少しずつ
「どうだった?」
「けっこう面白かったよ」
「そう。それはけっこう。高校一年の男女二人が一緒に見て楽しめるような作品かどうか不安だったのだけど、楽しんでもらえたのなら何よりだわ」
上映後、視聴覚室から出てきた僕らに頭を下げたのち、末長はそんなことを言った。
聞けば、上映作品のラインナップのほとんどは彼女が決めたものらしい。お客さんがやってこないことに少しの責任でも感じていたのだろうか。
そんなところにやってきた僕らは渡りに船か。ちょっと意味合いとしては違う気がするがまあ、いい。
「文化祭、二人で思いっきり楽しみなね」
「うん。ありがとう。末長さん」
「……朱美でいいわ。あたしも藍ちゃんって呼ぶから」
「そう? じゃあ、朱美ちゃん、またね」
「ええ、また。相田くんも」
「……ああ」
声をかけられるとは思わなかったので、思わず返答が遅れた。
律儀に僕にも声をかけてくれるんだな。こういう場面でスルーされるのはお決まりのようなことが多かったので新鮮な気分だ。
「末長さん、いい人だよね」
「ああ、そうだな」
再び騒がしい校舎中央部に向かいつつ、次はどこに向かうかと心を巡らせる。
「まだお腹はすかないよね?」
「まだちょっとね」
軽食ではなく、しっかりお弁当を食したので、エネルギー補給はまだまだ十分だ。
「じゃあ、次は茶道部の方行ってみない? 真優がただ菓子食べれるって宣伝してたよ。お菓子ぐらいならいけるよね」
「真優? ああ、芦原ね。あいつ、茶道部なんだ。へえ」
「幽霊らしいけどね」
そのままの流れで一階昇降口近くにある茶道部室に向かう。
入口扉のはめ込みガラスに『抹茶提供!』とでかでかと赤文字で書かれた張り紙がしてある。その周りにはハートに折られた折り紙の装飾が山ほど飾られていた。
……一体どういう飾りつけのセンスをしているのだろう。茶道らしい慎みの欠片もない気がする。
「……とりあえず入ろうか」
その感想はどうやら藍も同じだったらしく、苦笑いの下に戸を引く。
戸の先には、靴を脱ぐ小さなスペースが設けられていて、その横に脱いだ靴を入れる簡素な木棚。そこから一段上がったところに障子が張られている。
ところどころファンシーな花柄模様で破れの隠された障子を開けると、着物を着た女子生徒が一人小さく頭を下げた。
「いらっしゃいませー」
……抹茶を飲みに来た人に対して、その挨拶もなんだか現代っぽくてどうなんだろうか、とも思うけれど、逆に茶道のような伝統文化に適した歓迎の挨拶と言われてもすぐには思い浮かばない。ようこそお越しくださいました、とかだろうか。旅館のようだ。
明るめの茶髪に薄い化粧の乗った面立ちは、上級生らしくどこか垢抜けていて、そんな容貌に楚々とした着物というのもなんだかアンバランスな印象だった。
六畳一間×2の空間に座布団がいくらか敷き詰められていて、その内の一番奥に案内される。僕らのほかにも一般客らしい保護者然としたおじさんが一人と、女子生徒が二人。それほど混み合っているというわけではない。むしろがらがらだ。昇降口近くという良立地なのだが、ファンキーな張り紙と装飾が悪印象を与えているためだろうか。
和室に座布団、そして抹茶という組み合わせで来ると、なんとなく正座で座っていなければいけないような気持ちにもなる。しかし、いざ腰を折ってみると膝から下が激痛を催し始めたので、ものの数秒で胡坐に組みなおす。
藍はと言えば、律儀に膝を揃え、ぴんと背筋を伸ばした、堂に入った姿勢で腰を下ろしていた。楽に崩した胡坐にあからさまな猫背な僕とは対照的な絵面だ。
「えらいね、藍は」
「ん?」
「いやほら、足崩さないできちんと正座してるし、背筋もきれいに伸びててえらいな、って」
「……ふつうに座ってるだけだよ?」
少しだけおかしそうに唇の端を緩め、目線だけを動かして僕の方を窺う。
「じゃあ、藍はふつうにしててもえらい子だ」
「なにその褒め方、おかしい」
うふふ、と満更でもないように笑う。
「そう言う涼は正座しないの? すぐやめちゃったけど。背もだいぶ曲がってるよ?」
ぺしぺしと軽く僕の背を叩いて、からかうように見上げてくる。
その背中の感触をくすぐったくも嬉しく感じながら、素知らぬ顔を作る。
「僕はいいんだよ。不真面目な僕の代わりに、藍が思う存分生真面目でいてくれるんだから」
「……また涼はそういうこと言う……。思う存分生真面目にって、言い方として少し変じゃないかなあ」
「いいや、間違ってないさ。藍は自分でなりたくてそういう風にやってるんだろ? だったら、思う存分で正しい」
「……うーん、そう言われるとそうなのかなあ」
納得がいかないようにそれこそ生真面目に首を傾げる藍の様子がおかしくて、思わず頬が綻ぶ。
すると、それを見とがめた藍がきゅっと眉を寄せた。
「あ、またわたしのことからかって楽しんでるね? いい加減、涼にからかわれるだけのわたしじゃないんだからね。なんたって、わたしは文化祭実行委員なんだから」
「へえ、実行委員ってそんなすごい肩書だったんだ?」
「泣く子も黙る、お年寄りも拝め奉る、そんな役職です」
「わあ、すごい」
「…………ぷっ」
大げさに芝居がかった仕草で声を上げてみると、一瞬きょとんとした顔になった藍が次の瞬間には吹き出すように笑み崩れる。
「……ふ、ふだんの涼とのぎゃっぷが……っ」
そして、なにやらツボに入ってしまったようで、堪え切れないといった様子で一人で肩を震わせ始めた。
……そんなに笑うようなことですか。
まあ、藍が楽しいならそれでいいんだけどね。
そういったやり取りをしているところで、お盆に乗せられた抹茶が二人分運ばれてきた。運び手は先ほどの上級生。
茶菓子は抹茶味のカステラのようだ。
……和菓子じゃないのか。いや、別にカステラだって、伝来してきたのもそれなりに古いらしいから、ありと言えばありなのかもしれないが。伝統文化という目線で見たらどうなんだろうな、別にどうでもいいけど。
「いただきます」
「い、いただきます……」
まだ肩を震わせ続ける藍だったが、僕の後に続いて一応は手を合わせた。
「藍は作法は知ってるの?」
笑いをこらえるのに必死な藍の姿に、そこはかとないかわいらしさを感じつつも、気になった疑問をそのまま形にする。
すると、ようやっと落ち着いてきたらしい藍が胸に手を当て息を整え、こくりと首を縦に振った。
「い、一応はね。……でも、そんなにこだわらなくてもいいんじゃないかな、とは思うよ。正式な場とかならともかく、その辺は自己満足なんじゃないかな」
「ふうん」
興味のないような相槌を打って、それでもなんだか微妙に彼女がどうするのか気になって、横目で藍をちらちらと窺いながら、茶碗を手に取る。
すると、彼女は茶碗ではなくカステラの方を先に食すようで、お付きの楊枝でそれを小さく切って上品に口に運んだ。
その後も茶碗に手を付ける様子もなく、カステラばかりに手を付ける。
「なんで飲まないの?」
茶碗を掴んで膝の上に置いたまま尋ねると、カステラの最後の一口を口に含んだ彼女が口元に手を当てて、よく噛んでそれを飲み込んでから僕の方を向いた。
「……ええとね。お茶会とかだと、ふつう、お茶菓子を食べ終えてから抹茶を飲むものなの。抹茶の方が主で、お茶菓子はそれを引き立てるための従だから。……まあ、こんな風に気軽に飲むだけなら、別に気にしなくてもいいと思うんだけど……。わたしはそういう態度を、場合によって使い分けるのとか苦手だから」
「……なるほど」
彼女らしいことだと思う。
そういった作法というものを場の雰囲気によって使い分けるのではなく、一貫性を持ってきちんとした自分の考えの下に用いる。まったくけっこうなことだと思う。
では、僕はどうしようか、と悩むまでもなく。
「うん。涼はそういうの気にしないよね」
「まあね」
ふつうにカステラ一口、抹茶を一口。
むしろそれで安心したと言わんばかりに彼女が言って、僕は無表情に肯定する。
甘いのと苦みを含んでいるもの。
同時に味わう方が、普通に考えておいしいと思うのだけれど。
昔の人は何を考えていたのかわからないところだ。
しばらくそうしてそれぞれのやり方で抹茶を楽しむと、茶道部室を後にする。
靴を履きなおして廊下に出たところで、ばったりと芦原の奴と出くわした。
「あ、藍ちゃん」
「あ、真優」
気軽に名前を呼び合う彼女らの間にある距離感は文化祭以前よりもずっと近づいたものになっている。
そうした関係は藍のそばにいる僕としては非常に喜ばしいものだ。
「もしかしてちょうど今一杯やってきたところ?」
「……もしかしてそれ抹茶のことを言ってるの?」
「そうだけど……」
ぽかんとした顔で首を傾げたところで、間違いなくおかしいのは芦原の言い回しの方だと誰もが思うだろう。まるで仕事帰りのサラリーマンが居酒屋に寄ってきたみたいな言い方をするんじゃない。
「それだったらそうだね。これからどこ行こうか、涼と相談しようとしてたところ」
「ああん。なんだもう、水臭いなー。いや、この場合は抹茶臭い? でもないけど、とにかく、言ってくれればわたしが淹れてあげたのにー」
「あ、あははー」
答える藍の笑い声が、心なしか冬場の大気のように渇いている。
「相田君も」
「……ん?」
またしても突然僕に話題が降られるものだから、反応に窮するものだ。
ちょっと眉を寄せて怒ったようにこちらを射すくめる彼女の顔を見返す。
「茶道部のわたしがいるのに、黙って抹茶飲みに来なくてもいいじゃない」
「いや、お前が茶道部なんて話、今日初めて知ったから」
「はあー。相変わらず人間に興味ないんだねえ」
やれやれと首を振って、一つため息をつく。
「真優は茶道部の方に顔を出しに来たの?」
「んー、ま、そう言えないこともないね。正直、そんなに行きたい場所でもないけど、勝手に店番担当割り振られちゃってたもんだから、行かないわけにもいかなくて」
「大変だね」
「……実行委員の藍ちゃんよりはましよ」
苦笑する芦原に、ふるふると首を振る藍。
かみ合ってるんだかかみ合っていないんだかわからない二人のやり取りだか、これはこれで波長が合っていると言えないこともないのだろう、たぶん。
「じゃあ、お邪魔にならないように、わたしは退散するね」
「あ、うん。またね」
「うん。また」
藍が柔らかく微笑んで、芦原がにこりと笑いかける。
それから、彼女は僕の方にも目を向けた。
「相田君も。ありがとね」
「……ん?」
「じゃ、そういうことで」
何が? とか訊き返す間もなく、そそくさと彼女は茶道部室の中へと消えていった。
「ありがとうって、涼何かしたの?」
「……さあてね。したような、しないような」
気分がそのように動いて、昇降口で彼女に声をかけたことを言っているのだとしたら、それは感謝されるような大したことではないし、それ以外の僕の自覚していない何かについて言っているのだとしても、単に僕はやりたいようにやっただけで、取り立てて彼女から感謝されるようなことは何もない。
それでももし、彼女が僕にあんな風にお礼の言葉を述べるような想いを持ったのだとしたら、それは彼女自身の得た何かであり、僕がどうこう言うべきことではないのだ。
けれど、僕はありがとうと言われて、そう悪い気はしなかったし、あんな風に、僕を否定するでもなくそういう個性を持った一人の人間として扱ってくれているような態度を受けて、まったく以って嫌な気はしなかった。
芦原真優は良い奴だ。
こんな僕でもそう思う。
そう思えるようになった僕もまた、何かを得たのかな。
ふとそんなことを考えた。