まどろみ
家庭科室に入ると、藍と芦原がお互いに頭を下げている姿が目に入ってきた。
買い出しの食材でいっぱいになったレジ袋を抱え、彼らの待つテーブルに向かう。
ぽつぽつと芦原と言葉を交わしていた藍が真っ先に僕に気付いた。
「あ、涼。おかえり」
「ただいま」
返す言葉と共に、どさっとレジ袋をテーブルの上に置く。
中身は主にクレープ生地の素材となるホットケーキミックスと、その具となる果物だったり、生クリームやアイスだったりする。
一つ一つは軽い物でも、積み重なればその重みは無視できないものになる。駐輪場からここまで抱えて歩いてくるだけでも一苦労だった。
「あれ? 相田君どこか買い出し行ってたの?」
「ああ」
芦原に加えてなぜかいる栗原が不思議そうに首を傾げて問う。
「テーブルに一つも食材が並んでないのを見たときから疑問に思ってたんだけど、何か問題でもあったの?」
「冷蔵庫に入れてたうちのクラスのレジ袋がなくなったんだよ」
「……どうして?」
「理由はわからない。間違って他のクラスが使ったんじゃないか?」
「ふぅん」
納得したように相槌を打つものの、彼女の表情は得心がいったようには見えない。
「誰かが嫌がらせでもしたんじゃないの?」
言いにくいことを平然と言葉にしたのは、栗原の傍で藍と芦原の様子を生暖かい視線で見つめていた百日だった。
無表情の金髪に胡乱な目を向ける。
「お前、ここでそういうこと言うか?」
「言いにくいからといって、言わなきゃ何も始まんない問題でしょ?」
「だからって……」
「あ、そのことなら問題ないの。ももちゃん」
僕がまたぞろ開けっ広げな百日の言動に苦言を呈そうとすると、藍が割って入ってきた。
「問題ないって?」
「どうしてそういうことになったのかっていうのは判然としないところなんだけど、解決策は考えたから」
「解決策?」
「毎日終業後にわたしが家に材料を持ち帰って、朝になったらまた持ってくれば問題は起きないかなって」
「……」
答えた藍に感情の浮かばない目を向け、彼女が小さく言った。
「それは解決策じゃないよ」
「え?」
「対応策ではあっても、解決策ではない。故意だろうが、故意じゃなかろうが、誰かがやってなきゃ冷蔵庫の中身が消えてなくなることはない。その事実から目を逸らして、ただ自分が面倒を被ればそれで済むと思ってる。それは逃げだよ。藍ちゃん」
「……わたし、そんなつもりじゃ……」
「わかってるよ。藍ちゃんは優しいからね。誰がやったかとか追求したくないんでしょう。それでもし故意に誰かがやったんだってことにでもなったとしたら、優しい藍ちゃんはその相手にどういう感情を向ければいいかわからなくなる。ほんとうに優しいよね」
「ももちゃん?」
「……なんでもない。ま、問題が起きないなら別にそれはそれでいいんじゃない?」
投げやりにそう言い捨てた百日は、これ以上その話に興味はないと言わんばかりに、大仰に両手を広げて肩をすくめた。実に芝居がかった仕草だ。
「……えーと」
言うだけ言って後は知らんという彼女の態度に、藍は困惑したようだったが、仕切りなおすように軽く咳ばらいをする。
「材料は涼が買ってきてくれたので、また試作を再開しましょうか。メニューも大分、まとまってきましたし」
その場の面々に向けて声を張る。
それから料理班と雑用係以外の三人に提案した。
「よかったら、三人とも、感想とかアドバイスとかいろいろ聞かせてくれないですか?」
ぱちくりと芦原が瞬きし、栗原が微笑み、百日は変わらず無表情に、それでも三人ともそろって頷いた。
テーブルの上に置かれたA4のルーズリーフにメニュー案が書かれている。
・ストロベリーチューズ
・ミントウェンズ
・ブルーベリーサーズ
・レモンフライ
・ベリーベリーサタデー
・スイートサンデー
・デッドマンデー
他飲み物等
最初見たときは後ろについてるチューズとかウェンズって何のことかと思ったが、曜日の英語名なわけだ。Tuesday.Wednesday.チョコバナナサンデーとかいう名前のスイーツもあるし、それほどおかしな名前でもないだろう。
ただ一点、デッドマンデーだけがやけに怨念がこもっているように見えるのは気のせいだろうか。
中身は普通にチョコ満載にして、デッド感を演出するらしいが。
ベリーベリーサタデーはストロベリーとブルーベリーの合わせ技で、スイートサンデーに関しては全部乗せ、ということだ。
「なかなかいい感じだね」
という感想をクレープ屋の提案者であり、現役JKである栗原が零していたから、本当にいい感じなのだろう。まあ、この場にはほとんど現役JKしかいないのだが。
「どうせなら、ダークヘルマンデーくらいやっちゃえば?」
などとという極端なことを言い始めるのは金髪変人だった。
「地獄の月曜日かよ」
「月曜ってほんと消えてなくなってほしいよね」
「月曜が消えても火曜日がそのポストに収まるだけだろ」
「この世の悪って消えないんだね」
はあ、とため息を吐く。
「毎日が金曜日だったらいいのに」
「日曜日じゃなくてか?」
「明日は休みだー、って毎日言いながら、永遠に平日に捕らわれ続けるの」
「拷問だな」
「今日がんばれば……、今日がんばれば……、ってずっと自分を叱咤激励しながら一日を過ごし、くたくたになって疲れて帰ってきて、泥のように眠った次の日の朝。
目覚めると、また金曜日が始まるの。
昨日も金曜日だったことなんて一切頭から抜け落ち、さあ、今日一日がんばれば、明日は休みだー。そして、自分を叱咤激励しながら一日を過ごし、朝目が覚めると……」
「また金曜日の朝が始まるんだな」
想像するだにおそろしい。
百日と顔を突き合わせ、二人してぞっとする。
「何を不毛なことを考えてるの、君たちは」
呆れたように、栗原が首を振った。
「そんな益体もないこと考えてないで、準備手伝いなさい」
「「はーい」」
百日と声を合わせて返事をした。
こういうところで気が合うから、微妙に楽しかったりするんだよなー。百日と話すの。
クレープを作る過程において、もっとも繊細さが要求されるのは生地を焼く工程であって、それ以外の果物のカットや盛り付けは、多少不格好にはなっても僕でもできないことはない。
ないのだが、そもそも家庭科室のコンロ自体、使える火種が二つしかない。二人が生地を焼き、それ以外はカットや盛り付けとなるが、そこは残りの女子の面々がやってくれるため、僕はあまりやることがなかった。
買い出しに行った分休んでもいいよ、と藍が言うので、そのお言葉に甘えて、彼らが作業をしているテーブルから離れ、窓際の方に椅子を持って行って座り、エプロン姿の女子たちが忙しなくスイーツを作っている様子を眺めていた。
その中にはここ最近、藍と距離を取っていた芦原の姿もある。展開の流れは理解できないが、きちんと仲直りできたのなら、よかった以外の感想は出てこない。
栗原は藍と並んで生地を焼いている。二人とも料理スキルが高いため、重要な役割をこなしているのだろう。時折、談笑しながら真剣な瞳で薄黄色の液体を見つめている。
百日は長い金髪を一つにまとめ、桃色のバンダナを頭に巻いている。焼けたクレープの生地に生クリームを塗っているところだ。白い横顔を見つめていると、視線に気づいた彼女が僕の方を見て、唇だけを動かした。言っている言葉は「え、っ、ち」と言ったところか。
僕と同じ男子であるところの日和は、絹川と弓広に挟まれて食材のカットを担当している。きつめの女子に挟まれて居心地が悪そうだ。それでも、二人にいくらか話を振ったりしているところを見ていると、メンタル強いなと思わされる。
その二人、絹川と弓広について知っていることは少ない。
絹川はクラス会のとき、昼食の折に藍と同じグループにいたので、なんとなく記憶に残っているが、取り立てて何か思うところはない。同じ雑用係で、僕とはまったくかかわりを持ってこなかった。藍とは微妙に接点があるっぽいが。
弓広は藍と仲のいい友達で、目つきが鋭い以上に考えることは少ない。顔つきが怖かったりするところに親近感を覚えないでもないが、同族嫌悪的にあまり近づく気にもなれない。
それ以外に知っている女子となると、と考えて、あと一人。
食材を切っている弓広たちと生地を焼いている藍との間を、所在なさげにうろうろしている美月。
大人しく、大人しいがゆえに孤立しているように見える地味目の女子。
特に作業をしているわけでもないので何をしているのかと言えば、何をすればわからなくて右往左往しているといったところか。その気持ちは大いにわかるので、なんとかしたいような気持ちも多少はないでもないが。休憩中の身の上なので、できることは少なそうだ。
と、さすがに視界の隅でちょろちょろされては気になるのか、藍が彼女に目を留め、小さく手招きをした。それから寄ってきた彼女に、何事かを言いつける。
安心したように息をついた美月は、藍に距離を寄せて、フライパンの上を覗き込むようにした。
大方、近場で見て焼き加減等を覚えてほしいとでも言ったのだろう。
他に仕事もなさそうだし、妥当な提案か。
「ふむ」
そういう気遣いを藍は自然にできるようになっている。
けっこうなことだ。
幾ばくかの間、そんな彼らを眺め、虚無の状態に没する。
やがて、生地を焼いていた栗原がすっと顔を上げた。
隣の藍に何事かを矢継ぎ早にまくし立てている。
続いてフライパンの番を近くにいた美月に任せ、家庭科室の外に出て行った。
なんだと思ってしばらく待っていると、がやがやとした喧噪とともに、料理班以外のクラスメイトの面々がやってきていた。
栗原ができたクレープの切れ端を順番に差し出しているところから見て、試食の感想を求めているのだろう。
クラス全員がそろっているわけではないので、希望者を募ったのだろうか。その中には、緋凪の姿もある。あと知っている顔は川端。斎藤がいないのはクラスの方の監督のためか。
にわかに騒がしくなってきた我らがクラスのテーブルの中で、藍は真剣にクレープの生地を焼いている。
試食にしても、まだ全員分に行き渡っていないため、急いでいるのだろう。
眉寄せた真剣な表情を見つめ、ほんと藍はがんばってるなあ、と小さくつぶやく。
他の面々もなんだかんだと一生懸命で、藍に何かと突っかかっていた緋凪だって、あくまで一意見を述べていただけであって、彼女の妨害をしていたわけではないし。
栗原も百日も斎藤も芦原も、その他藍の友達たちも、クラスメイトも、僕だって、少しずつ前に進んでいる。
活気と和気あいあいとした雰囲気の中、クラスが一つになっているという実感を得る。
遠目から眺めるだけでもその空気はまあ、いいんじゃないかと思える。
ひねくれて否定するようなものでもないだろう。
楽しそうにしているのだから、喜んで称賛してあげればいいのだ。
「……」
だからこそ、その空気の中でそれに真っ向から反する行動を取る者がいるということが解せない。
何の動機が合って、材料を持っていくなどするのだろうか。
そのことが、頭の片隅にわずかに引っかかっていた。
「……」
考え考えする傍ら、忙しなく働いている彼らをぼーっと見つめていると、なんだか視界がかすんできた。
引っかかる思考はあれど、そこはそれ、生理現象には勝てない。
藍のために、全力でペダルを漕いで買い出しに行ってきたので、自覚はなかったがけっこう疲れているらしい。
ねむたい。
頬杖を突いてうとうととしていると、周りの雑音が気にならなくなる。
他のクラスもいろいろと試作品づくりやら何やらやっていて、それなりに騒いでいるのだが、その大小さまざまなざわめきも心地よい子守歌に聞こえてきた。
「……」
軽く意識を手放す。
頬杖を突いたまま、眠りに。
「……?」
なんとなく小さい悲鳴のようなものが聞こえた気がして、目を開けた。
視界の中心に藍の後ろ姿が見える。
それからざーっという水の流れる音。
藍が手を冷やしている。
やけどでもしたのだろうか。
やけど……?
慌てて身体を起こす。
蛇口の前で彼女が手を流れ出す冷水に浸している。
周りには多数の女子達。
心配するように声をかけている。
だいじょうぶ?
いたくない?
ひりひりする?
へいき?
がやがやがやとかしましく。
ぺちゃくちゃぺちゃとそうぞうしく。
「ごめんね。わたしの不注意だった」
そう笑いかける彼女の傍ら、そいつが唇の端を喜色で歪めているのを僕は見た。