過去
金曜日の放課後になって、九々葉さんと約束した勉強会は明日に迫っていた。
少しどころではなくうきうきした気分のまま、荷物をまとめる。
リュックサックに教科書を詰め込んで、担ぎ上げた。
後ろを振り向くと、九々葉さんはすでに下校している。
最近は、一言二言でも会話してさよならすることが多かったが、今日はホームルーム終了とともに足早に教室を出て行った。明日の準備でも何かあるのかもしれない。
「相田君、ちょっといい?」
僕も帰って明日着ていく服でも考えますかね、と教室を出ようとたところで、そんな言葉がかけられた。
視線を向けると、栗原るりが僕を見ていた。
「何か用か?」
「用ってほどじゃないけれど、少し訊きたいことがあって……」
「ふぅん?」
彼女はどこか所在なさげに制服の肘の辺りを握っている。
すぐに用件を切り出さないところを見ると、クラスの中ではあまりしたくない話なのだろうか。
「……栗原って、バスと電車で来てるんだよな?」
「え、そうだけど」
「なら、駅まででも一緒に行くか? 僕は自転車だから、多少遠回りになるけど、一緒に行けないこともないし」
「ほんと? ありがと」
彼女は気持ちを明るくしたように微笑んで、それから自分の席から鞄を持ってきた。
「行こっか」
「ああ」
答えつつ、何となくクラス内の様子に目をやる。
男子の何人かはちらちらとこっちの様子を窺っていて、栗原とよく一緒にいるところを見かける女子たちはひそひそと何事かを話し合っていた。
まあ、当然の反応だろう。
クラスで孤立している男子が、クラスの中心にいる女子と一緒に帰ろうとしているのだ。
当事者の僕だって疑問に思う。
栗原るりは一体何を考えてこんな行動を取っているのか、と。
駐輪場から自転車を取ってきて校門で合流すると、彼女と並んで自転車を押して歩き出した。
隣を歩く女子の栗原に遠慮して、少しゆっくりめに。
からからからと、自転車のタイヤが回転する音がした。
「それで、話っていうのは?」
持って回ることをせず、単刀直入にそう尋ねる。
聞いた栗原は苦笑した様子だった。
「相田君ってほんとに変わってるね。世間話とかそういうの、しようとか思わないんだ?」
「人と会話をするときに当たり障りのない会話をしなければいけないルールでもあるのか? たとえあったとしても、それで損を被るのは僕だけだから、別にいいだろ」
「そっか。まあ、それもそうだよね」
てっきり僕の価値観など理解されないかと思ったが、そういうこともなく彼女は納得したように頷いた。
「わたしが訊きたかったのはね」
「ああ」
「……あー」
言いかけたところで、なぜか栗原は言い淀むようなそんな声を上げた。
「なんだよ」
「や、やっぱり君に訊くようなことじゃなかったかも……」
「はあ?」
訊きたいことがあると言うから、何か大事なことなのかと思って、わざわざ一緒に帰ることにしたというのに、今更そんなことを口にするのか。
やや辟易した心持になった僕は彼女の言動に若干の苛立ちを覚えるとともに、その意趣返しではないが、心当たりのあることについて、こっちから話題を振ってみることにする。
「どうせ九々葉さんとのことじゃないのか? あの子の態度がまたちょっと変わったんじゃないか、とか、そういうようなことが訊きたかったんだろ?」
僕がそう言うと、ちょっと驚いたように彼女は目を見開いた。
「ど、どうしてわかったわけ?」
「お前が僕に最初に話しかけてきたときに訊いてきたことがそれだったしな。他にないだろ」
「そ、そっか」
ためらいがちに俯き、肩にかけた鞄の持ち手を握りしめた彼女はややあって口にする。
「九々葉さん、どこか雰囲気が明るくなったよね? その、彼女と何かあったの?」
「それが何かお前と関係があるのか?」
「……関係はないけど……。でも、気になるでしょ?」
「そうか?」
たとえクラスメイトだろうが、自分にまったく関係のない人間が誰とどこでどんなことをしていようが僕は気にならない。
しかし、お人よしであるところの栗原にとってはそうではないのか、表情を見ても、本気で何か気になるところがあるのだと思われた。
「何かあったかと問われれば、確かにあったのかもしれないけど。でも、それがあの子の今の態度に影響してるかどうかはわからないぞ」
「いいから、教えてよ」
「……一緒に天文部の天体観測イベントに参加してきたんだよ。夜の学校に集まって、星を見てな。言ってしまえば、それだけだ。たったそれだけのことで、ああも変わるとは思えないし、きっと何か他に変わるようなきっかけがあったんだと思うぞ」
あの子が変わるきっかけに僕がなれなかったということに関しては、少し悔しいと感じるところがないではないが、それでも、彼女が前向きになることができたのなら、それが一番いいに決まっている。
「……」
僕の話を聞いた栗原は考え込むように、唇に指を当てた。
「何か、気になることでもあるのか?」
その横顔に普通ではない真剣みを感じて、そう尋ねる。
「え!?」
慌てたような声を出して、彼女が顔を上げた。
「べ、べつに……。た、たしかに何が原因だったのかはわからないよね、そうなると……。う、うん、きっと他にきっかけがあったんだよね?」
「いや、僕に訊かれてもわかるわけないだろ」
九々葉さんの気持ちがわかるのなら、とっくにもっと仲良くなっている。
言うと、栗原がうんうんと大げさに相槌を打つ。
「そ、そうだよねー。わかるわけないよねー」
「お前、何かしゃべり方おかしくないか?」
「そ、そんなことなくなくない?」
一昔前のギャルみたいなしゃべり方をして、彼女はあからさまに動揺しているようだった。
何で動揺しているのかはわかりもしないし、実際どうでもよかったが。
「もしお前が九々葉さんのことを心配しているのだとしたら、問題ないとだけ言っておく。少なくとも、お前が以前言っていたように、クラスで孤立はしないさ。たぶんな」
動揺している原因がそこにあるのだとしたら、明言しておく必要性があるかと思い、そう口にする。
しかし、栗原はあまり納得したようには見えなかった。
「……そういうことじゃ、ないんだけどな」
そして、小さく小さく、そうつぶやいた。
僕はそれに何か反応を返すべきなのか迷ったが、その前に彼女が明るい微笑みを向けてきた。
「なら、そのまま彼女のそばにいてあげてね。間違っても、九々葉さんがクラスでいじめられたりしないように」
「……ああ」
そんなことを栗原が言って、僕はそれに力強く頷く。
絶対にそんなことはさせないさ。
もう二度とな。
もし彼女をいじめるような存在が目の前に現れたとしたら、たぶん、僕は自分を見失うだろうな。
心に強くそう刻む込む僕の横顔を、どこか切なげな眼差しで彼女が見つめていることに、僕は気づかなかった。