本気
勉強会の当日がやってきた。
待ち合わせは校門に午前十時。
九時に家を出てママチャリを飛ばせば、普通に間に合う計算だった。
七分袖の白いTシャツに暗色のカーゴパンツ。
そんなファッションに身を包んでいる。
リビングでソファーに寝っ転がりながらテレビを見ていた妹にファッションチェックをお願いしたところ、「はいはい、かっこいいよー」と棒読みで言われたので、たぶん、それほど外してもいないだろう。
まあ、九々葉さんがどれほど僕の服装に注目するのか未知数なところもあるから、そんなに気にしなくてもいいのかもしれないが。
学校前までやってくる。
辺りを見渡したところ、人影は見えない。
彼女はまだ来ていないようだった。
腕時計を確認すると、午前九時五十分。待ち合わせの時間にはまだ少し間がある。かといって、別にやることもないが。
七月の暑い日差しを受け、頬を汗が伝う。
ここまで自転車を飛ばしてきたこともあって、けっこう汗をかいていた。
鞄からタオルを取り出して汗を拭いた。途中の自動販売機で買ったスポーツドリンクをラッパ飲みする。
喉の渇きが潤って、体に活力が戻って来た。
駐輪場にママチャリを片すことなく、スタンドを立てた自転車のサドルに横座りしていると、九々葉さんがやってきた。
「あ、ごめん。ちょっとぎりぎりになっちゃったね」
制服姿で現れた彼女の言葉にもう一度腕時計に目を落とすと、示している時刻は午前九時五十八分だった。
「ううん。まだ二分前だし、気にしないで」
「……ありがと」
小さくお礼を言って、彼女が見上げてくる。
彼女の身長は百四十センチ後半。僕は百七十センチ後半。
普通にしているだけで身長差はそれなりにあるし、僕がサドルに座っていても、やはり少し彼女が見上げるような位置関係になる。
「ところでさ」
「ん?」
「なんで制服を着てるの?」
見慣れたセーラー服姿の彼女に、自然と湧いてくる疑問をぶつけた。
九々葉さんはちょっとたじろぐように目をぱちくりとして、それから言った。
「あ、えっと、休日でも学校に来るんだから、制服を着ないといけないかなって」
「中に入りもしないのに?」
「中に入りもしないのに、です」
当然のように彼女は答えた。
ふぅん。またぞろ、彼女なりの誠実さということだろうか。
そこまで固く考えなくてもいいとは思うが、別にわざわざ目くじらを立てるようなことでもない。
「徒歩五分だっけ? 家」
「あ、うん。そうだよ。行こっか」
「行こう」
踵を返す九々葉さんの隣に自転車を押して並び、横目でこちらを窺うようにした彼女に、肩をすくめるようにして返すと、彼女は楽しそうに唇を緩めた。
夏の日差しの鋭さも、焼き尽くすような暴力的な熱波も、彼女と二人で歩いているだけで、急速に和らいでいくように感じられた。
五分ほど歩いて彼女の家に到着する。
家の前に車が二台ほど止められる空間があった。どちらも埋まっていないところを見ると、両親は別々に出かけているというところだろうか。
玄関脇に自転車を停めさせてもらい、鍵をかけた。
段差を三段ほど登ると玄関扉があり、スカートの裾を翻して中に入っていく彼女に続いて、僕も足を踏み入れた。
「おじゃまします」
小さく断っておく。
「えっと、こっち」
先導する九々葉さんに連れられて入ったのはリビングだった。
四人掛けのテーブルにはお茶菓子が用意されている。
その向こうに外がみえる大きなガラス戸があって、その前にソファーと、台の上にテレビが置いてあった。
彼女にテーブルにつくよう促され、席に着くと、麦茶を振舞われた。
「あの……、わたし、ちょっと部屋着に着替えてこようと思うんだけどいいかな?」
立ったままだった彼女が僕の表情を窺うようにしてそう言った。
「ああ、うん。僕はここで待っていればいいのかな?」
「うん。ごめんね。すぐ戻るから」
そのまま彼女はリビングを出て行った。
僕は誰もいないリビングに取り残される形となる。
けれど、楽しみに胸が躍る。九々葉さんの私服がようやく拝めるというわけだ。
そんなわくわくする心境を落ち着けようと、麦茶を一口、口にする。
よく冷えていて、日差しの中、五分歩いた体に染み渡った。
「あれー?」
しかし、そんな風に落ち着いていられるのもそれまでだった。滲み出る不信感を隠そうともしない声がリビングの入り口から投げかけられたのだ。
そちらに視線を向ければ、九々葉さんによく似た、けれど、彼女に比べて身長とか胸とか、いろいろな箇所が発達した女性の姿がそこに見られる。
おそらくは九々葉さんが言っていた、彼女のお姉さんだと思われる。
「あ、あの、初めまして、えーと、藍さんの友達の相田涼です」
「相田? ああ、そういや、勉強会とか言ってたなー、へえ、君が相田」
独り言つように言いながら、彼女はうんうんと大げさに首を振ってみせた。
それから、椅子を引いて僕の正面に腰を下ろす。
自分の分のコップを持ってきて、テーブルの上のクールポットから麦茶を注いだ。
「あたしは藍の姉の九々葉楓。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」
じっとりとこちらを睨みつけるような視線を送ってくる彼女にちょっと怯えつつ、なんとか答えた。
「あたしのことは楓って呼び捨て、もしくは言いづらければ楓さんとでも呼んでくれればいいよ」
「あ、わかりました。楓」
「……普通、初対面の年上の相手を呼び捨てにする?」
「あ、じゃあ、楓さんで」
「……うん」
どこか苦笑する風に楓さんは頷いた。
呼び捨てが嫌なら、最初から言わなければいいのに、と思う。
ごくりと音を立てて楓さんが麦茶を飲む。
彼女は椅子の上に片膝を立てるようにして足を上げていて、もう一方の足を僕の近くまで野放図に伸ばしてきていた。片手でまるで酒を煽るように豪快に麦茶を飲む。
なかなかに男らしい。
着ている服は薄い生地のピンクのキャミソールに、白色のショートパンツだけだった。
肩紐なんか軽く肩からずり落ちそうに緩んでいて、目のやり場に困った。
「一つ、訊いておきたいんだけどさ」
トンと音を立ててコップをテーブルの上に置いた彼女が威嚇するように僕を見つめて、口を開いた。
「あんたはどういう目的で藍に近づいてきたわけ?」
「……どういう目的、といいますと?」
「藍のことをからかっているわけ? 見下しているわけ? 馬鹿にしてるわけ? それとも、体目的? 幼い肢体の女子高生に興奮するとかいう変態趣味?」
楓さんは言葉を選ぶこともなく、まっすぐに僕に訊いてきた。
回り道をすることもなく、持って回った言い回しにこだわることもなく、一心に僕という存在の価値を確かめるように、ど真ん中ストレートを投げ込んでくる。
それはおそらく、彼女が妹を心配しているからなのだと思った。
藍さんはあんな性格だ。
家族からすれば、高校生活が心配になるようなところもあったのだろう。
そんな折、彼女が勉強会という名目で男を連れてきた。
これには彼女を心配する家族としては反応しないわけにはいかない。
「好きだから、ですけど」
「は?」
「いや、だから、好きなんですよ」
だから、僕は正直に答えることにした。
藍さんの姉である楓さんが妹のことを心配してそんなことを訊いてきているのならば、それに真剣に答えないわけにはいかない。
それが誠実さを旨とする藍さんに関わることを決めた僕なりの覚悟であり、決意の表れだった。
「あの藍のことを? 本気で?」
「……ええ。本気で」
半ば疑うようにして投げかけられる疑問に力強く頷きを返す。
「あたしの聞く限りだと、あの子は学校で相当無愛想な姿勢を貫いていたと思うんだけど、そんなあの子のどこに好きになる要素があったの?」
「好きになる要素がないと好きになってはいけないんですか?」
「……ははっ」
どこか小気味のいい笑い声を漏らして、楓さんは前頭部の辺りをぽんぽんと叩いた。
「変わり者もいるもんだね。顔はかわいいかもしれないけど、今の藍を好きになる子がいるなんて……」
「変わり者、ですか?」
「ちがうとでも言いたいの? 相田君はどう見ても変わり者の類に類する人間だけれど」
「人類皆変わり者だと僕は思いますけどね」
「……何言ってんの?」
「ほら、よく言うじゃないですか? 男と女は別の生き物だって。男からすれば女は別の生き物で、女からすれば男は別の生き物。それは何も体のことだけ言ってるわけじゃないんでしょう? 価値観が異なるから、自分と違うようにみえるわけで。だとしたら、僕という人間と価値観が異なる人間がいたら、その人からみれば十分僕は変わり者に見えるわけでしょう? 人類皆、価値観は違っている。だから、地球上のどこかにいる自分とはまったくちがう価値観を持った人間からみれば、自分は変わり者になる。それはすべての人間に同じことが言える。イコールで人類皆、変わり者」
滔々と自身の理屈を語った僕に、ぽかんとして耳を傾けていた楓さんは「ぶふっ」と唐突に吹き出した。
「あははははっ! 相田君、あんたなかなか面白いこと言うね。その年でそんなひねくれたものの考え方ができれば大したもんだよ! あはははは」
腹を抱えて笑いながら、楓さんはそんなことを言う。
正直、笑いすぎだと思う。
「人類皆変わり者とか、そんなこと言い出す時点で十分お前が変わり者だっつーの……あはははっ」
「あの、あからさまに馬鹿にしてません?」
「してないしてない。ちょっと面白がってるだけ」
「それを馬鹿にしてるって言うんじゃないんですか?」
まったく失礼な人だと思う。
藍さんとは正反対な性格をしている。不誠実なんてもんじゃない。無礼だ。
けれど、その軽やかな笑い声のせいか、あまり怒り自体は湧いてこない。
その辺、不思議な人徳でもあるのかもしれない。
「……なるほどねえ。藍が嬉しそうに話をするわけだよ」
ちょっとしてようやく真面目な表情に戻った彼女がつぶやくように口にする。
「あれ? 僕のこと全然知らないみたいな口ぶりじゃありませんでしたっけ?」
「そんなこと一言でも言った? あたしは単にあんたがどんな人間か見極めようとしてただけだよ。妹を溺愛しているあたしとしては、もし不逞の輩が妹を誑かしているようなら、そいつを排除しないといけないから」
「……そ、そうですか」
排除、と言った楓さんの瞳は氷のように冷たかった。
おそらく本気で排除する気だったのだろう。どんな方法かは想像できないが。
「あの……、僕からも一つお訊きしていいですか?」
「ん? ああ、いいよ。なに?」
「藍さんは僕のことを家でどんな風に話していますか?」
「……んー」
楓さんは何か渋るような声を出し、一口麦茶を飲んで喉を湿らせる。
「そうさねえ……。少なくとも悪い風には言ってないと思うよ。いい人だとは思っているみたい」
「何ですか、その煮え切らない言い方」
「……こっちにも事情があるのよ。あたしに言えるのはこんくらい」
「……」
まあ、憎からず思われているのならば、それでよしとするべきだろうか。
「……ていうか、藍さん遅いんですけど」
「ん? そういえば藍はどこ行ったわけ?」
「部屋着に着替えに行きましたよ。学校に行くからって制服で待ち合わせに来てて……」
「あー、あいつは本当に融通の利かない奴だよなー。休日なんだから、そんな固く考える必要ないのにねー」
「そうですね」
相槌を打ちながら、何となく天井を見上げる。
服を選ぶのにでも時間がかかっているのだろうか。
「藍が降りてくるのにまだ少し時間ありそうだし、もう一個だっけ言っとこっかな」
視線を前に戻すと、楓さんがずり落ちかけていたキャミソールの肩紐を引っ張りながらそんなことを言った。
「……まだ何かあるんですか?」
「そんな嫌そうな顔しないでよ。別に大したこと言うつもりはないよ。ただちょっと忠告」
「忠告」
「そうそう。あんたが今恋しているところの藍の姉からの素敵なアドバイスよ? 訊いておいて損はないでしょう」
「はあ」
気の抜けた返事を返す。
大抵、自分からありがたい言葉とか素敵だとか言いだす人間の忠告にろくなものはない気がする。
そんな僕の胸中を知ってか知らずか。
楓さんは一切意気を減じることなく、鋭い目つきで僕を見据える。
「藍と関わっていくつもりなら、いつも本気で向き合いなさい」
本気、と彼女は言った。
「あの子はね。中途半端に人と関わることを知らないのよ。人間関係を1か0かで考えてる。常に本気か、まるで興味がないか。そのどちらかでしかいることができない。……少なくとも今は。あの子は本気で誰かと関わろうとするし、あるいはまったく関わろうとしない。だから、あの子とまともな関係を築くようになったあんたには、意識していてほしいのよ。あの子と関わるときには常に本気で向き合うってことを」
さっきまで僕を威圧するような態度を取っていた楓さんの表情にあるのは、深い憂慮の感情だけだった。
「別に、中途半端に生きるのが悪いって言っているわけじゃないわ。人間、何にでも本気で向き合っていたら、心がいくつあっても足りないものね。でも、何かに本気で向き合っている人間がいるのなら、その人に向き合う人間もまた本気でなければならない、少なくともあたしはそう思うわ。そうでなければ、その本気の人間か、その人に向き合った人か、あるいはその両方の心に傷を残すことになる。そんなのは双方報われないでしょう。だからね。藍と向き合うあんたにはできるだけ本気でいてほしいのよ」
僕は素直に感心していた。
楓さんの語る理屈からは、藍さんへの深い理解が感じ取れる。
姉妹とはいえ、そこまで他人を理解しようとするこの人はとてもすごい人間だと思った。
「わかりました。僕にできるかぎりの本気で藍さんには向き合いたいと思います」
僕はできるだけ真摯にそう答え、それに彼女が頷いた。
「ん。よろしく」
そんなところで、ぱたぱたと階段から誰かが降りてくる音がした。
「ご、ごめんねっ。遅くなっちゃった……」
申し訳なさそうな表情と共にリビングに現れた藍さんは、口元に片手を立てて僕に頭を下げた。
「いや、大丈夫だよ。その間、楓さんが相手をしてくれていたから」
「そういうこと。だから、平気よ。藍ちゃん」
頭を上げた藍さんは、不思議そうな表情で僕と楓さんの顔を見比べた。
きょとんとした顔をしている。
そんな彼女の出で立ちは半袖のグレーのブラウスに白色のキュロットスカート、というものだった。
控えめだが、落ち着いた服装が彼女によく似合っている。
「私服かわいいね、藍さん」
「あ、ありがと……相田く、って、藍さん?」
「あー……」
楓さんとこんがらがらないように、九々葉さんじゃなくて藍さんと呼ぶようにしていたら、本人の前でも口にしてしまった。
撤回するのもなんだか悪いし、ここは開き直ろう。
「え、えーっと、そういう呼び方嫌だったかな?」
驚き顔だった藍さんが、その言葉にはっとして、ぶんぶんと手を振る。
「う、ううん。だいじょうぶだよ。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
「じゃあ、これからは藍さんって呼ばせてもらうね」
「う、うん。……なら、わたしは涼君って呼んだらいいのかな?」
「……あ、あー、そうだね。その方が嬉しい」
「……ふふっ」
僕が答えると、藍さんは嬉しそうに笑った。
彼女との距離がまた少し縮まった気がして僕もとても嬉しかった。
「……仲がいいねー、お二人さん」
楓さんが茶化すようなにやにや顔で僕らを見ていて、僕と藍さんはちょっと恥ずかし気に顔を逸らした。