話を聞いていた芦原も川端も、そして引き合いに出された僕でさえも、藍のその答えに返すべき言葉を失う。
そこにはあるのは圧倒的信頼とか絶対的信用とか、そんな生易しいものではなく、もっと別種の、僕にしてこう表現せずにはいられない――そう……もっとおぞましい何かであるように思われたからだ。
「……?」
雰囲気の変化を敏感に感じ取ったのか、藍が小さく首を傾げている。
周りの人間の想いや態度、空気の変化は敏感に感じているのだろう。その差異を彼女は明確に感じ取っている。でなければ、曲がりなりにもクラスでリーダーのように振舞うことなどできはしない。導くべき集団の意思が見えなければ、その意思の向かうべき方向を定義づけることはできない。
――けれど、その反面、彼女は自分の言った言葉に何の疑問も感じていない。
周りの気持ちを感じることができても、そこに自分の信じるべきものを否定する成分が含まれていることを認識できていない。
自分が口にした言葉が、どういった感情に端を発する代物なのか。何に依拠し、何に基づき、どういったプロセスを経て、発言に至るのか。その出発点をまったくと言っていいほど意識していない。
それに関して、藍は盲目的だった。
自分を疑うことをまるで知らない。
「……信じている、ね」
絹川がぼそりと漏らした言葉がやたらと大きく胸に残った。