昼食
ポケットの振動で目が覚めた。
スマホを取り出すと、藍の名前。
「仕事はもう終わった?」
体を倒した姿勢のまま声を潜めて静かに訊く。
軽く周囲を窺うと、隣のベッドからは規則的な寝息が聞こえてきていた。保健の先生が書類にペンを走らせるカツカツという音も聞こえる。静かな保健室。
「うん。大したことじゃなかったからすぐに」
電話口の藍の声は明るい。大事じゃなくて何よりだ。
「そう。それは何より」
「涼、今どこ?」
「保健室。昼寝してた」
「昼寝って……、文化祭中に……。……なんていうか、涼らしいね」
「僕だけじゃなくて、絹川も隣のベッドに寝てるけどね」
「あ、そうなんだ。絹川さん。……どこか体調悪いのかな」
「さあ、聞いてない」
「そっか。……それより、もうそろそろお昼なんだけど、真優たちとも一緒にご飯食べる約束したから、涼も来るでしょ?」
「……え、もうそんな時間?」
「十一時半だよ」
なるほど。どうやら一時間ほど昼食前の昼寝を敢行してしまったらしい。
「行くと言えば行く。行かないと言えば行かない」
「……どっちなの」
「……行く」
「はいはい。知ってた知ってた」
呆れた声音を滲ませて、冷たくあしらう藍ちゃん。なかなか味わえないその態度に、正直、背筋の辺りがぞくぞくする。
「ちなみに芦原たちって言ったの、正確なメンバーは?」
「……ええと、わたし、涼、真優、唯ちゃん、かなちゃん、るり、ダリア……かな」
「……言っちゃあれだが、美月はいないんだな」
「あ、うん……美月ちゃんは『気まずいからいや』って」
「……」
またその理由で断ったのか。気まずさに固執しすぎだろ、あいつ。
「……ていうか、男、僕一人か」
「……他に誰か呼んだ方がよかった?」
「いや、別にいいけど。そのメンバーの中に放り込まれても、僕ほとんどしゃべらないからね」
「えー?」
女子多数の中に男子一人というのは、想像するだけなら楽しいかもしれないが、実際に体験すると大多数が苦痛を覚えること請け合いの状況だ。好んで選びたい環境ではない。上手くこなせるのは一握りの人間力強者だけであって、残念ながら僕は人間力弱者である。底辺を這いつくばる自閉的生き物なのだ。
「まあ、でも、なんだかんだ百日の奴はまたぞろ絡んできそうだから、あいつとは強制的に会話することになりそうだけど」
「……涼ってけっこうももちゃんと仲いいよね」
「……まあ、少しは」
藍を除けば、知り合い女子の中で一番心情を理解できるのが百日と言っていいかもしれない。
素直に答えると、藍はわずかばかり声のトーンを落とすように言った。
「仲が良いのはいいことだよね、うん」
「……何かひっかかる言い方だな」
「……んー? べつにー。なにも含むところはないよ。なーにも」
「……」
拗ねた思いがあからさまに声音に滲んでいた。
あいつと僕の間に恋愛感情など皆無だというのに。
それも彼女は承知の上だろうが、それをわかっていても、承服しかねる感情があるということか。
昨日の帰りにもふざけ交じりに百日と話したが、彼女は僕を良き友人としか思っていないだろう。もちろんそれは僕にとっても同じである。
「とにかく、ご飯! みんなでそれぞれ好きなものを買ってきて、分け合いながら食べようかって話になってるの。だから、涼も何か買ってきて。十二時に教室だよ」
「あ、また教室なんだ」
「……仕方ないでしょ。そんなに大人数でどこかのクラスのお店や道端にたむろしてたら、一般のお客さんに迷惑かけるかもしれないんだから」
「それはそうか」
「じゃあ、よろしくね」
「はーい」
電話を切って、ぱたりと腕をベッドの上に置く。
「……」
「……ねえ」
一拍置いて、寝息が聞こえていたはずの隣のベッドからカーテンを跨いで声が聞こえてきた。
「そのお昼ご飯の会。わたしも行っていい?」
「……聞いてたのか」
「聞こえてきたの」
「……返事は藍か栗原あたりにでも直接聞いてくれ」
「まあ、相田君に決定権ないか……。そりゃ、そうだよね」
「……」
釈然としないながら、体を起こした。
十二時。教室。
藍の呼びかけに応じたメンバーがそれぞれ机と椅子を運んできて円形に腰を下ろす。
窓の方を零時の方向として、時計回りに、僕、藍、芦原、川端、弓広、絹川、栗原、百日の順に顔を合わせている。つまり、僕の両隣には藍と百日がいる。
「あれ? そういえば、さっき教室に寄ったとき、美月いたんだけど、あいつはどこ行ったんだ?」
「愛子ちゃんなら、涼と絹川さんと入れ替わりに保健室に行ったよ」
「……そうか」
あくまでも頑なに気まずさに固執する腹積もりなんだな。別にいいけど。
保健室でふて寝を決め込んでいるであろう気弱系女子の姿を思い浮かべていると、藍が僕の目の前に置かれた食べ物を覗き込み、苦笑するように僕を見上げる。
「で、涼が持ってきたのはこれなの?」
「これだね」
「……わざわざコンビニまで行ってきたんだ……」
僕が買ってきたのはコンビニのおでんであり、大根、玉子、ちくわ、巾着などが所狭しと器に詰まっている。
「普通、この状況でみんなで持ち寄るって言ったら、文化祭の屋台のことだと思わない?」
「でも、屋台の数少なくて、種類も限られてるし。何より、おでんが食べたかったから」
「食欲に忠実だね、相田君」
「さすがは相田だ。予想の斜め上を行く捉え方」
やや柔らかい笑顔を浮かべて受け入れる姿勢なのは芦原で、若干馬鹿にした風に唇の端を歪めたのは横の金髪だ。彼女たちの前にはそれぞれ、プラスチック容器に入った焼きそば二パックと、同じくたこ焼き二パックが置かれている。後者が金髪の買ってきたもの。
「逆に何で百日は普通に文化祭らしいもの買ってきてるんだよ。そこは僕と同じで、微妙に予想外してこなきゃだめだろ。隣町まで行って人気のクレープ屋の一番人気の商品を人数分買ってくるとか。それで、うちのクラスの素人クレープとの差をみんなに思い知らせて、若干空気を重くするとか、そういうことやらなきゃだめだろ」
「……あのさあ。君はボクのことを一体全体、どういう人間だと思ってるわけ」
「常に人の期待を裏切ってくるひねくれもの」
「……っ。言葉を選ばず、ずけずけと言ってくれるね」
ふん、と鼻を鳴らして腕を組む百日。
まあまあ、日ごろの行いだよ、と彼女をなだめるその隣の栗原の前には、うちのクラスのクレープが何皿か置かれている。加えて、彼女自身は何やら先ほどからずっと、表情を緩ませていた。
「ところで栗原は何かいいことでもあったのか?」
「え? どうして?」
「さっきからずっとにやにやしてるから。お前にしては珍しい」
「……そんな顔してた?」
「してた」
「……うーん。特に何があるってわけじゃないんだけどね。ただ、午前中ずっと、ダリアと一緒に文化祭回ってて、それが楽しかったからかな」
「へー」
息を吐くだけのような声を漏らして、視線を栗色から金色にスライドさせると、目が合った彼女は、表情を険しくして、その蒼色の瞳をすっと細めた。
「何? なんか文句ある?」
「いーや、べーつに。お友達同士、仲がよろしいことで」
「……なんて腹立つ顔を……」
わなわなと眉根を震わせる百日の顔を見ていると、そこはかとなく楽しい気持ちになってくる。
この日常から離れた中の、日常感。祭りの楽しみというのはこういうところにあるのか、となんとなく思った。
「っていうか、そろそろ食べないの?」
更に言い合いを続けようとする僕と百日のやり取りを引き裂くように、絹川がぼそりと言った。
それを機に、皆一様に手元の食べ物に目を落とす。
きゅぅ、と、誰かの腹の音が小さく鳴った。
「そ、それじゃ、食べよっか、うん!」
「……」
みんなを見渡しながら呼びかけた藍の頬は少しだけ赤い。
それでも、僕もみんなも変にからかったりせず、昼食を取り始めた。
徐々にギア上げつつ、次の展開に向けた準備をしていきます。ただの日常はつまらないようにも見えるかもしれないですが、一応、随所に布石となる部分を置くため、プラス、自分がやりたいからやっているって感じです。