A Childish Girl
油が撥ねた瞬間、あ、まずい、と他人事のように思った。
クレープの生地を焼くのにも段々と慣れてきていたこともあって、きつね色に淡く色づいたその生地を大した注意もなくおざなりにひっくり返す。
予想していたよりも強く力を入れてしまったようで、勢いよく反転したそれはフライパンの上に着地すると同時に溜まっていた油をわずかに撥ね飛ばした。
撥ねた油は運悪く、火加減を調整しようと伸ばした左手の甲から手首にかけてまともにかかり、油が手に触れた瞬間、熱さよりもむしろ突き刺すような痛みを感じた。
そんなちょっとした拍子に撥ねてしまうほどたくさんの油を用いたつもりもなかったけれど、自覚がなかっただけで知らず知らずのうちに入れてしまっていたのかもしれない。
直前に芦原さんに呼ばれて少し席を外し、戻ってきてボールからフライパンに生地を流し込んだところ、やけに油が撥ねるなあ、とは思っていた。そう思っていたところで気をつけていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
実行委員のわたしが率先してこんな怪我をしてしまうなんて、ほんとうに不注意だった。
「ほんとうに心の底からそう思ってる?」
「……え?」
水道水で患部を冷やし、痛みを感じなくなったころに蛇口を締めた。
ハンカチで手を拭く。油のかかった箇所の皮膚は、少し引きつったようになって触れるとヒリヒリする。わずかに浅黒く変色していた。跡が残らないといいな、と思う。
手を冷やしながら事情をみんなに説明していた。
多くの人がわたしのことを心配していたので、余計な心配をかけないように笑顔を作って。
しばらくしてみんなは作業に戻った。
わたし自身も痛みが引いたらそうするつもりだった。
保健室に行くほどの大やけどでもない。油の温度はそれほど高くはなかったのだ。
そんな折、手を冷やすわたしの方をじっと見つめるようにしていた絹川さんがそんなことを言った。
「心の底からって、どういう意味?」
「……やけどする前、少し席を外していて、その後作業を再開したんだよね?」
「うん」
「芦原さんとしばらく話をして」
「うん」
「その後、コンロのところに戻ってきてボールから生地を流し込んだ」
「……うん」
訝るような目線の絹川さんにわたしは淡々と答える。
彼女の目を意識してまっすぐ見つめるようにしながら。
「その前はどうしていたわけ?」
「うん?」
小さく、柔らかく、首を傾げる。
なにもわかってなんかいないように。
なにも気づいてなんかいないように。
ごまかすことなんてもうできないとわかっていながら。それでも。
絹川さんは瞳を薄く細める。
視界の隅であの子が怯えるようにこちらを窺っているのがわかる。
「席を外す前、そのときも九々葉さんは生地を焼いてたよね? わたしもみてたし。そのときは油の量が多いとは思わなかったの?」
「……思わなかったね」
「だよね。普通、油って使えば減っていくものだからね。材料に吸われたりして、減っていくもの」
「……」
「じゃあ、もう一つ、質問」
「うん」
「これから席を外そうっていうときに、わざわざフライパンに油を加えたりしたの? どれだけその状態を放置するかもわからないのに?」
「……」
「普通、そんなことするわけないよね」
「そうだね」
「じゃあさ」
彼女は淡々と訊く。クラス会のときもすぐにわたしとるりのことに気付いたし、鋭い人だなあ、と思う。
疑問に満ちた視線を向けた涼はわたしの顔を見て、なにもかもわかったように口を噤んだ。
わたしとあの子を見比べるようにして眉をひそめていたるりは何も言わない。
最初から全部わかっていたかのように、ずっとあの子を鋭い目で見据え続けていたももちゃんは、それからわたしの目を見て、はあ、と小さくため息をついた。
わたしに近しい人たちはわたしのことをわかっていてくれるから、わたしとあの子の関係について何も言わない。
けれど、そうではない絹川さんは気づいた矛盾点を、自覚した差異を容赦なく突きつける。
「――そんなにたくさんの油、どこで入れたの?」
「……」
「たしかあのとき九々葉さんの隣にいたのは」
その場にいるみんなに聞こえるような声で絹川さんは口を開く。
わたしは彼女から目を逸らした。
※
※
※
四月の頃のわたしはひとりぼっちだったけれど、さりとて、クラスで最低の立場にいるという意識を持っていたわけではなかった。
明確に上か下かなんて認識していたわけではなかったし、決してそれで何か後ろ暗い感情を抱いていたわけではない。
けれど、あの子よりはましだと、無意識のうちにそんな風に思ってしまっていた自分がいたのもたしかだった。
友達がいないことと、自分を虐げるような友達がいること。
この二つの立ち位置を比較したとき、一般的には、概ね前者の方がましであるという意見に軍配が上がるのではないだろうか。
九々葉藍と美月愛子の関係性もそういったものだった。
友達が一人もいないわたしと。
緋凪舞という傘に隠れて、顎で使われるようにしている美月愛子。
どちらがましかと言えば、きっとわたしの方がましだろう、と冷たい氷のようだったそのときのわたしは考えてしまっていた。
だから、彼や彼女や彼女とのかかわりを通して人間らしい温度を取り戻したわたしは、彼女に手を差し伸べてあげようと思った。
わたしと同じように孤独にあえいで、そして、わたしとは違う方法でそれを満たそうとした彼女を。
何かと居場所を見失っている彼女に声をかけ続けて、せめて一緒にいてあげようとした。
緋凪さんの下でいつも怯えるように身を縮こませている美月ちゃんが、安心していられる場所を作れるように、と。
でも、そんな努力は身を結ばなかったのかもしれない。
そんな努力は上から見下ろすような傲慢なものだったのかもしれない。
そんなわたしの態度が目について、緋凪さんには目の敵のようにされるようになったのかもしれないし。
そんなわたしの態度が目について、美月ちゃんには恨まれるようになってしまったのかもしれなかった。
わたしは気づいていた。
居場所を失くした美月ちゃんに声をかけるとき、安心したように表情を和らげると同時に、彼女がどこか後ろ暗い瞳でわたしを見つめていることを。
実行委員になることを宣言したとき、すごいね、とわたしを褒める傍らで、馬鹿にするように唇の端を歪めていたことを。
冷蔵庫の中身がなくなっている。そう知らせてくれたのは美月ちゃんだった。
緋凪さんの友人である柏木さんに言いつけられて、買い出しを命じられた。そして、朝、荷物を持って冷蔵庫を確認してみると、中身がなくなっていたと。
――その日、わたしは朝一番にその中身を確認していた。
個人的に必要だと思って買ってきた材料をクラスの袋に加えておくために。
そのときは袋は冷蔵庫の中に存在していて、そして、その中身が美月ちゃんが冷蔵庫を確認したときにはなくなっていた。
その間にはわずか二十分ほどの時間差しかなかった。考えられる可能性があるとすれば、悪意のある誰かが意図的にそれを隠してしまったということ。
考えすぎだろうと、わたしは思った。そういうことにしておいた。
料理班のみんながその事実を知ったときも、犯人捜しが始まってしまわないか、やきもきした。
一旦そうなってしまえば、その流れに抗うのは難しい。
わたしが誰かをかばっていると気づかれれば、自ずと犯人は見えてくるだろう。
だから、わたしはあえてその事実は横に置いておくことにした。
置いて、話を進めるために、涼に買い出しに言ってもらい、代わりにメニューを先に考えることを勧めた。
朝夕に自分の家の冷蔵庫との間で材料を往復させることを提案したときもそうだ。
そうすれば、美月ちゃんが同じことを繰り返して、また犯人捜しが始まってしまうことを避けられると考えた。
被害もなくなり、誰かを追求しなければならない事態も避けられる。
いいことづくめのアイデアだと思った。
そうして彼女が諦めててくれれば、それ以上、ことを荒立てることなんてなかったのに。
わたしは自分の友達をもう二度と疑いたくなんてなかったのに……。
※
※
※
「――美月愛子」
絹川さんが口にする。
彼女の名前を口にする。
怯えたようにこちらを窺っていた美月ちゃんは、名指しを受け、激しく、表情を歪ませた。
「な……、なっ……、わ、わたしは」
ショートボブのその髪を乱れさせ、伏し目がちの目線をじっと足下に据える。
わたしは小さく、息をついた。
「誰か、美月が油入れたの、見た人いない?」
絹川さんがクラスメイトの面々を見渡して言う。
そぞろにみんなが顔を見合わせて、口々に言い合う。
ああ、嫌な雰囲気だ。嫌な空気だ。
これから魔女裁判でも始まってしまいそうな、とても嫌な感じを受ける。
「あ、わたし見たよ。ずいぶんたくさん入れるな、って不思議だったもん」
大きく声を上げたのは柏木さん。緋凪さんの友人。
ざわざわとみんなのさざめきが大きくなる。
注目が彼女に集まる。
柏木さんのその言葉に敏感に反応したのは、他でもない緋凪さんだった。
「へえ、美月、そんなことしたの?」
「……い、いや、そんな……」
「そんな……、なに? 最後まで言ってくれないと何が言いたいんだかわからないんだけど。弁解があるんなら、今のうちにしておいたら?」
「……ぅ……あ、う……」
「……なに? もう少しまともにしゃべってくんない? これだからド陰キャは」
ねえ、と同意を求めるように、彼女が周囲を見渡す。
くすくすと、忍ぶようでまったく忍ばない笑い声が伝播していく。
「九々葉に悪いと思わないわけ? あんなやけどまでさせてさ。跡残ったらどうすんの? 責任とれるわけ?」
「……い、いや……、ちがっ……」
「何が違うわけ?」
「……ぅう」
「はいまただんまり」
コミカルな口調で言う彼女に、周囲がまたくすくすと笑う。
「さっさと謝ったら? しゃべれなくてもそんくらいできんでしょ?」
「……ぇ」
「え、じゃなくて。謝れよ。九々葉に。それ以外ないじゃん。それとも何? まだ違うって言うの?」
「……」
「謝れよ」
謝れ、と緋凪さんが口にして、だよね、とそれにみんなが同意する。口々に美月ちゃんに向けて、無言の意思が向けられる。
わたしに、謝罪をしろと。
「わ、わたしは……」
戸惑ったように唇を震わせる彼女の前に、わたしは立った。
正直、何をどう口にしたらいいのか全然わからない想いばかりが心に過るのだけど、この状況を放ってはおけないと、わたしの心は言っているから。
「緋凪さん」
「……なに? どうしたの? 九々葉もやっぱ謝ってほしいの?」
わずかに見開いた目で緋凪さんが問う。
口元には嘲るような笑み。それは一体、誰を馬鹿にしたものだというのだろう。
「それを緋凪さんが言うのは違うよ」
「……は?」
「やけどしたのはわたし。緋凪さんじゃない」
「……っ」
その一言で、彼女は口を噤んだ。
何か反論を口にされる前に、わたしは滔々と続ける。
「実際にやけどをしたわたしを差し置いて、謝れ、謝れって、さも正しいことのように言うけれど、そんな風に強制して謝ってもらっても、わたしは全然気が晴れない。元々、そんなに気にしてもないけど」
「……っ」
「大した怪我でもないんだし」
言って、わたしは左手を上げてみせる。
変色した皮膚は制服の袖に隠れて、それほど目立つものではない。袖を少し上げれば、見えなくなる程度のものだ。特に気にするようなものじゃない。
唖然とした様子の緋凪さんから視線を外し、振り返って、俯く美月ちゃんに向かう。
「美月ちゃんもさ。悪気はなかったんだよね? 単にわたしのことを手伝ってくれようとしただけで、油が撥ねるなんて夢にも……」
「……やめてよ」
「……え?」
「やめてよ!」
ぱしんという音がして、何が起きたか一瞬わからなくなる。
じんとした痛みを頬に感じて、ああ、わたし打たれたんだ、と遅まきに自覚する。
その音に、事態を遠巻きにして静観する面持ちだった涼が、一瞬で顔色を変えたのがわかった。
あ、ほんとにまずいかも。
こんなところで涼にキレられたら、事態を収めるどころではなくなってしまう。ぜんぶ、めちゃくちゃになる。
何か、その矛を収めるような言葉を、と思ったところで、美月ちゃんが叫んだ。
「お前がわたしを憐れむなよ!」
その叫びの鋭さに身を固くする。
涼もその叫びに動きを止めたのがわかった。
「お前がわたしを、憐れむな!」
もう一度同じ言葉を口にし、美月ちゃんはきっと顔を上げる。
涙の溜まった赤い瞳に、震えた唇。髪が頬にかかって、動揺した表情を助長させる。
「……わ、わたしとおんなじひとりぼっちだったくせに、お、お前がわたしを憐れむんじゃない!」
普段の沈んだ言動からは予想もつかない彼女の剣幕に目を見張る。
つっかえつっかえでも、その言葉には常にない生の感情がこもっていると感じた。
「い、いつもいつも! わたしのこと! わたしのこと! わたしのことを! み、見下して……、見下してかわいそうなやつみたいに。……いらいらするの! わ、わたしはそんなかわいそうなやつなんかじゃない! なんでそんな目でわたしを見るの! 憐れむみたいに。お前だってわたしと同じ風だったのにっ! なんでそんなみんなに心配されて……、なんだよ。なんだよなんだよ。ほんともうヤ。イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ――」
頭を抱えて首を振り始めた彼女に、さすがに心配になって呼びかける。
「み、美月ちゃん?」
「そ、その呼び方も! 何でわたしだけ名字にさん付けなの!? いらいらするぅ!」
「ご、ごめんなさい」
「……ぅううう」
うなり声を上げる彼女はほんとうにだいじょうぶだろうか。心配になる。
ひりひりする頬を抑えて、言葉を紡ぐ。
「べ、べつにね。わたしは憐れむとかそんなつもりはなくて……、ただ、美月ちゃ……、愛子ちゃんが困ってる様子だったから、助けてあげようって……」
「助けてあげるって何様! か、完全に上から目線じゃん!」
「いや、あの……」
言葉の綾というか、上から目線というか、困っている人がいたら、助けてあげたいと思うのは普通のことのはずで、それを上から目線と言われると、なんて答えればいいか……。
「いい加減にしなよ、美月」
迷うわたしに、助け舟を出してくれたのは――。
「――芦原さん」
「……いい加減真優でいいってば。ていうか、何気にわたしも名字なんですけど」
「あ、ごめん。真優」
「――っ。取って付けたように……。ま、まあ、いいけど」
顔を赤くした彼女は愛子ちゃんを阻むようにわたしに前に立つ。
それから、流れるような動きで、美月ちゃんの頬を打った。
ぱんと、渇いた音が響く。
「……え……」
「いや、え、じゃなくて。美月も藍ちゃん叩いたし、おあいこにしておかないと、キレる奴がたぶんいるから」
言って、芦原は周囲を取り囲むクラスの面々のうち幾人かに目を向ける。
そのうちの一人、涼はうんうんと我が意を得たりとばかりに深く頷いていた。
「おあいこ?」
「あ、別に愛子とかけたとかそういうことじゃないから」
「……う、うん」
「ほんとうはやけどもした方がよりおあいこ感が増すと思うけど、さすがにそれはね」
「……っ」
怯えたように眉を寄せる愛子ちゃんに、やったあんたが怯えんな、と真優は吐き捨てる。
「もしかしなくても、クラスの材料隠したのも美月なわけ?」
「……」
「だんまりね、はい」
答えない彼女に、呆れたように真優がため息を吐く。
「あんたさあ、藍ちゃんが見下してるとかいうけど、じゃあ、どうしたら満足なわけ?」
「どうしたらって……」
「あんたいつもうちらと一緒にいるけど、一向に話に入ってくる気配ないじゃん。たまに藍ちゃんとか唯が話振っても一言二言答えてそれで終わり。それで気遣わないとか言ったら、追い出す以外になくなるけど、それでいいわけ?」
「……そ、それは……」
ぶんぶんと首を振る彼女に、また一つ真優がため息を吐く。
「見下すとか、見下さないとかさあ。その前に見下されない人間になりなよ。藍ちゃんみたいにがんばってさ。自分で何もしないで、羨むだけ羨んで、恨むだけ恨んで、挙句の果てに陰で嫌がらせとか、正直言うけど、あんた最低だよ?」
「……っ」
唇を噛みしめる愛子ちゃんに、だから、あんたが被害者ぶるな、と彼女は言う。
「たまに藍ちゃんが声をかけてるのを、あんたは憐れんでる、と取るわけね。親切にしてくれてるって言い方もできるでしょうに。なんでそんな根暗なの。鬱にでもなりたいの?」
「ち、ちがう……!」
「違わない。あんたが根暗なのも、憐れまれてるとか感じるのも、ぜんぶ、あんたのせいよ。藍ちゃんに百パーセント非はない。むしろ褒められるべきところなのに、それをぐちぐち。イライラするのもむかつくのもあんたよ」
「……っ」
「だから、被害者ぶるな! 唇を噛むな。悲しそうな顔するな。目を伏せるな。仮にあんたを憐れんでる奴がいるとして、憐れまれるような態度取ってるあんたが悪いわ。前向きなさいよ! 憐れまれても、蔑まれても、前向いて笑ってる奴を非難することなんて誰にもできやしない! 自分でどうにかしなさいよ。自分で。あんたにも考える頭がついてるでしょう?」
「……芦原さんは……」
「真優」
「あ、あしはらさ……」
「真優」
「ま、真優は、わたしのことを恨んでないの?」
「恨む? 何を?」
「……く、九々葉さんにひどいことを……」
「……ひどいこと? ……ふーん」
「な、なに……?」
「いや、結局、自覚してるのかって思っただけ」
「……そんなの」
「わたしは恨んでないっていうか、藍ちゃんが気にしてないっていうなら、わたしが恨むとかいうのも筋違いかなって思うだけ」
「……そ、そう」
伏し目がちにつぶやく愛子ちゃんに、真優が優しく問いかける。
「……それじゃあ、納得できないわけ?」
「……え?」
「わたしは藍ちゃんがあんたを憐れんでるとか思わないし、そう感じるのはむしろあんたのせいだと思う。そんな理屈じゃ、納得できないのかって話」
「納得するとか、そういうことじゃ……」
「じゃあ、どうしたら満足? あんたが羨んでる藍ちゃんが失敗してどん底に這いずり回る姿でも見れば満足? それとも自殺するまで追い込んだりすれば満足?」
「……そんなことは」
「今さらいい子ぶっても、あんたの腹の内が黒いってことは公衆の面前で披露済みだから、取り繕っても無駄よ」
「……っ」
「で、本音は?」
「…………そ、そんなのぉ」
「なにその声、きもちわる」
さらっとひどいことを言う真優に、肩をびくつかせる愛子ちゃん。
「恥ずかしがっても意味不明だから。ここまでぶちまけちゃったんだから、いっそのこと、言いたいこと藍ちゃんに言っちゃえば?」
「……ぅうう」
「え、えっと……」
わたしを見て涙目でうなる愛子ちゃんになんと言葉をかければいいか、まるでわからない。
やがて開いた彼女の口から紡がれた言葉は予想外のものだった。
「藍ちゃんばっかりうらやましい!」
「………え?」
「うらやましいうらやましいうらやましい!」
「……あの? 愛子ちゃん」
「どうして、そんなにかわいいの? 優しいの? 強いの? 藍ちゃんに親近感覚えてたわたしが馬鹿みたいじゃん!? 遠いよ! 大人しいだけの人だと思ってたのに! 芯が強いし、自分を曲げないし、努力家だし、かわいいし、彼氏いるし、むかつくもん! めちゃくちゃむかつくもん」
「……」
果たしてわたしは文句を言われているのだろうか? それとも褒められているのだろうか。
「ありがとう……?」
「なんでお礼言うの! わたしむかつくって言ってるんだよ!」
「はあ……」
涙目で怒り顔で睨む彼女に、薄い息を吐く以外にない。
「はあっ……はあ……、はあ……」
「だ、だいじょうぶ?」
矢継ぎ早に文句?を言って息切れする愛子ちゃん。彼女の情緒が心配になってきた。
「……だいじょうぶじゃない」
「え?」
「こんなことしちゃって、もう、わたし誰にも相手にされないもん。クラス中からいじめられるもん。迫害だもん。弾圧だもん。天安門事件だもん」
「いや、最後のはちょっと違うんじゃないかな?」
「……うえーん」
挙句の果てには声を上げて泣き始めてしまった。
あまりと言えば、あまりな変わりように、クラスのみんなは唖然としている。
あの緋凪さんも言葉がない様子だ。
「……だ、だいじょうぶだよ? 愛子ちゃん」
「な、なにがぁ?」
「ほ、ほら、わたしは別に恨んでないし、一緒にいてあげるから」
「……でも、わたしがむかつくもん!」
「あ、そうですか」
ここまで来てはもう、なんと言っていいかわからない。
わたしは大分、人に対して言葉を選ぶ方で、普段こんな言い方はしないんだけど……。
あえて言うなら。
愛子ちゃん、自分勝手すぎるよ。
「はあ……」
そばでしばらく様子を眺めていた真優も何度目かわからないため息をついた。
「もう、やめなよ。美月」
「……やめるって何を?」
「駄々こねるの」
「駄々こねてなんか……」
「いるから」
うん。それはわたしもそう思う。
「ってことで、もう、謝りなさい」
「……九々葉さんに?」
「そう」
「……」
無言でわたしを見つめる愛子ちゃん。
ややあって、彼女は言った。
「イヤ」
「……え?」
「は?」
がくっと肩を落とすような心持だった。
「あんた、なんで……?」
「強制で謝られても嬉しくないって、さっき九々葉さん言った」
「いや、だからって、謝らないと場が収まらないでしょ」
「……だから、自分の意志で謝る」
「……そういうことね。はあ、めんどくさ……。好きにすれば?」
投げやりに言う真優に頓着しないように、愛子ちゃんがこっちを向いた。
「ごめんなさい。九々葉さん。許してください」
「……うん。いいよ」
正直、胸中はものすごい徒労感でいっぱいで、許したいから許すとか、気にしてないから許すとか、そういうことよりも、早くこの不毛なやり取りを終わらせたいという気持ちが、わたしにそれ以上の言葉を口にすることをためらわせた。
子どもの喧嘩かよ。
涼がぼそっと言ったその感想はまさしくその通りで。
それ以外の感想なんて出てこなかった。
まあ、大人から見れば、高校生なんてまだまだ子どもなんだと思うけれど。