エンカウント
携帯が鳴った。
隣を歩いていた藍がスカートのポケットに目を落とす。
僕のものが同じように震えることは月一くらいでしかないので、確認する必要もない。
メールでもその他通知でもなく、電話だったようで、画面をタップした彼女が通話に出る。
「はい、九々葉です」
スピーカー部分を手の平で包み込むようにした藍が、控えめに、しかし、丁寧に相手の話に相槌を打つ。
やがて、通話が終了した。
「ごめん、涼」
無機質なスマホの画面から顔を上げた彼女は、とても申し訳なさそうな顔をしていた。
「なにか問題でもあった?」
「ちょっと、実行委員の方で呼ばれて、再度クラスの方に通達してほしいことがあるから、って。本部の方に行かないと」
「ふぅん」
催事のやり方として不適切なふるまいに及んだクラスでもあったのだろうか。屋内では火気厳禁だとか、過度の露出はご法度だとか、その手の原理原則を一時のテンションで障子紙のように破り捨てる。ままある話だ。
「残念だけど、どうしようもないね。僕は適当にその辺をうろついているよ」
「ほんとごめんね。埋め合わせはまた何かする」
「……そんな別に。藍が悪いわけじゃないんだから、かまわないのに」
「ううん。なにかさせて」
そうして一心に目を見つめられると、遠慮することすら憚られるように感じてしまう。
「わかったよ」
「うん! じゃあ、行くね!」
心なしか表情を明るくした藍が、小さく手を振って早足でその場から去っていく。
その後ろ姿を見送ると、僕ははあ、とあからさまに大きなため息をついた。
「まったく、どこの誰だ、余計なことをしたのは」
実際問題、本当に誰かがルールを破るような行いをしたかどうかもわからないままに、そう悪態をつく。何かもっと、別の理由による呼び出しという可能性だってあるのだが、情報の行き届かない末端存在である僕は、ただ考え得る限りの可能性を持って、誰かに責任を転嫁するだけなのだ。
「はあ」
もう一度大きなため息をつくと、どこで時間を潰すべきかを一人、思案する。
行くべき場所はいくつかある。
荷物置き場となっている教室か、仮病覚悟の保健室か、素人バンドが下手くそな演奏を披露している講堂か、その辺のクラスの喫茶店をやっているところ……は長時間いるわけにはいかないか。
立って歩くにも億劫なので、どこか座って時間を費やせる場所となると、それくらいとなる。
人ごみに塗れる時間を少しでも少なくしようという、心の中優先順位に従って、素直に教室へと向かった。
「……あ」
「……あ」
そうして出くわしたるクラスメイト一人。顔を合わすのは微妙に気まずいような思いも抱く相手。
美月愛子だった。
窓際に椅子を寄せてぼうっとグラウンドを眺めているところに、僕が教室に足を踏み入れてしまった。そういう状況。
「……えーっと」
「……あぅ」
思わず知れず、思いも寄らない相手と出くわしてしまって、言葉に詰まる。
何か言ったらいいのか、それとも何も言わずに踵を返したらいいのか、あるいは平静さを取り繕ってこの場に留まることをよしとするか。
頭の中に巡る選択肢ゆえに、出てくる言葉は何もなかった。
「な、なんで教室……に?」
それから数拍の後、機先を制されるように美月に問われ、質問を持て余すように腕を組んだ。
「……手持ぶさただったから、どこか時間を潰せるような場所がないかと……」
「そ、そうですか……?」
「お前は……?」
「え、え、わ、わたしが……なに?」
「いや、何で教室にいるのかって話だよ」
「あ、ああ。あ、あ、あ、あの、お、同じ」
「え?」
「居場所がないから……、なんとなく教室に」
「あ、そう」
「うん」
いや、別に僕は居場所がないなんて一言も言ってないんだけどね。あくまでも手持ぶさた。やることがないと言っているに過ぎないのだから。
「じゃあ、僕も時間潰していい?」
「……え、え、え、え、え……」
開けた扉を閉じつつそう尋ねると、目を真ん丸にして驚いた顔。
次の瞬間、思いっきり彼女は首を振った。
「いや……です」
「……え?」
「藍ちゃんの彼氏と二人きりとか気まずくて居心地が悪いのでいやです」
「……」
ものすごくストレートに言うものだ。何なら、僕以上に。しかも、なんでそこだけ言葉に詰まることもなくすらすらと声に出せるんだよ。さっきまでの動揺ぶりはどこに消えた。
「お前、面白いな」
「……え?」
あからさまな拒絶を受けたのも関わらず、自然と僕はそう口にしていた。
美月が目を白黒させる。
「いや、だって、普通もう少し、オブラートに包んで言うものだろ? 気まずいからいやとか、なかなか直接相手に言えたもんじゃない。むしろ気持ちいいくらいだ」
「……え、え、ええっと」
打って変わって、今度は言葉を選ぶような素振りを見せた彼女は、次の瞬間にはぼそっと口にする。
「マゾ?」
「……」
「あ、ごめんなさい」
そして即座に頭を下げた。
何なんだろうな。この感じ。
情緒が安定しきってないって言えばいいのかな。
臆病だったり、あけすけだったり、辛辣だったり、キャラが定まってない感じ。
「否定も肯定もしないけど。あえて言うなら、お前に冷たくされようと優しくされようと、僕はそんなに興味がない」
「……」
その言葉に顔を上げると、美月はじっと見定めるように僕の顔を見つめた。
「……その、お、お、怒ってないんですか?」
「怒る? 何に?」
「……藍ちゃんにひどいことをしたこと」
「ああ」
よくよく考えてみれば、美月は藍の実行委員の仕事の邪魔を再三に亘ってした挙句に、藍にやけどまで負わせた、僕にとっては許されざる人間のはずだった。
そんな相手に僕が怒ってもいないというのも、少し奇妙かもしれない。
「んー、怒ってはいないけど……」
「け、けど……?」
「いや、怒ってはいないな」
「はあ」
不満そうな相槌に、ちらと彼女の顔色を窺った。
怯えと疑念と興味、三種混合してる感じ。
小動物のようなくりっとした瞳を軽く見開いて、じっとこちらを見据えている。
「だって、お前、子どもだから」
「こ、こども?」
「そう。僕だって十分子どもだけど、お前はもっとだ。小さな子どものいたずらに、そう深くいつまでも根に持つ人間もいないだろう」
「……こ、こども……」
若干、ショックを受けたように、ぱちくりと二度瞬き。
額に手を置いた。
「まあ、お前がいやだっていうのなら、わざわざここに留まることもしないけど」
「……」
「まだいや?」
「いや」
そこだけは本当正直だな。
「わかったよ。僕は保健室にでも行くわ。じゃ」
未練なく背を向けると、教室の戸を開いた。
「……あの」
「ん?」
聞こえるか聞こえないかぎりぎりぐらいの音量で声をかけられて、本当に声をかけられたのか疑問に思いながらも振り返る。
「す、すみませんでした……」
「……ああ、うん」
深く頭を下げた謝罪の態度は、あけすけな物言いを省みてのことだろうか、それとも藍に対する諸々に対してのことだろうか。
どちらとも知れず、訊く気もなかった僕は、その場を後にした。
保健室。
「ベッドを貸してください」
「あら、こんな文化祭中に。仮病かしら?」
「いいえ、ちょっと頭が痛くて。睡眠不足だと思うので、寝てれば治ります」
「あらそう。それは仕方のないことよ。あなたは頭の痛い子だものね」
「……」
「冗談よ」
などという保健の先生とのやり取りを経て、無事ベッドに寝転がる。
文化祭期間中だから、他に誰も寝てやしないだろうと、特に確認もせず、近場のベッドのカーテンを引く。「あ、そっちは寝てる子が」
先生の注意は時すでに遅く、ベッドの上の先客とばっちり目が合ってしまった。
「相田君?」
「……ええと、誰だっけ?」
白い枕の上に、その女子生徒のよく手入れのなされた髪が広がっている。白に映える焦げ茶色。癖はなく、長さは肩にかかるほど。
上体を起こすことなく、胸の辺りに掛布団を滞留させたまま、だるそうにこちらを見つめていた。そのまなじりはわずかに吊り上がっており、仰向きに寝たその姿勢においても、その視線は鋭かった。
「クラスメイトの名前も覚えてないの? 相田君」
女子生徒が不満そうに眉をひそめてそう言った。
そう言われても、顔は覚えていても、名前に関してはすぐにぱっとは出てこない。
「絹川よ。絹川悠里。クラスメイトっていうか、同じ雑用係だったよ」
「ああ、絹川。そうか。そんな名前だったな」
「ひどい」
淡泊に言った彼女は、不満を態度で表明するように寝返りを打って、こちらに背を向ける。
白い布団よりも少しだけ青みがかったシャツの背が大きく覗いた。
「透けてるけど、いいのか?」
「っ……!?」
ぼそっとつぶやくと、慌てたように彼女は腰を起こした。
けれど、体を起こしたところで、自分の背中は確認できない。
僕が口にした言葉が事実がどうかは確かめようがない。
「……ほ、ほんとに透けてた?」
「さあ」
「さあ、って、相田君が言ったのに」
「なんとなくそんな風に見えたから、言ってみただけ」
「曖昧」
やはり淡泊に、聞く人によっては興味がなさそうに彼女は言うと、僕の顔をじっと見つめた。
「……九々葉さんはこんな男のどこがいいんだろうね」
「さあ。それは永遠の謎だな」
「本気で言ってる?」
「適当にしゃべってる」
「そう」
ぽつりと言うと、絹川はまた、ばたりと体を倒した。
目線だけをこちらに向けてくる。
「相田君も寝に来たの? わたしと話してないで、寝たら?」
「そうする」
カーテンを閉め、隣のベッドに移動した。
靴を脱いでベッドに寝転がると、絹川がまた話しかけてきた。
「仮病?」
「仮病」
「正直に言うのか」
「嘘つくの、面倒くさい」
「そう」
沈黙が落ちたので、もう話は終わりとばかり、僕はさっさと寝てしまおうと思った。
けれど、彼女はしつこく話しかけてくる。
「相田君」
「……なに?」
「自分に正直に生きるってどういうことだと思う?」
「突然、何を言ってるんだ?」
「自分に嘘をつくってどういうことだと思う?」
「……僕の話聞いてるか?」
「わたしは自分に正直に生きることは、わがままなようにも思えるし、自分に嘘をつくことは、ただ逃げたいだけにも思える」
「……あの」
僕が何を言おうとおかまいなしに、絹川は続ける。
「周囲に合わせて自分に嘘をつく行為は、自分を傷つけるし、周囲に合わせずに自分を押し通す行為は、周りを傷つける。どっちにしたって、誰かを傷つけるの。八方塞がりだって思わない?」
「……なにが言いたいのか知らないけど、だったら、自分に正直に周りに合わせたらいいんじゃないの」
「……え?」
「そんな上手く行くか知らないけど、自分も無理をせず、周りにも負荷をかけないちょうどいい妥協点でも探せばいいんじゃないの。自分も周りも同じようにとはいかずとも、そこそこに尊重すればそれでいいんじゃね」
「……へえ。なるほど。面白い意見ね」
「適当にしゃべってるだけだけど」
「そう」
小さく言うと、今度こそ絹川は黙った。
黙ったのだが、逆に今度は僕が訊いてみたくなった。
「なあ、お前って誰だっけ?」
「はあ? さっき名乗らなかった? 絹川悠里よ」
「……そういうことじゃなくてな。よくよく考えるとお前って誰だろうって思って」
「……何を言ってるの?」
「藍とクラス会でしゃべってたし、僕と同じ雑用係で、美月の悪行を暴いたりしてたけど、よくよく考えるとお前って誰だろうって」
「相田君の言ってることが一つも理解できないんだけど」
「……絹川って、一言で言うと僕にとってどういうポジションの人間?」
「……だから、意味がよくわからないけど……。あえて一言で言うなら、ちょっと鋭いその辺のクラスメイト?」
「……なるほど」
納得もいかないが、特に反駁も湧いてこない。まあ、そんなものか。
「何が訊きたかったの」
「別に。腑には落ちないが、輪郭は理解した。それでいい」
「……じゃあ、逆に訊くけど、わたしにとって相田君はどういう人間なの?」
「ちょっとおかしなその辺のクラスメイト?」
「……ちょっとを抜けば、その通り」
「だろうな」
「わかってるなら、何で付け足した」
「見栄を張りたいお年頃なんだ」
「そんな見栄いる?」
それっきり無言が落ちる。
妙に話が続いたということに自分で自分に驚いた。
その辺のクラスメイトにしては、よく僕の相手が務まるものだ。
思い出したように、また彼女が言った。
「もう寝るけど、最後に言い残したことある?」
「ない」
「そう」
そのままいつの間にか眠った。