お化け屋敷
文化祭一日目が終わると、実行委員による校内放送が流れる。
絨毯の上に寝転んでいた僕と藍は体を起こして、ぼんやりとお互いの顔を見つめる。
まるで起き抜けのようなその様子に、どちらからともなく小さく吹き出した。
「早いもんだね、一日目も」
「午前中はずっとお店の方をやってたからね。ほんと、あっという間」
まったりくつろいでいた他生徒たちがぽつぽつと顔を上げ、教室を出て行く。
天文部の生徒の一人がプラネタリウムのスイッチを切り、室内の照明を入れたところで、僕らも重い腰を上げた。
「わたし、これから実行委員の方で一日目の反省点を話し合う集まりがあるから、涼は先に帰っても大丈夫だよ」
「あ、そうなんだ。りょーかい」
廊下に出てしばらく、昇降口に向かおうとする僕に先んじるように彼女がそう言った。
気のない返事を漏らした僕に、ばいばい、また明日、と彼女が手を振り振り、広々とした会議室のある職員室の方角に向かう。小さく片手を挙げた僕は、そんな彼女に背中を向けて、階段を下りた。
文化祭二日間の締めくくりとして、明日の夕方には閉会式のようなものがあるが、一日目の今日の終わりは自由解散だ。
後片付け等の役割がない者は、教室等に居残って余韻に浸るのもいいし、さっさと帰宅するのもまたよしだ。その辺は各自の判断に委ねられている。
僕は後者。なんなら浸る余韻など少しも存在しない。
藍がいるのならそうするのもやぶさかではないが、いないのならこだわるだけ時間の無駄だ。
さっさと下駄箱までやって来ると、見知った目立つ後ろ姿を見つけた。
「よう、百日」
「おう、相田」
軽く声をかけると、小気味のいいおうむ返しのように彼女がそう返答する。
「お前も今帰りか?」
「うん。居残ってやることも特にないしね。相田は? 藍ちゃんと一緒じゃなかったの?」
「藍は実行委員の集まりがあるとさ」
「へえ。ご苦労なこったね」
肩をすくめた百日は、藍の苦労を慮るように大仰に首を振る。
そんな彼女の様子に、午前中の店番をしていたときのことを思い出して、ふと訊いた。
「お前も一人か? あのお父さんは?」
「……午前中で帰った。たかだか高校の文化祭のために、無理して時間作って一時帰国してくれたんだよ。本当、ご苦労なことだ」
「たかだか高校の文化祭のため、というか、大事な一人娘のため、なんじゃないのか?」
「……っ」
真顔でそう言うと、瞬時に顔を真っ赤にする。
「そういうこと、わかってても言わないでいるのが心意気ってもんじゃないの……」
「あれだけ律儀に頭を下げて回ってたあの人の気持ちを、当のお前が勘違いしてたら純粋に嫌だなあ、と思って」
「……誰が勘違いなんてするものかよ」
そう吐き捨てた彼女の表情は、常になくひどくまじめなものだ。
そんな百日の顔を見るとどこか嬉しくなってしまう僕は、相当こいつのことが気に入っているらしい。友人として、百日ダリアの幸せを願ってやまない。
「てことは午後はカップルで思う存分いちゃついてたってわけか」
「……は? 君が何を言ってるんだか……、ぜんっぜんっ! わかんないんだけど」
「だから、パパに甘やかしてもらった後は、彼氏に甘やかしてもらったのかなって」
煽るような言い回しを選ぶと、軽く舌打ちした百日が恨めしそうに見上げてくる。
「……言っとくけど、ボクとあいつが校内で干渉することはほとんどないからね。誰に対しても関係を憚らない君らと違って、ボクはそれなりに目立つんだ。どこでもいつでもやりたいようにできるわけじゃない。……ボクだって、そうしたいのはやまやまなのに……」
思わず漏らしたその本音を、僕は耳敏くあげつらう。
「……へえ? そうしたいのはやまやまなんだ?」
「――っ。今のは失言だからっ! すぐに忘れて!」
焦ったように顔を上げる百日ににやついた顔を向けると、ものすごく腹立たしそうな表情で彼女が睨んでくる。
「いい加減、君のからかいの相手をするのも疲れるんだけど、まじで」
「まあまあ、散々迷惑かけた僕への償いだと思って、気長に付き合ってくれ」
「自分で言うかそれ」
睨む彼女をひらひらとあしらいながら、なんとなく一緒に昇降口を出る。
周囲には同じように早々と帰宅するような生徒の姿も見受けられた。中にはこの文化祭で誕生したと見受けられるような初々しい男女の姿も見られる。
「こうして歩いていると、僕とお前もカップルに見えるのかね」
「いや、ないでしょ」
ふざけ調子にそう言うと、冷淡な口調が返ってくる。
「どう見ても距離感が違うし。トリモチみたいにべたべたくっついている連中と違って、ボクと君はどう見たって、火と油だ。燃やし燃やされる関係性にしか見えないさ」
「トリモチってまた日本的な例えを使うな」
「……そこに反応するわけ。別にいいけど」
ふん、と鼻を鳴らした百日は、かつかつと足を早めて行ってしまう。
その姿に追いすがって暇つぶしに絡むのも面白いかもしれなかったが、駐輪場は彼女が向かう正門とは逆方向なので、これ以上追いすがるのは微妙に面倒だ。諦めた僕はそのままくるりと方向を変える。
特に声をかけることもなく、歩を進めた。
変に気を遣って声を掛け合うことはない。
これはこれで楽な関係性だろう。
十一月二日。文化祭二日目。
フルで一日暇な時間。
やることなすこと何もなく、ただただ藍と一緒に巡る時間。
ああ、日常、ああ、至上。至上の幸福、私情の招福。
なんでもない時間の中にこそ、幸福はあると思うんだよね。
午前十時の二日目文化祭開始とともに、軽く伸びをして深呼吸。
昇降口を少し入ったところで、本日の最初の店番担当である百日他四人といくらかの打ち合わせを行った藍は、僕の方に戻ってくる。
「それじゃ、行こっか」
「ああ」
ぎゅっと抱きしめるように藍が僕の左腕にしがみついてくる。昨日よりも近い距離感だ。一日一緒にいられるという喜びからくる変化だろうか。彼女の身体の感触がとてもやわらかい。
「なるほど。これがトリモチみたいな距離感か」
「トリモチ? なんのこと?」
「なんでもない。さあ、行こう。まずは剣道部のお化け屋敷だったっけ?」
「うん。今日かなちゃんがお化け役やってるらしいから」
「へえ」
あの目つきの鋭い弓広がねえ。暗闇の中で睨みつけられたら、別の意味で恐ろしいだろうなあ。
僕も人のこと言えた外見ではないのだが。
昇降口から教室がある棟とは逆の方に向かい、体育館、剣道場、柔道場などが集まっている一角に至る。
剣道場の前までやって来ると、二つある出入口のうち、入口と書かれた扉に近寄っていく。
剣道着を着た気弱そうな男子生徒が僕らを見て、い、いらっしゃいませ~と自信なさげに声を上げる。
しょっぱなから脇目も降らずにここに来たからか、他に並んでいる客はいなかった。
「ど、どうぞお入りください。中に入ったら道なりに進んでくれれば大丈夫ですー」
男子生徒が暗幕を引き、二人で中に足を踏み入れる。
一歩進んだところで後ろの暗幕がぴしゃりと閉じられる。中は薄暗く、どこからか間接照明らしい淡い光が漏れているだけで、光度としてはひどく頼りない。
腕にしがみつく藍の力が心なしか強くなった気がした。
「……もしかして、お化け屋敷が怖いからさっきから命綱みたいに腕にしがみついてたりする?」
「……ばれちゃった?」
目が慣れないせいでいまいち表情は読み取れないが、彼女がかわいらしく首を傾げたのが気配で伝わってきた。
「かなちゃんに誘われちゃったから行かなきゃって思ったけど、ほんとはあんまりこういうの得意じゃないの」
「それはなんというか、見た目通りであることで」
「……なにそれ、どういう意味?」
「言葉通りの意味」
むっとした声を上げた藍を連れ、言われた通り道なりに進んでいく。
冷房でも利かせているのか中は肌寒く、足元に敷かれた薄い絨毯みたいなものがここが剣道場であるという実感を感じさせない。雰囲気づくりはばっちりといったところだ。
「……う~」
「なにそのかわいいうなり声」
「……ちゃかさないで。わたし、本気で怖いんだから……」
「別にちゃかしてはいないんだけど」
などとぼやいたところで、物陰から血まみれの顔をした白装束の女が現れる。
どこからともなく青い光でライトアップされたその顔は、非常にリアルなメイクが施されていて、本当に血まみれの女かと錯覚するほどだ。
「――っ!」
声にならない彼女の悲鳴。
一瞬びくりとした僕だったが、むしろ驚いたのは幽霊というよりも藍の悲鳴の方にだった。
ぎゅっと抱き着く藍に若干の歩きづらさを感じながら先へ進む。
「いい悲鳴だ」
「……うー、もー」
そしてうなり声がかわいい。
腕の感触が幸せ。もっとぎゅっとしてほしい。
そこからしばらく、藍の悲鳴の独奏パート。
曲がり角から人魂が現れ、
「――っぅ」
物陰から唐傘お化けが登場し、
「――ひゃっ」
井戸の中から髪の長い女が這い出して来る。
「――きゃあああっ」
その度に藍は声を上げ、悲鳴を響かせ、ぎゅっと腕に抱きついてくれる。
正直、僕は元から頭のネジが数本飛んでるからお化けとか怖くないのだが、横でこれだけ敏感に反応されると、むしろそっちの反応の方に面白みを感じてしまう。
さっきから耳元で藍が大声を上げるので、鼓膜がずっとキーンって言ってるが、それを度外視しても彼女の反応は素晴らしい。
試しに耳に優しく息を吹きかけてあげる。
「――っきゃああああっ! ……な、なに!?」
あー、耳がキーンって、キーンって。ていうかキーン通り越してキュイーン――ッ! って。歯医者のドリルみたいな音がする。
慌てて振り向いた彼女は、暗闇の中でもにやにやと笑みを浮かべる僕の表情をしっかりと読み取ったらしく、僕の腕をぎゅっと引いて言い募る。
「りょ、りょうっ! 質の悪いいたずらやめてよ、もう!」
「あはは。藍の反応がいいからつい」
「あはは、じゃないよ、ほんとに」
「ごめんごめん」
左耳を犠牲にした尊いいたずらだった。
おかげで藍の素晴らしい反応を鑑賞できた。
あとでドリルの代わりに耳栓突っ込んどこう。
「っていうか、弓広の奴まだかな」
「あ、ほんとだ。さっきの井戸の人じゃないよね?」
「たぶん、違うと思う。ちらっと横顔見えたけど、別人だった」
「……よ、よくそんなの見られるね。というか涼は怖くないの? わたしだけ一人で叫んでてちょっと恥ずかしい……」
「まあ、僕は半分心死んでるから」
「……そういうこと言わない」
たしなめるように藍が言って、またぞろ道なりに進んでいく。
そこから日本人形の置物や血まみれのカーテンなどの装飾物の横を通り抜け、いくらかの脅かしを受けたところでようやく出口が見えた。
蛍光色で出口と光った目印が扉に貼ってある。
「あ、よかった。終わり――」
と、一息ついたところに、扉脇の暗幕からまた白装束の女が飛び出してきた。
「うらめしや――」
ドスの利いた低い声でそう言い、俯きがちに見上げるようにしてこちらを睨みつけてきたのは、見覚えのある女子の顔。目的の弓広当人だった。血の涙を流し、口元から牙が生えている。元々の強面にオプションが付け加わり、悪鬼羅刹のような表情をした彼女は、本当に鬼のようだった。
「――ッ!」
「うおっ」
ここ一番で最大ボリュームの悲鳴を上げた藍に続いて、さしもの僕も弓広の鬼気迫る表情には軽く驚きの声を上げてしまう。
「……あ、藍ちゃん」
「……え……? ……あ、かなちゃん」
そして、次の瞬間には我に返り、普通に話しかけてくる弓広。
怖がる姿勢から一転して、通常モードに移行する藍。
「来てくれたんだ、ありがとう」
「い、いえいえ、どういたしまして」
「……どう? 怖かった? けっこう頑張って作ったんだよ~、これ」
血の涙のメイクや牙を触ったりして、ない胸を張る弓広。
「……そ、そうだね。すっごく……、うん……。かなちゃんも迫真の演技だったね。特に表情がすごかった」
「……え、あ、うん。別に表情まで作ったつもりはなかったんだけどね」
「あ、そうなんだ……」
「うん、まあ、別にいいけどね……」
全然よくなさそうにつぶやく弓広。
「と、とにかく、とっても怖かった!」
「あ、うん。ありがと。えっと、これ、参加賞」
「あ、ありがと」
最後に、ハロウィンでよく被るような、人が叫んでいる顔を象ったマスクのプリントされた缶バッチを渡される。……みんなして処理に困るものばっか渡してくるんだな、別にいいけど。
「あ、藍ちゃん。わたしお昼頃までにはこれ終わるから、よかったら一緒にご飯食べない?」
「あ、いいね。どうせだし、真優とかも呼んで、みんな一緒に食べよっか」
「あ、うん。そだね」
藍がそう言った瞬間に微妙にテンション下がった気がしたのは気のせいだろうか。
「じゃあ、お昼にね。かなちゃん」
「うん。また」
弓広に手を振り、出口から外に出る。
「かなちゃんのお化け、怖かったね」
「そうだな」
素の顔であれだけ様になっているというのもなかなか難儀なものだ。それを見越して出口付近に配置されたのだとしたら、もっと不憫だな。
僕は心底彼女に同情した。